展示品
[作品6]
■遊牧ギルジーの下層女性
Ghiljye Women, Of the lower orders 
(英語原文をよむ)

 ドースト・ムハンマド・ハーンはカーブルを統治しているが、多大な労力を払って首都の東方にあるジャラーラーバードならびに北方にあるコーヒスターン、南方のガズニーへみずからの権力を伸長させた。これらの地域を、彼は息子たちに委ねることで掌握した。しかし、貢納金を強制的に徴収し、その毎回の徴収の結果として起こる反乱を鎮圧するための軍を有した総督がいなければならないという状況は、税の徴収を非常に不確実で危険なものにする。王子たちや武装した使者たちが弾丸の雨を浴びせられたり、急襲にあったりすることは、カーブルの近郊においてすら、好戦的で御しがたい住民たちがみずからに割り当てられた要求に対する答えとして、珍しいことではなかった。

■あるバーラクザイの話
 「どれほど違うことか」とバーラクザイ族の一人は言った。彼は12騎からなるシャーのチャーパール 、つまり騎乗した急使の1人で、私をカーブルからカンダハールへ護衛しており、その時我々の一行はガズニーの20マイル[約32キロ]西方にあるビービー・ナーンに到着したところであった。「この国の状況と、2年前のドースト・ムハンマドの治世の状況と、どれほど違うことか!この村で、私は自分の鼻先すら曝け出すことが出来なかったし、カーフェラ は略奪されずにここにたどり着くことは出来なかった。ファランギーはすばらしい人々だ。ワーウ、ワーウ!(すばらしい、すばらしい!)しかしながら、ギルジーたちはいまだに文明的であろうとしていない。彼らの父祖の顎鬚に呪いあれ」。この話の後半の部分に対して、私は心から応じることができた。なぜなら、住民たちは我々を妨害することなくその土地を通過させたが、何か異常なものが彼らの行動の背後にあることは明白であったからである。というのも、飼葉や糧食を提供し、彼らの城塞内に我々を招き入れて小休止させるという彼らの平素の慣習とは異なり、彼らはその扉を我々に対して乱暴に閉ざし、我々に野蛮な暴言と不愉快きわまるののしりを浴びせかけ、最も一般的な常備品すら提供することを拒んだからである。この土地はまさに、1ヵ月の後に大規模な略奪、復讐、暗殺という身の毛もよだつ光景として燃え上がることになる、不安定で騒然とした雰囲気の前兆を示していたのであった。

■作者のカンダハール行
 我々は9月30日にカーブルを出発して、平均して日に30マイル[約48キロ]進み、途中で3日間の休止をはさみつつ、10月13日に300マイル[約483キロ]離れた我々の目的地に到着した。もし我々が通常の31[マイル、約50キロ]の行軍をしておれば、私がアフガン人の護衛に殺害されたであろうことはほぼ疑いない 。なぜなら、10月の終わりの時点で、我々の敵はその計画を練りあげ、我々の血を欲して我々が安全に通り過ぎたばかりの道を力づくで封鎖したからである。
例を挙げるならば、勇敢でその死が惜しまれるウッドバーン大尉は、我々がカンダハールに到着したその日に140名の分遣隊と共に同地を出発したのであるが、彼はカーブルに向けてガズニーを出発するとすぐにドースト・ムハンマド・ハーンの甥であるグル・ムハンマド・ハーンによって部隊とともにある城砦に招き入れられ、そこの主人に裏切られて攻撃を仕掛けられ、部隊もろとも皆殺しにあったのである。5名のみが脱出してガズニーにたどり着いたのであるが、彼らによれば彼らの指揮官は堂々と戦って死んだということであった。暗殺者に「不信仰者の一団の大尉はどこだ? 奴を屠ってやる」と尋ねられると、彼は勇敢にも進み出て答えた。「私はここだ、ならず者め!」そしてその後すぐに、心臓を打ち抜かれて倒れたのである。10月の終わりにカンダハールを出発したボンベイ歩兵隊のクロウフォード中尉は、1個騎兵中隊と40騎のアフガン騎兵とともにカーブルへの国事犯の護送にあたっていたが、彼らもビービー・ナーンで圧倒的な数の集団に攻撃された。彼は多大な困難の後にガズニーへとたどり着いたが(彼はシャムス・アッディーンの捕虜であった)、15名の兵士と20頭の馬が殺されたほか、何名か負傷者を出し、囚人と輜重(しちょう)を奪われ、さらには側面と後背に敵の歩兵・騎兵がまとわりついて、13マイル[約21キロ]の間彼らを蜂のように取り巻いていたのであった。

■ガズニーからカンダハールへ
 私のガズニーからカンダハールへの旅においては、その道の荒涼とした単調さに勝るものは何もなかった。この道は、ガズニーと、砂地の谷間の広大な地表上に横たわるカラーテ・ギルザーイーとの間に、約70マイル[約113キロ]にわたって続いていた。まさにアフガニスタンにおいては「すべてはエデンか、さもなくば荒野である」[Byron, Don Juan, Canto IV]である。干上がったラクダ草の他には、退屈した目を慰め、疲れきった旅人を保護するような木々も木立もない。ただ、泥で出来た蜂の巣のような小屋がひしめいた村々の周辺やぽつんと建ついくつかの城砦、そして遠くで強大な山々が「混乱に混乱が積み重なったように」段々になった斜面を見せているところだけは、開拓者の分別ある手で緑に覆われていた。「長い長い砂漠がラクダの足をあぶり、無力な隊商に覆いかぶさり、押しつぶす。そして人間の心もその土のごとくである」[Byron, Don Juan, Canto IV]。この石だらけの地帯の唯一の標識は、白骨化したラクダの頭蓋骨である。その住人はマーモットと、トビネズミのような砂漠のネズミだけである。そして唯一の、しかし絶え間なくやってくるものはシャイターン (文字通りには悪魔であるが、竜巻を指す)であり、それは海上の竜巻のように突然巻き上がったかと思うと、小さな天幕を根こそぎ吹き飛ばし、中にいた人々を狂ったような速さで吹き散らしていく。
 気候も風景と同じくらい不愉快であり、日中は息苦しいほどの暑さになるかと思えば、夜や朝には凍りつくほどの寒さとなる。我々は、荷物やラバ、ヤーブー (この地方特有の荷役用ポニー)が我々についてこられるように日に30マイルというゆっくりとした速さで進んだのであるが、大気の頻繁な変化と、それに加えて糧食入手の困難さに大いに苦しめられた。我々の荷物が荷造りされている間には寒さで震えているのに、太陽が火球のように輝きだし、その光線が永久に続く冬のために白く覆われた山の頂に二重に照り返しはじめるや、我々は急いで、早朝の寒さをしのぐために重ね着していたチョガ[外套]の半分を脱ぎ捨て、繰り返す暑さと寒さで皮のむけた痛々しい顔をターバンの端で覆うのである。

■天候の激変
 しばしば天幕も覆いもない状態で行なわれる、カンダハールにおける野外行動の最中、我々はこうした気候の激変をひどく感じたものであった。夜は身を切るような寒さとなり、毛布や天幕布といった貧弱な覆いの下で水はしばしば凍りついた。日中、我々の小汚いテントが幸運にも張られると、太陽が薄い大気を通して、耐え切れないほどの威力と明るさをもってその上に光線を降り注ぐので、温度計は日中120度[摂氏48.9度]から130度[54.5度]を示した。その温度は、竜巻と砂嵐を引き連れた、インドのものと同様焼け付くような風によって気ままに変化した。天幕なしで地面に横たわっていると、我々は有害な土の影響も感じることが出来た。それは金属質の味のするソーダ状の粉で厚く覆われており、その粉はその土を流れる小川に塩辛い味をつけ、乳白色に色付けする。この水を飲んだ者は激しい病にかかる。我々はしばしば6ヵ月間もビールや、その水の毒性を中和するための蒸留酒なしで過ごさなければならなかったので、その水を飲むことを余儀なくされたのである。

■年老いたムッラー
 天幕を張る時間もほとんど見つけられないと、私は半裸のまま、大空の青き天蓋の下、砂の上に寝具を広げ、我々を円状に囲んで休む護衛の野性的な戦士たち、馬、ポニー、荷物、使用人たちのそばで眠ったものである。私はしばしば、そび聳え立つその姿を空に示している威圧的な山々に縁取られた広大な砂地の中で目覚め、寝具の中から、月によって照らし出され、その周りを「輝き、明るくてでしゃばりな灯りを持ち、灯りに灯りをともす」星が踊るひんやりした夜を眺め渡しながら、私の置かれた状況の奇妙さについて考えたものだった。その間も私の心は、護衛のアフガン人がもし裏切ろうとしたときの絶対的な無力さを強く感じていた。そして私は、黒鬚の年老いたムッラーに、私が置いている信頼について考えた。彼は、私のそば近くで寝ており、他の騎手たちの間でも重要人物であると思われた。彼は飾り帯に大きなコーランを携えて騎乗していたのであるが、朝と夕に私のところにそれを持ってきて、私は我々の間の神聖なる友情の証としてそれを額と唇で触れるのであった。そうした夜の沈黙は、秣(まぐさ)を噛む牛の出す鈍い音、消えようとする炊事の火のはぜる音、遠くの山々から聞こえるギルジーたちの歌声、小さな野営地の見張りを勤めるアフガン人兵士の叫び声といった音にのみ乱された。すべては静かで平穏であった。しかし、もしその後かの国土全域で起こった出来事を予知できていたとしたら、深夜の黙想がかくも心地よいものであったかは定かではない。
私はしばしば、あの死に物狂いの男たちがなぜ私の命を奪わなかったかと考えることがある。彼らはおそらく、同胞たちからの合図によって気づいていたに違いない。我々の上でじれったそうに舞っていた破滅をもたらす嵐が、まさにその時我々の頭上で恐るべき猛威を振るわんとしていたということに。彼らは異邦人であり、私に対して関心を示さなかったのかもしれないし、また、彼らはある金額で私をカンダハールまで安全に送り届けるために雇われたのでもあった。その気になれば私とその使用人を殺害し、私の馬と所有物を奪うことによって、彼らはこの報酬を4倍にもすることが出来たわけである。旅行中、金額の一部を前払いするという提案に対して私が繰り返した拒絶を引き金に、この厄介者たちがそうした行動に移った可能性もあった。この行軍の間中、私に備わっていた幸運について説明することは出来ない。

■ギルジーの幕営地
 我々の行軍の単調さをいくらか破ろうと、我々はゴージャーンで下馬し、遊牧する西部ギルジーの幕営地の近くで喫煙し、昼食をとろうとした。彼らは農業と、牛や羊の群れのための牧草地を探すために、黒い天幕で季節ごとに移動しているのであった。我々が近づいていくと、女性たちが奇妙にごたまぜになった家財道具一式を天にも届かんばかりに積み上げたラクダ、雄牛、ロバを追っていた。1頭のラクダの上に、水ギセル、調理用鍋、チャクワー 、つまり赤い足のキジを入れた籠、革製の飲料水入れが積んであり、また腹帯には小麦粉の入った袋を提げ、1頭の羊がその首にくくりつけられ、半分絞め殺されて鳴き声を挙げる大きな鶏を足のところで縛った大きな束が二つ、鞍のところに振り分けて吊り下げられ、さらに脇には、天幕用の柱、寝具、戦闘用の武器、果物と飼い葉の塊が提げられていた。そして、中心に群れ集まったこのごちゃごちゃしたまとまりの頂上に少年があぐらをかいていた。彼は髪の房で飾り付けられ、装飾やコインや魔除けで縁取りされたふちなし帽の下から大きな黒い目を覗かせていた。この辛抱強い家畜の利用できるすべての部分が何らかの用途に使用されており、この時ほど砂漠の船というその称号がふさわしいと思えたことはない。このウルース つまり部族のキジュダイー (黒い天幕)のヘール 、つまり幕営地は、住むためのほんのささいな間に合わせのもので出来ている。それらは大体の場合、黒の羊毛のフェルトを小枝や棒切れの上に広げたものに過ぎない。少し離れると、支えが見えないこともあってまるでコウモリの大群が平原の平らな地面の上を覆っているように見える。

■ギルジーの女性たち
 私がここで描写しようとしているギルジーの女性たちの見た目は、彼らの夏の住居と同じくらい奇妙である。結婚していない女性たちは、髪の毛をすべて顔の前に集め、泥と糞の混合物で小さめの形に練り上げ、それを数珠球、金属片、色つきのガラスなどで装飾する。彼らはその処女性の印を額の真ん中から上唇まで、顔の表面を目尻まで覆う大きさにまでする。であるから、これらの穢れのない者たちはこのぬるぬるした覆いを持ち上げて初めて物を見ることができるのである。結婚するとこの奇妙な印は解かれ、髪の毛を束ねずに垂らすことが許される。
彼女らは赤と黄の菱形紋で縁取られた黒と深い青のヴェールをまとっている。彼女らはこれを身分の高い人々の服装を真似て着ているのだが、私はそこに(彼女たちのような)「彼女をくるむ縞模様のある白い紗の厚布。月の周りのふわふわした雲のように、彼女の周りを流れる」[Byron, Don Juan, Canto III]を付け加えることは出来ない。なぜなら彼女らの場合、夜の輝く月は陰鬱な性格という雲によってわずかに覆われているからである。彼女らのシャツは同じように薄くくすんだ色合いであるが、幅広で柄のついた「ズボンは世界で最も愛らしいくるぶしの辺りで巻き上げられている」[Don Juan, Canto III] 。彼らは耳輪、指輪、腕輪、足輪、鼻輪をしている。私の見た限り、少女たちのうちの幾人かは、闖入者を凝視しようと顔の前にある純潔性の印を持ち上げると、非常に愛らしい。しかし、髪飾りは(驚くべきことではないのだが)ゆがんでいてみすぼらしく、それもひどく外側を向いている。思うにこの相違は、髪を閉じこめている髪飾りのすみを持ち上げようとする彼女の、無益だが継続的な試みによるものである。「長く垂らされれば、彼女の容姿を隠してしまう彼女の髪の長い金褐色の巻き毛。それは、その無慈悲な髪留めによる拘束に憤慨しているように見える。西風が吹き、その若い翼を扇にして彼女を扇ぎ始めたときにはいつでも、その束縛を逃れようとした」[Don Juan, Canto III]。

 
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