展示品
[作品9]
■クンドゥーズの宰相、アートマーラーム
Atmaran, Prime Minister of Koondooz 
(英語原文をよむ)

 1841年9月、私が友人のアレクサンダー・バーンズ士爵から短い手紙を受け取った時、私は、スィヤーフ・サング(黒い岩)と呼ばれる山の低い場所にあり、市街地の東半マイル[約805メートル]に位置している、ファキールのズィヤーラト(巡礼の場所)から、カーブルのスケッチに取り組んでいた。その手紙は、クンドゥーズの支配者であるミール・モラード・ベグの宰相その人の訪問のため、私に準備を要請するものであった。そのとき私はウズベク人の騎兵隊を観察していて、ほとんどそれを読んでいなかった。そのウズベク騎兵隊は、ミルクのように白いラバの上に輝く緋色の物によって先導され、曲がりくねった道や、礼拝所と市街地の間に位置する樹木の茂った果樹園を通り抜けてきたのであった。豪華に装飾された鞍から降りて、板でできた倒れそうな階段を重い足取りで上がると、くるみの堅い外皮のなかの騒がしい宿主が音を立てるように、彼自身とその従者たちの鉄を被せたブーツのカタカタいう音が反響した。

■アートマーラームとの会見
 そして、大きな男が私の前に立っていた。マーンダ・ナバシー (あなたが疲れませんように)という私の挨拶、そして、彼の返礼である ゼンダ・バーシー (あなたが長生きしますように)という通常のやりとりの後、宰相閣下は座られた。彼は立派な装いをしていて、先の尖った絹の帽子に見事な白いカシミヤを巻き付け、左耳の下でウズベク風の飾り結びにしていた。その恰幅の良い容姿に、いくつかのチョガ(毛裏付き外套) を重ね着にしていた。内側のチョガは縞や斑模様の絹で作られていたが、外側のは、その輝きが太陽を凌ぐ、最も高価な緋色のイギリス製の広幅織物で、純金で作られた飾り紐ボタンと房で前面の下が装飾されており、襟から裾まではショールの派手な意匠の厚みのある金の刺繍で切れ目なく縁取られていた。彼の脚はウズベク人独特のブーツで覆われていて、そして他の場で記述したが、その中にはズボンがたくし込まれていた。彼は悪賢く見える年老いた男で、彼の表情は抜け目のなさと知性のきらめきで輝いた。さらに、彼の小さな目は、常に静止することなく注意深いものであり、豊富なアンチモンの塗布によって、つまり目の周囲をアンチモンが囲むということにより、普段よりさらに鋭さを示していた。しわの多い額の下に蹄鉄形に塗られた明るい赤色の塗料により、彼のカーストや家柄を示していた。最後に付け加えたことのために、きちんとマホメット[イスラーム]教徒の衣装を身に付け、長い口髭と、そして身の毛のよだつような剃られていない顎鬚を有する彼を、誰がヒンドゥーであると識別できたであろうか。

■アートマーラームの経歴
 アートマーラームはペシャーワル出身のヒンドゥーで、最も低い出自であった。しかし、彼は自身の才能と技量によってクンドゥーズのミールすなわち君主であるモラード・ベーグの宮廷において、ディーワーン・べーギー (宰相)の称号を有して、モラード・ベーグ殿下の政府と財産の唯一の管理者となるほどの地歩を築いた。彼は、みずから遂行している政策のために大きな影響力を有しており、その影響力を駆使してアレクサンダー・バーンズ士爵のブハラへの旅行の際に、この今は亡き将校が、もし死んでいないなら、彼を獄中から救おうとした。彼は、ムーアクロフトとトレベックの良い友人であり、この両名はこの同じ支配者によって死刑を宣告され、その手から逃亡したのだが、周囲の野蛮人たちから裏切りと失望を味わう結果となった。これに加えて、彼らは不快な気候によって健康を害し、帰還への希望がすべて断たれて、衰弱していき、1834年に熱病で亡くなった。今は亡きロード博士も1837年に、彼のクンドゥーズへの任務中に、この誠実なヒンドゥーから大変価値のある支援を受けたことに謝辞を表した。このことから、我々は彼が主人に対して発揮する影響力を判断してよいだろう。というのは、彼の主人はイギリス人たちへの嫌悪とイギリス人たちを追い回す際の裏切りや蛮行、残忍さでよく知られた人物だからである。

■アフガニスタンにおけるヒンドゥー
 アートマーラームは莫大な富を蓄えたと考えられている。そして、この民族がウズベク人たちによって制されているために受ける蔑みとして、常に使用が禁止されていたターバンやカマルバンド[腰帯]を身に付けることを許された最初のヒンドゥーであった。彼はこの特権を自分自身のためだけではなく、500人にも達する彼の一門、一族、奴隷たちのために獲得した。トルキスタンはヒンドゥーに対して不寛容である唯一のマホメット[イスラーム]教の国ではない。ペルシアでは、ヒンドゥーたちの状況は本当に悲惨である。アフガニスタンにおいては、彼らの信仰を軽蔑され、彼らの欲深い取引とへつらう物腰のため侮蔑され嘲られてはいるが、その礼拝の場や偶像を許されている。しかし、公衆の面前で礼拝を行なったり、偶像を人目にさらすことは禁じられ、それに対しては死刑が課される。彼らは宗教的な行列を起こしたり、参加したりすることは禁じられており、信者のよくある挨拶をするのに、アッラーや聖者たちの名を用いたり、また、彼らの支配者たちが神聖と見なすものを口にすることはない。彼らは腰帯、あるいはターバンも身に付けることを許されておらず、縄が腰帯の代わりになっている。そして、ターバンの代わりに、彼らは奇妙に高い円錐形の帽子を被っている。しかしながら、我々の短い統治期間に、ヒンドゥーたちは徐々に勇気を奮い起こし、何らムスリム[イスラーム教徒]と変わらない服装をするようになった。この無害でこつこつと働く人々への迫害にもかかわらず、彼らの交易や投機への愛着はあらゆる物を通じてあらゆる場所で、彼らを支えている。最も小さく汚い村がある場所では必ず、そこに、貿易業、銀行業、金貸し業を行なっているさらに小汚いヒンドゥーが見つかること請け合いである。

■ヒンドゥーの有力者
 あらゆる大きな都市や町では、それぞれ、高い政治的地位や信頼ある立場にある1人のアートマーラームに出会い、彼らはずっと昔にインドから移住してきたと語ることだろう。数千人のヒンドゥーたちが、自分たちの妻や家族とともに、我々の保護を求め、我々に従ってインドに行くために、我々の足下に身を投げ出した。おそらく、1842年にガズニーの城塞がシャムスッ・ディーンに降伏した際に、アフガン人たちがガズニーの彼らの同胞を全員殺害したという悲劇のせいで、哀れな人々は彼らが慣れ親しんだ国を捨てるための行動を起こしたのであった。アートマーラームの地位と権力への最初の一歩はその学識であった。彼は読み書きができたが、ウズベク人たちは、ムッラーたちを除いては、誰も読み書きができず、彼らは完全に文盲である。彼は結果的に、召使から権力のある宰相の地位まで進んだ。多くのアジア人のように、彼はウズベク人の主人によって委ねられた力を裏切ることはなかった。

 
一覧にもどる
一覧にもどる