FIELD PLUS No.8
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5Field+ 2012 07 no.8分、碑文の立地点に到着した。碑文のすぐ側に大きなオボー(=モンゴル人が天を祭る積石塚)があり、「ブレーニィ・オボー」と呼ばれ、かつそれが地名になっている。付近は全体に小高い丘状の地形で、最も高い地点にオボーが立ち、碑文はその南東側20メートルの位置に南東に面して建っている。碑石は縦179.5センチ、横54センチ、厚さ30センチの花崗岩製である。南東の正面のみに文字が刻まれており、縦書きで計7行、全部で250字程度の文字が認められた。表面は全く磨かれておらず、自然石の状態のままで文字が刻まれているため、極めて判読し難い。漢字ではない! さて、この碑文の文字は、我々が検分した結果、一見して、漢字ではなく疑似漢字であることがわかった。モンゴル側がこれを「漢文」とみなした理由は、文中に「 」や「 」といった漢字と同じ象形字があるためだろうが、それらとともに、漢字には存在しない「 」や「 」といった疑似漢字が見られており、特に、一番右の行の最初の文字「 」は、契丹大字に特有の文字である。 それゆえ、この碑文は、岩壁銘文などを除き、モンゴル国で初めて発見された契丹大字碑文である可能性が高いと我々は判断した。しかし、眼視で、それ以上の文字の形状を抽出するのは極めて困難であり、字形の確定ができないまま日没を迎えたため、その日は現地にて野営することにした。我々は碑文から100メートルほど離れた地点にテントを構え、ゴビ地帯の生温かい風が吹きすさぶ中、日の出を待った。 8月20日早朝、ゴビ地帯にしては奇跡的とも思える無風状態が数時間続いた。拓本を採るチャンスである。我々はさっそく作業を開始した。しかし、碑面がまったく磨かれていないため、凹凸が激しく、拓本紙を碑面に密着させることは極めて難しい。今までにモンゴル国で数多くの拓本を採ってきたが、これほど凹凸の激しい碑面は初めてであった。このことは、のちの解読において大きな支障をもたらす結果となった。 昼前、風が強まり、拓本紙が風になびいて作業の中止を余儀なくされる。昼食後、我々は現地をあとにし、夕刻、サインシャンダに帰還した。 採りたての拓本を改めて仔細に検討すると、碑文冒頭の字は、やはり契丹大字に特有な「 」と読める。さっそく電子メールと電話で、契丹文字を専門に研究する武内康則氏に連絡をとり、この碑文に書かれている文字が契丹大字であることを確認した。ウランバートルへの移送 こうして、本碑文は契丹大字で書かれていることが確認され、発見された地名から、「ブレーニィ・オボー契丹大字碑文」と命名することにした。我々は8月21日にサインシャンダを出発し、 8月23日、この新発見を一刻も早くモンゴルの人々と共有する目的で、ウランバートルのモンツァメ通信社で記者発表会を開催した。発表結果は、その日のうちにモンゴルの各テレビ局で放映され、インターネットに掲載された。 モンゴル人にとって契丹は、モンゴルが登場する以前にモンゴル高原を支配していた集団として理解されている。それゆえ、契丹に関わる都市遺蹟や契丹文字による岩壁銘文は、今までもある程度は調査・研究がなされてきた。とはいえ、モンゴル国で見つかっている契丹文字資料のすべてを占める契丹大字については、解読がほとんど進んでいないため、その価値が重要視されているとは言えない状況であった。 しかしながら、今回の新発見はモンゴル側にとっても大きなインパクトだったようである。「ブレーニィ・オボー契丹大字碑文」はモンゴル国立文化遺産センターの関係者によってウランバートルに移送され、モンゴル国立博物館1階の「テュルク・ウイグル・契丹時代展示室」に展示された(2011年5月30日に展示室に設置されたという)。時を超えて この碑文は、11世紀に建てられて以来、一千年近くのあいだ、ゴビ地帯にひっそりと佇んでいた。多くの人々が碑面の文字を覗き込んできたはずだが、驚くべきことに、それらについての記録は一切残されていない。このことは、情報通信技術が発達し、グローバル化が進むモンゴルにおいて、まだまだ未知の文字資料が草原に眠っている可能性を示唆している。そして忘れてはならないのは、こうした貴重な文字資料は、博物館を訪問するモンゴルの老若男女すべての共有財産であるとともに、世界的にも貴重な遺産であることである。モンゴルの貴重な文化遺産の保存・保護のために世界中が注目していることを、モンゴルの、特に若い世代の人たちに理解してもらいたいと願っている。モンゴル国立博物館に展示中の契丹大字碑文。ウランバートルでの記者発表会。契丹大字碑文冒頭9文字の解読。

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