概要
■アフガニスタンの歴史
 アフガニスタンとは、ペルシア語(アフガニスタンではダリー語と呼ぶ)で「アフガン達の土地」という意味です。「アフガン」とは、ペルシア語でパシュトゥーン人のことを指します。パシュトゥーン人は、パシュトゥー語を話す、現在のアフガニスタンの多数派民族です。アフガニスタンの建国は1747年とされます。この年にアフマド・シャー・ドゥッラーニーが即位したのです(ドゥッラーニー朝/サドーザイ朝1747−1842)。18世紀初めまではヘラートやカンダハールはイランのサファヴィー朝、カーブルはインドのムガル朝、バルフは中央アジアのウズベク諸王朝の支配下にあったのでした。ドゥッラーニーというのは彼が属した部族連合の名前であり、サドーザイというは彼が属したポーパルザイ族のなかの一族の名前です。 1793年アフマド・シャーの子ティームール・シャーが没すると、アフガニスタンは内戦状態に陥ります。ティームール・シャーの3人の王子が王位を争う一方で、ドゥッラーニー部のなかのバーラクザイ族が台頭してくるのです。この部族出身のドースト・ムハンマド・ハーンは1826年に首都カーブルを掌握し、やがて新たな王朝ムハンマドザイ朝を創始します。ただし、1838年までにはカンダハールは彼の兄が、ヘラートはサドーザイ朝の残党が、それぞれ支配し、3勢力が鼎立する事態になりました。イギリスが、ロシアと接近したドースト・ムハンマド・ハーンを追放して、ティームール・シャーの王子シャー・シュジャー=アル・ムルクを復位させるべく、アフガニスタンに侵攻するのはこのときだったのです(第一次イギリス・アフガン戦争)。最終的にイギリスの作戦は失敗し、1843年にドースト・ムハンマド・ハーンは復位します。彼はその後20年にわたって支配し、アフガニスタンの統一に努めました。イギリスはその後、1878-81年と1919年と2度アフガニスタンと戦争をしましたが、いずれも敗北を喫しました。ムハンマドザイ朝は1973年まで続き、最後の君主(9代目)であったムハンマド・ザーヒル・シャーが2007年7月23日に亡くなったのも、記憶に新しいところです。

■アフガニスタンの地理
アフガニスタンは山国です。北東の国境近くカラコルムは標高7000メートルを超えています。そこから西に向かってヒンドゥークシュ山脈とそれに連なる山脈が国土を横切って伸びています。国土の中心に山脈があり、その周りを幹線道路が取り囲んでいるのが特徴です。カーブルの北方には山脈の切れ目の峠があり、北部地域につながっています。気候は、夏は乾燥し、冬には寒く多くの雪が降ります。この雪解け水が川や潅漑水路の水源となるのです。地域差も大きく、北部は中央アジアからの冷たい風にさらされ、南西部にはインドからの季節風が来ます。アフガニスタンは現在、北はタジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、西はイラン、南東はパキスタンと接しています。「文明の十字路」とも言われる通り、さまざまな文明が通り過ぎて来たこの国は、ある場合は中東、ある場合は、南アジア、ある場合は中央アジアの一部と見なされます。そして、こうした歴史的・地勢的条件は、民族構成にも反映しているのです 。※地図はクリックで拡大します


■アフガニスタンの民族
アフガニスタンは多民族国家として知られています。約40%を占める多数派のパシュトゥーン人のなかでは、ドゥッラーニー部とギルジー(ガルジー、ギルザイ)部が特に有力です。ラットレーが描いている人物のなかで、作品、作品、作品19、作品29はドゥッラーニー部の人々で、ペルシア宮廷文化に親しんだ貴人たちの姿を見ることができます。これに対してイギリス軍を悩ませたギルジー部は、作品25、作品14、作品6、作品8に描かれています。次に多いタジク人(約25%、ダリー語、スンナ派)の例は、カーブル北方のコーヒスターン地方の住人として紹介されています。作品7、作品11、作品12がそれにあたります。また、アフガニスタン北部のウズベク人(約6%、ウズベク語、スンナ派)も作品20、作品22に描かれています。最近ではあまり名前を聞かない民族もラットレーの作品に現れます。まず、キジルバーシュで、イランから移住してきたトルコ系・ペルシア系のシーア派住民を指します。19世紀にはカーブルに1万2千人住んでおり、官僚や書記として宮廷に使えていました。作品15および作品24はキジルバーシュの人々が描かれています。最後に、作品9はインド出身のヒンドゥー教徒の肖像で、北部の君侯国で宰相を務めていました。当時、アフガニスタンには金融業者や官僚としてヒンドゥー教徒がおり、19世紀のある統計によればカーブルに4000人住んでいたということです。このほかに、バーミヤーンなどに住むハザーラ人(18%、モンゴロイド、ダリー語、シーア派)がアフガニスタンでは有力な民族ですが、作者は彼らについてのスケッチを残していません。


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