これらの情報は、各ユーザーに割り当てられたサーバー内の保管場所に保存する。容量に限度はあるが、情報の公開/非公開を選べるので、準備ができるまで非公開にしておくことや、公開を前提としない個人的備忘録として使うことも可能である。●情報の共有による大きな記憶の再現へ とはいえ、本システムの主旨の一つは、時としてわかりにくくなりがちな専門的研究の成果を必要な範囲で可視化することにある。たとえば、1本の論文が示しうる情報には自ずと限界があるが、システム上にその論文の関連コーナーを設けて、分析・言及した地図や史料、あるいは依拠したインタビュー記録等をアップしておけば、読み手にとっては論文理解の大きな助けとなり、議論の活性化に効果があろう。 更に、他のユーザーとの共同研究として、互いの成果を組み合わせて一つの地図上で表現することができる。あるいは、都市で実際に生活する住民による貴重な情報も共有できる。それが記憶の共有による大きな記憶の再現へのプロセスである。こうした情報公開の調整は、基本的にレイヤそのものの新設・統合、公開/非公開の設定によって、自由にできる。●オリジナル地図のアップロード また、システムの基本設定が完了している対象都市(現在、ベイルート、アレッポ、テヘラン、イスタンブルの4都市)や古地図だけでは物足りない、という場合には、手持ちの地図をオリジナ地図を表示する。すると、どうやら教会4つ、モスク4つが当時存在していたようだ。これらにポイントを設置してみる(図6)。衛星写真で見ると、激しい内戦を経てもなお、すべて現存していることがわかる。今度は1876年の地図に切り替えてポイントと照合すると、後年取り壊された施設が多く確認できる(図7)。ついでに現在も立つマロン派のサン・ジョルジュ教会に、筆者撮影の写真と、簡単なメモを添えておこう(図8)。 古い時代の写真があれば、それを対応する年代の地図上に貼って比較するとよい。たとえば、画面右側に存在する「殉教者広場」には、内戦時に街を東西に隔てた軍事境界線が走っていた。ここにラインを引き、ある住民による1982年撮影のボロボロになった街並みの写真を添える(図9)。記憶のかけらを登録するのである。 以上、本システムの特徴と利用の実際をごく簡単に説明してきた。参加者として、狭義の研究者だけでなく、内戦の当事者も含めた広い関係者を想定している。それぞれの記憶の蓄積が進むことで、システム上に「大きな記憶」が再現されることが究極の目的だ。 読者ご賢察の通り、使い方はGoogle Mapsの機能に応じて自由自在であり、私たちには想像もつかない使い方が生まれるかもしれない。ぜひ、それぞれの必要に応じて、本システムを有効活用してもらいたい。ル地図としてシステム上に配置できる。更に応用すれば、対象都市以外の都市についても、古地図レイヤ無しの簡易なシステムを構築できる(図4)。 活用の具体例 それでは、本システムを実際に使用してみよう。ベイルートを事例に、記憶の共有・再現と、研究の可視化の雰囲気を掴んでもらいたい。 オスマン帝国末期の再開発で都市中心部が取り壊された後、仏委任統治領期に都市計画家ルネ・ダンジェがエトワール広場を中心に放射状街路を計画した。図5は、右側に破壊された状態の中心市街地、左側にダンジェの計画(筆者オリジナル)を表示したもの。右側は透過を使っているので、合計で3つの時代の地図が表示されている(最大4つの時代まで表示可能)。 図5は多くのことを語ってくれる。たとえば、右の地図からは、2本の南北軸、二つのモスクと一つの教会の存在がわかり、左の地図からはダンジェがこれらをうまく継承してバロック風の広場空間に改造したことがわかる。 以後、ベイルートは「中東のパリ」として発展したが、1975年以降内戦で荒廃した。その後、ハリーリー率いる開発公社ソリデールが90年代に進めた復興でもこのバロック型空間が継承されてきたことは、衛星写真で確認できる。 次に情報の登録だ。内戦前の1970年代初頭の25Field+ 2012 07 no.8図5 右側に1919年地図50%透過と衛星写真、左側にダンジェ計画(1933年)。図7 左:1876年地図(旧市街本来の姿)、右:現在の衛星写真。左図では、中央部や左側の南北軸の道路沿いに現存しない施設が記されている。図6 左:内戦前1970年代初頭、右:復興が一段落した現在の衛星写真。図8 サン・ジョルジュ教会の情報概要(写真はサムネール画像で、クリックすると実物写真が表示される)。図9 軍事境界線(Demarcation Line )。
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