展示品
[作品7]
■コーヒスターンの長、ハージャ・パードシャー
Khoja Padshauh, A Cohistaun Chief 
(英語原文をよむ)

 以下に物語るのは、鷹匠の話[図4]の中で始めた我々の渓谷における偵察紀行の続きである。カーレーザイを出立した後、コドリンドン大尉と私の兄が加わって我々の一行は増えた。また、渓谷を通って砦から砦へ騎乗して我々が移動したとき、各々のハーンたちが部下を率いてお偉方の一行に敬意を表しようと詰めかけ、膨大な数の護衛隊となったが、このスケッチに示したのはそうした一団の一つである。我々は、1日長い時間をかけて視察を行うため、早くに起床するよう前日の晩から打ち合わせておいたので、ワクテ・ナマーズ すなわち礼拝の時間、つまり夜明けには騎乗していた。我々が大変起伏のある、土地が相当に荒れた地域に入ったとき、まだ月が出ていた。そしてその後、突然バグラームの耕作されていない平坦な平野に出た。我々はその地を古代都市コーカサス・アレクサンドリアの遺構であると考え、大変興味深く調査した。我々は、偉大なアレクサンダー大王の乗馬ブケパロスが埋葬されていると考えられている有名なトプ すなわち墓を注意深く調べるために下馬した。我々はその墓が山の突端にあり、その両側は砕けた岩が膨大に堆積していて通行不可能になっていることを知った。

■コーカサス・アレクサンドリア
 バグラーム平原を上から見下ろすと、塚や導水管などの膨大な数の遺構が広がっていた。コインや指輪、そしてその他の古い遺物がここで発掘されており、アフガン人の村人たちは一握りの硬貨を取り出して見せた。しかしながら、それが本物かどうかは疑わしかった。なぜなら、彼らはこれらの硬貨を造る達人であるからだ。ここから我々はパンジシェール川を渡って、大変小さい砦であるジョルガで朝食を並べた。1840年の失敗に終わった激動の間、ミール・マスジェディーとハージャ・パードシャー(このスケッチにおける主要な人物)は、他の著名な長たちとともに、そこから逃亡することを許された。ハージャ・パードシャーは、コーヒスターン東方のヤーギー(険悪)で独立した谷ニジュラーウからやって来て、我々の視察旅行の間、献身的な働きをみせた。

■聖者の音楽
 チャーリーカールへと戻ると、レーグラワーン (流れるあるいは動く砂粒)が興味深い次の訪問先であった。これは大変不思議な現象で、広々とした細かい砂の広がりが、山の斜面をその頂からほとんど垂直に降りてくるのである。それは、谷のどこからでもはっきりと見ることができる。砂は絶えず下に動いているが、決してある限度を超えて流れることはない。有名な聖者が近くに埋葬されており、アフガン人たちは参詣や行楽のために、そして特定の日に聖者のために演奏するという楽隊の音楽を聞くためにそこに集まる。その好ましい日、金曜日ではなかったが、我々は確かに素晴しい音を聞いた。その音はアイオロスの琴[風鳴琴]のかすかな音楽に似ていなくもない。しかし、彼らが断言するように、確かにドラムにもトランペットにも似ていない。それが移動する砂の反響と動きのせいなのかどうか、我々には言えなかった。

■絶壁の登攀
 アフガン人たちは我々にこの険しい不思議な絶壁を上まで登ると幸運があると確約したが、それは400フィート[約122メートル]以上の高さで、登ることは決してたやすいことではなかった。我々の一行の多くの者が試みたが、滑りやすくまた細かな砂が絶え間なく動くため、40人中1人か2人のみが成功しただけであった。多くの者は、その際に「ほこりを食べた」。彼らは煩わしい服装のためにまっさかさまに転がり、互いに突き転ばしあい、大声で笑い、不意に下に落ちる際、靴やブーツ、ターバンをなくした。我々はその聖者を上からやってくる騒音や叫び声で驚かせたにちがいない。もし彼が、我々が無作法にかき乱した砂の覆いの下に眠っていたのであれば。そして、我々が彼をその音楽や瞑想の中に残して去ったとき、間違いなくかの聖者はお喜びになったにちがいない。レーグラワーンの近くには、地下室があり、壁と天井には人やさまざまな動物の群れが描かれている、小さな建物がある。それらの絵は古代的な様相をしており、アフガン人の言うところによれば、その地方のかつての住民たちによって信仰されていた偶像崇拝の遺構だそうである。

■パルワーンダラ
 我々はその後、パルワーンダラの戦場に向けて騎乗した。そこで、あの流血の、不幸な星回りであった戦闘に参加した私の兄は、ドースト・ムハンマドと我々の軍が取った場所を我々に指し示してくれた。正しい政治情報のおかげで、ドースト・ムハンマド殿下は(堅固な山の村であるイスターリフまで進み、カーブルから人員と資金が送られるまでそこに留まろうとしていた)谷のちょうど入口で道を遮られた。我々の部隊が到着したとき、彼の歩兵が目の前の丘陵をすばやく登ってゆこうとし、騎兵が夜の間に出発した土地へ引き返そうと低い尾根を進んでいるのを見た。ロード博士が政務官としてその進軍に参加していたが、彼らの意図を解して、第2騎兵連隊の二つの騎兵大隊にその行く手を遮るよう頼んだ。彼らは山々の麓から、敵が急いでいるその地点まで馬を早足で駆けさせ、敵より前にそこへ到着した。この巧妙な動きは敵を小さな離れた山へと追いたて、我々はみなドースト・ムハンマドをついに大鉢の中に捕えたと喜んだ。

■窮地のドースト・ムハンマド
 そのとき、立派に武装して、王族の如く騎乗し、将校たちにイギリス人もかくやというほど見事に指揮された300騎からなるドースト・ムハンマドの騎兵が、我々の軍に向かってやってくるのが見えた。私の兄はそのジャーンバーズとともに彼らから約1マイル[約1.6キロ]離れたところに立っていた。アフガンの騎兵は、指揮していた将校により、その騎兵部隊に同行することを禁じられていた。それは、いくらかは、アフガン人がドースト・ムハンマドを敵にした場合、彼らを信用することはできないと考えられていたためである。この場所からは、敵軍の騎兵部隊が密かに、その土地の急峻さが許す限りの速さで、山の麓を降りてくるのを容易に見ることができた。ドースト・ムハンマドは約250名の忠実な従者とともにそこにいた。彼らは絶望し、最後の戦いを行なおうと降りてきた。彼らも我々も、彼らの成功の見込みがほんの少しでもあるとは想像していなかった。むしろ戦機とは意外なものだ。彼らは徒歩で前進し、山裾から100ヤード[約91メートル]のところで停止した。それからアミールがターバンを脱ぐのが見えた。それは最も惨めな嘆願の方法であった。「バ・ナーメ・ラスール (預言者の名において)」彼は従者たちに戦うように懇願した。「さもなくば」彼は付け加えた。「私はおしまいだ」。

■ドースト・ムハンマドの降伏
 彼の祈りは望んだとおりの影響があった。彼らは我々の部隊から30歩以内のところまで進み、停止して銃撃し、それから再びしっかりとした早足で進んだ。それから塵埃(じんあい)が見え、それからサーベルのきらめきが、それからさらに塵埃が見えた。そして皆がドースト・ムハンマドと彼の運命は永遠に終わったと考えた。しかし、見る者をぞっとさせたことに、敵の青い軍旗はいまだに、誇り高く我々自身の騎馬大隊の中央にはためいていた。まず解き放たれた馬が、その後にかぶとも剣も身に付けていない騎兵が見え、次に、我々自身の騎馬部隊の主力が怯えた羊のように駆けてゆくのが見えた。その勇敢な将校たちはみな死ぬか負傷していた。全軍を率いていたフレイザー少佐が突撃命令を出し、全将校が前に進み出て早駆けで走り出したが、兵で彼らに続いたのはせいぜい多くて5人だけだったようであった。第1隊は逃走し、第2隊は迅速に前進せず、騎馬大隊左翼は自分たちの高貴な指揮官たちが犠牲になるのを何もせずに眺めているだけに見えた。この筆舌尽くせぬ見下げ果てた行為において、フレイザーとポンソンビーはひどい負傷をし、同じ連隊のクリスピンは、パースィバル・ロード博士(政務官)とブロードフットとともに殺害された。インド人たちはしかし、剣を抜くことさえなく疾駆した。数において大変劣っており、より小型の馬に騎乗していた敵は、駆逐されたに違いなかった。この憂鬱な勝利の結末はよかった。ドースト・ムハンマドは戦場から轡(くつわ)を引くこともなくまっすぐにやって来て、特命全権公使に降伏した。こうして、不可解な戦闘の後、我々はこの国における優位を確かなものとしたのである。

■同僚たち
 ロード博士は、後に十分に証明されたように、戦闘中に亡くなったのではなく、大変深刻な裏切りの策略の犠牲となって殺害された。我々は彼とフロードフットの墓をパルワーンダラからの帰途に訪れた。そして、チャーリーカールで、今は亡きコドリントンとサリスバリーとともに晩を過ごすために馬を止めた。この両名は、カーブルで我々の軍にたいする恐るべき虐殺が始まったとき、コーヒスターンで大変悼まれる亡くなり方をしたのであった。

 
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