展示品
[作品5]
■英カンダハール軍のカーブル市外での野営
Encampment of the Candahar Army outside the walls of Caubul
(英語原文をよむ)

 スィヤーフ・サング山脈から見ると、カンダハール軍の宿営地は、勇敢で決断力のある指揮官であり、バース大十字章勲爵士のウィリアム・ノット少将の下、広大な景色の天然美のなかに、大いに溶け込んでいた。下には、チャマネ・シャー(王の牧草地――現在ノットの軍団によって占拠されている)の巨大な平原が横たわっており、カーブルとブトハーク丘陵を隔てている(ブトハークは偶像の土地の意味で、スルターン・マフムードが巨大な偶像ソームナートを埋めたと言われている場所である)。カーブルの町は、すべて、絵のように美しく要塞化したハージャ・ザファル(勝利の聖者)とアーシャー・マヒー (母なるイヴ)という二つの丘の麓の間に広がっており、これらの山の後にはパグマーン高原が高くそびえている。
世界でも最も荒涼とした恐ろしい山道を通って210マイル[約336キロ]行軍した後、私が描写しようとした光景が、突然、強行軍に疲れ果てた兵士の喜びに満ちた目に飛び込んでくる。バーラー・ヒサール(高い要塞)は、その胸壁のある丘陵をいただき、スケッチの中では幹線道路の右側にぼんやりと暗く見えるコラーヘ・ファランギー(ヨーロッパの帽子)と呼ばれる高い建物まで広がっている。それから、町そのものが始まり、美しいバーザール、ティームール・シャーの墓、モスクやアフガン貴族たちやキズィルバーシュの長たちの邸宅がある。そして、さらに東には、数キロにわたってカーブルの最も美しい花園、果樹園、ブドウ園の並木や通りが広がっている。これらの間に、村々や城、田舎の邸宅や望楼が点在しており、小川の清流によって潤され、柳やポプラ、そして桑の木の長い列を境としている。スケッチの中央を走っている幹線道路の印は、市内に最も近い駐屯地の場所で、不運なシャー・シュジャーがスィヤーフ・サングへ向う途上で、暗殺された地点を示している。彼の殺害の顛末は以下のとおりである。

■反乱後のシャー
 英軍の全滅の後、王はジャラーラーバードのマクグレガー少佐に書状を送ったと言われている。それは、彼が召集できた軍勢を率いてバーラー・ヒサールを離れ、ジャラーラーバードの軍に合流し、そこから引き返して、彼に反逆した臣下の者たちを懲罰するという、王としての意志を伝えるためであった。その書状は不幸にもムハンマド・ザマーン・ハーンによって途中で奪われてしまい、彼は直ちに、内密に得られた情報に基づいて行動を起こした。他のバーラクザイ族のサルダール と同じように、彼は、すでに、シャーによって大いに感情を傷つけられていた。というのは、シャーは、スィヤーフ・サングに駐屯する軍の司令官に、バーラクザイ族の1人ではなく、みずからの権威によって、ギルジー部のアミーノッラー・ハーンを選んだのである。軽んじられたムハンマド・ザマーン・ハーンは報復を決意した。

■シャーの殺害
 バーラクザイ族たちは、シャーとの私的な会談の際に、コーランにかけて最も聖なる誓いをたて、シャーがバーラー・ヒサールを離れる際の安全の保障をした。出発の名目はみずからの軍隊の閲兵のためということになっていた。それにもかかわらず、出発の前夜、100名のジャザーエル 銃兵をシャー・シャキードの近く、シャーが通過しなければならない幹線道路上に、待ち伏せのため配置した。早朝、王は国王の衣装をまとい、彼の玉座に座って、主にインド人たちからなる50名の従者とともに、バーラー・ヒサールを出発した。(スケッチの中では、幹線道路の左側が事件の起こった場所であるが)待ち伏せ場所に近づくと、陰謀を企んだ者たちが一斉射撃をして、多くのパールキー[駕籠]の運び手たちが殺害され、ジャーンパーン は直ちに下ろされた。シャーは飛び出て、剣を抜いたが、頭に弾丸を受け、他にも重傷を負った。陰謀の首謀者であり、ザマーン・ハーン・バーラクザイの息子、シュジャー・アッ=ドウラは、陛下が傷つき倒れるのを見て、馬で突撃し、彼を切り刻んだ。彼らは、宝石で装飾された王冠を引き裂き、また、遺体からショール、剣、短刀、そしてあらゆる価値のある品々を略奪した。彼らはその後遺体を溝に投げ捨て、チャール・チャッター・バーザール (アーケードで覆われた四つのバーザール)にその首をさらした。
しかし、ギルジー部やキズィルバーシュの者たちは、バーラクザイ族の者たちの、目に余る誓約違反と、君主という神聖な人物に対する凶悪な犯罪行為を厳しく非難した。彼らによって遺体は運ばれ、城壁の内部にある王のモスクのムッラー[イスラーム学者]たちに引き渡された。そこで、遺体は死化粧を施され、王の衣装を着せられて、安置された。私がこのマスジェド(モスク)を訪問した時、それを見たが、遺体の安置されている部屋それ自体に入ることは聖職者たちによって禁じられた。ファトフ・ジャング、シャーザーダ(王子)は彼の父親が殺害されたその日に、シュジャー・アッ=ドウラによって追跡されたものの、スィヤーフ・サングから逃れたが、ギルジー部とキズィルバーシュの側によって、王位につけられた。

■アレクサンダー・バーンズ
 バーラー・ヒサールの上のハージャ・ザファルの山の後方には、スルダーン・バーブルの墓が高台にある。町の右側には、ティームール・シャーの霊廟の丸屋根を見ることができるかもしれない。その近くには、非常な天分に恵まれ、大変人当たりの良い人物であるアレクサンダー・バーンズ士爵の邸宅があった。彼との親交を持つという栄誉に浴した誰もが、魅力的な性格や優れた性質によって彼を慕っていた。私の兄と私自身は、彼のことを追慕するとき、彼の友人皆とともに、いつも彼の残酷で時ならぬ死を悼まなければならない。もし、彼が名誉というすばらしすぎることを気にかけなければしなければ、おそらく、彼は悲惨な死から救われたかもしれなかった。この名誉のゆえに、彼を脅かす差し迫った危険について警告がなされたあとでも、彼はその地位に長くとどまったのである。
 1841年11月2日の朝、アレクサンダー士爵の屋敷はアミーノッラー・ハーンの一味によって包囲された。王は宰相を派遣して、彼を逃がすように嘆願したが、無駄であった。次に、王は1個連隊を救助のために派遣した。しかし、屋敷が炎上しているのを目撃し、彼が駐屯地に逃げたと考えて撤退した。しかし、実際はそうではなかった。あるカシミール人は、もし護衛が銃撃を中止するなら安全にキズィルバーシュたちのところまで安全に連れて行くことを申し出た。アレクサンダー士爵はアフガン人の衣装をまとって、彼の兄弟とともに庭園のケルケイ もしくは戸口から外に出ると、その時、その裏切り者が「イーンジャー・セカンダル・バーンズ・ハスト(ここに、アレクサンダー・バーンズがいるぞ)」と叫んだ。これによって、彼の兄弟は彼の目の前ですぐに切り倒されて、彼自身はギルジー部の暴徒の長いナイフによって、バラバラに切り刻まれた。ブロードフット大尉はこの前に虐殺されていたし、14人のシパーヒー[インド兵]の護衛と屋敷の召使いたちは後に同じ運命をたどった。燃料が向かいの浴場から調達され、ハイダルという名前のコトワール 、すなわち城代によって、恨みから屋敷は燃やされた。哀れなバーンズはこの城代を、職権乱用の咎で解任していたのであった。

■カーブル再訪
 1842年の9月に再び私がノット将軍の軍とともにカンダハールからカーブルに戻ってくると、私はその黒焦げの廃墟とハンマーム[浴場]を訪れた。私がその両者を全く異なった幸運な状況で知っていたのは、ほんの少し前のことだったのに。絵の東側には、岩の高台を越えて、町とラクダの群れの間に不運な駐屯地が位置していた。未征服の好戦的な国の中心にある塹壕で囲まれた駐屯地としては、カーブル周辺のどの場所もこれほど適さないことはなかっただろう。我々の主要な弾薬庫や金庫、兵站部の倉庫が残っていた市内から駐屯地は1マイル[1.6キロ]離れており、川もその間にあり、しかもそれ自体は丘陵や要塞から見下ろされていた。我々が占領したバーラー・ヒサールも(結局、経験したように)町を見下ろす位置にあったにもかかわらず、駐屯地から大変離れていたので救いというよりは呪いの対象であった。これらの間の距離はあまりに大きく、そのため、相互の連絡は困難になり、相互の支援は不可能になった。あまりに危険な場所が選定されたのに、他のすべての場所のなかで、これほど重要な目的に特に合致すると思われる地点は、全くどういうわけだか見過ごされていた。それは、描かれたデッサン中にあるノットが宿営した平原であった。もし通常の慎重さと先見の明が、その任務が軍隊に安全を提供することであるとする人々を導いたならば、実際に選ばれた市街地から1マイル北に離れた場所ではなく、この地点が唯一塹壕に囲まれた駐屯地として相応しい場所として選ばれていたであろう。カーブル川とフルド・カーブル峠を右側にし、バーラー・ヒサールと市街地は左側に位置し、チャマネ・シャー周辺の広く平坦な平原とともに、ジャラーラーバードとペシャーワルへの幹線道路を見渡すことができた。それは非常に堅固な場所であっただろう。そして、これによって我々の全滅で終わった無類の災厄と不幸、犯罪、誤りの長い連鎖は、おそらく防がれていただろうに。


 
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