展示品
[作品4]
■コーヒスターンの鷹匠
Hawkers of Cohistaunn 
(英語原文をよむ)

 カーブルの北方の渓谷・コーヒスターン(山地)に住むホダーダード(神の与えたもうた)とグル・ディーン(信仰の薔薇)は、私の亡き兄ラットレー大尉麾下(きか)の騎馬衛兵隊に属しており、その鷹匠としての能力により、遠乗りや狩猟目的での旅の際には常に我々に同行していたものであった。このあたりの地域においては多くの種の鷹がいるが、その渓谷では2種が鷹狩のために選ばれている。第一の種はカモシカやノガンを追い込むためのものでチャルグ と呼ばれている。第二の種はハイタカ(バーズ )に似ており、キジ、ウズラやその他の小さな獲物を捕らえるために調教されている。アフガン人がこれらの鳥たちを罠で捕えて調教し、それらを獲物に向けて放つ様を見るのはまことに興味をそそられる。

■鷹の調教
 野生の鷹は網で捕えられ、通常、足や胸に付ける紐、頭巾、鈴、翼の紐などでつながれる。それからその目が縫い閉じられ、暗い部屋の止まり木に置かれる。2、3日間飢えさせられ、その後餌を詰め込まれる。約7日後にまぶたの縫い目のひとつが解かれ、扱いやすくなったと判断されると、死んだウズラを前に調教師の拳の上に止まらされ、その後ビヤー(来い)という合図と共に捕食に向かう。こうなれば調教はほとんど完了したも同然である。その時点でその目の縫い目は完全に解かれる。そして、空を急上昇するウズラを襲って飼い主のところに持ってくることが出来れば、調教が完全に終わったと判断され、すぐに狩場で初舞台を飾ることになるのである。通常、鷹を調教するには6週間かかる。年老いた鷹がこのようにして賢く従順なのは驚くべきことである。とりわけ、同じ鷹が何年か続けて同じ鳥狩人によって捕えられる場合――これはしばしば、鷹につけられた個人の印によってわかるのだが――はなおさらである。なぜなら、狩りの季節が終わるとそれらの鷹を自由にするのが慣わしで、それらの鷹が再び捕えられるとまた同じ様な厳しい調教が再び始められるからである。

■コーヒスターン視察
 ヘラートにおいて令名をはせたわが友人エルドレッド・ポッティンガー少佐との朝の狩りにおいて、([鷹匠の]ホダーダードが私のために調教してくれた)バーズ[ハイタカ]は朝食前にウズラを20羽捕まえた。その後、我々は丘陵の間を散策し、さらに遠くにある城砦へ行こうと決めた。というのは、人々に蜂起を促す周辺の族長たちによる重要な印が押されたがされた多くのヤーギー (怒りの)の書状を、私の兄が押収したため、ポッティンガー少佐はみずから渓谷の状況を調査することを望んだのである。このことは、これほど早くから、この地域が一斉蜂起を準備していることを示していた。1841年9月26日、我々は40のサワール (騎兵)の護衛と共に騎乗し、バラーイエ・サイル (楽しみのために)ラグマーニーにある我々の要塞から4マイル[約6.4キロ]のところにあるミヤーン・シャーフにて止まった。さらに40騎が我々に加わるのを待つためであったが、それはある友好的な族長の提案によるものであった。彼は自身の麾下にある50の歩兵と騎兵を我々の護衛に加えてくれたが、同時に我々が遠くニジュラーウ付近の山中にあるカーレーズィーへ行軍するのを思いとどまらせようともしていた。かの地は反意をもつこの国の族長、盗賊、人殺しの避難所となっていた。彼らの中にはシャーを承認することを拒んで渓谷を放逐された強力な貴人であるミール・マスジディーも含まれていた。彼の息子はかの地カーレーズィーのマリク、すなわち長であった。
 ミヤーン・シャーフのマリクは我々にイスティクバール (歓迎のための訪問)をし、我々に1頭の羊、何羽かの闘技用のウズラ、チーズ、すばらしい果物1籠を進呈した。麻、粟、クローバー、綿花の茂みに囲まれた空地に座り、ライーヤト (農民)が収穫した穀物をとても素朴なやり方で脱穀し、風選するのを見ていた。口輪を外した雄牛を駆って穀物を踏みしだかせ、続いて女性たちがそれを空中に振りまいて穀粒と籾殻を分けるのであった。日陰に座って果物をむさぼり食べながら、我々2人は目前に広がる光景にうっとりとしていた。

■コーヒスターンの風景
 我々は高みにあり、眼下には見渡す限りコーヒスターンの肥沃で美しい渓谷が広がっていた。それはまるで、ヒンドゥークシュを頂点とする巨大な山々の織物の中に深く埋め込まれたエメラルドのようであった。その山頂の万年雪はまばゆい陽光によって薔薇色を帯び、それは輝く山頂の下に広がる威圧的な山塊の、ほの暗い影やでこぼこした輪郭と見事な対照を示していた。渓谷はと言えば、肥沃で多様な耕作地が広がり、黄金の美しさで彩られた穀物畑、さまざまな種類のイングランドの花に点々と飾られた草原、柳、樅、ポプラ、果樹などの密生した茂みなどが、長くて暗い流路を巡り流れるこの上なく清らかな小川や流れによって潤され、生け垣が規則正しく植えられていた。こうした風景は私にイングランドのことをいきいきと思い出させた。しかし、再びこの優美な景観をよくよく眺めると、そこには深い緑の葡萄園(それは谷間や山間の村々、高台に建つ給水塔を熟した紫色にも染めていた)に抱かれた白く輝く街や要塞、それから高原の遊牧民の黒い幕営地や、彼らのラクダが群れを成して苔色の断崖の新緑を食む様などが見て取れ、そうした考えは即座に一掃されてしまう。
陽気なアフガン人たちの一団は野性的な歌声や甲高い管楽器の音を響かせて、美しき乗り手――ヴェールを突然落としたので、黒々とした眉と三日月形の目の美人と分かったのだが――の一行を護衛しながら通り過ぎていき、さらに予期せぬ不信心者「ファランギー[西洋人]」の出現によってその一行全体は混乱に陥った。これらすべてのことで、私は自分自身の国から遠く離れてしまったのだという事実をさらにはっきりと悟った。この最も美しい渓谷において、自然はいかに多くのことを成し遂げたことであろうか。そして、ああ、その寛大な手によって祝福された人間が、その恩義を恥ずべき背信と極悪な罪によってあがな贖ったのであり、私はそれらを想起するだけで恐ろしさに身震いするのである。わずか数日のうちに、この美しい場所の土は幾千もの人間の血を吸って膨れ――川は引き裂かれ、辱められた死体によって淀み――木々や木の葉は血みどろの死闘のうちに引きちぎられ、踏みしだかれ、汚された。そしてあのかわいらしいイングランドの小さな花々は、虐殺されたイングランドの子らの生温かき血の流れに吐き気をもよおしながら、その花冠を垂れていたのである。

■カーレーザイでの歓待
 我々は平穏裡にカーレーザイに到着し、砦に近い6フィート[約1メートル83]の壁で囲まれた一角に野営した。村人たちは我々が近づくと逃げ散ってしまったが、彼らは野蛮な者たちに見えた。ポッティンガーはヘラート風の衣装を身につけていたが、このシャー・カームラーンからの贈り物は彼に良く似合っていた。私はアフガン人の服を着ていた。代々その職を継いでいる王の刑罰執行官長はこの地のハーンの1人であったが、彼が我々を出迎え、彼の庭園を見物に行くよう我々に勧めた。我々はその通りにしたのであるが、その際おつきの者たちの長い行列に付き添われていた。彼らにロフサト(退去の許可)を与えると、バ・アマーネ・ホダー (神のご加護の下に)、善良なカーレーザイの住民たちが我々を客として迎えていることが分かった。我々の天幕は、果物やパラウ の大皿を持つ者、肥えたドンバ (体の半分くらいの大きさの尾を持つ羊)を引いてくる面々、我々の馬のための藁、牧草、トウモロコシや護衛兵のための小麦粉、パン、燃料などを背負った人々などで、文字通り取り囲まれてしまった。どのもてなしも、我々はあえて拒絶して彼らの気分を害するようなことはしなかった。我々にとって立ち入ることすら危険な土地においても我々はこのような歓待を受けたのだった。そしてそれは、ただ我々を破滅させる時を待ち(彼らは長く待つことはなかった)、我々が食事している間ですら、もしできるならば我々を切り刻みたいという熱望を、隠しきれない態度とあからさまな表情で、曝(さら)け出すような人間たちがこのような歓待をしたのである。

■1ヵ月後の惨事
 11月2日、我々がかの地を訪問して1ヵ月あまりたった後、その村の長(上述の通り、我々は彼に関して警告を受けていた)は、義理の父であるミール・マスジディー、スルターン・ムハンマドやニジュラーウのその他の高位の族長たちと共謀して、私の兄をラグマーニーの要塞からおびき出してこれを暗殺するという最も悪辣な裏切りの計画を立て、これにまんまと成功したのである。ラグマーニーとチャーリーカールで虐殺された1000名以上の兵、将校、軍属のうち、ポッティンガー少佐とホートン中尉のみがグルカ兵 1名と共に敵から逃れることに成功した(かなりの重傷を負った)。我々の旅の残りの部分は、他所で触れられることになろう。

 
一覧にもどる
一覧にもどる