FIELD PLUS No.8
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20Field+ 2012 07 no.8西アフリカ、イスラーム、アラビア語 「イスラーム」と聞いて、聖地メッカ(マッカ)や、この聖地があるアラビア半島、もしくは西アジアを最初に連想する人は少なくないと思う。確かに、7世紀前半の発祥以来、イスラームの「中心地」は西アジアであったといっても誤りではないだろう。しかし、この「中心地」から遥か西の彼方、アフリカ大陸西部にも、ムスリム(イスラーム教徒)はいる。いるどころではない。例えば、大西洋に面したサハラ沙漠西端の国、モーリタニアは、その正式名称を「モーリタニア・イスラーム共和国」とし、イスラームを国教に定めている。また、モーリタニアの南に接するアフリカ大陸西端の国、セネガルは、人口のおよそ9割がムスリムであるといわれる。そして、西アフリカのムスリムは、イスラームの聖典『クルアーン』(『コーラン』)の言語、つまりアラビア語で、そしてアラビア文字を使った現地語で、今日に至るまで膨大な量の書物を著してきた。満ち溢れる書物 セネガルのような「サハラ以南アフリカ」と「アラビア語著作」という取り合わせ、もしくは、そもそも「アフリカ」と「文字資料」という取り合わせに違和感を覚える人がいるかもしれない。学部生の頃、先行研究を通じて西アフリカに大量のアラビア語資料があることを知った私も、そうした違和感を覚えた一人であった。しかし、その違和感は、「この取り合わせは一体どういうことなのか」という好奇心へと徐々に変化していった。 そこで初めて訪れたのがセネガル。今日のセネガルは、植民地統治の「遺産」たるフランス語を「公用語」、ウォロフ語やフルベ語といった複数の現地語を「国語」としている。しかし、19世紀後半に始まる植民地期の遥か以前から現在に至るまで、この地域のイスラーム知識人が宗教的知識の獲得のために学ぶ最重要言語は、西アフリカの他の多くの地域と同様、アラビア語である。 私が最初に興味を持ったのは、セネガルに複数存在するイスラーム神秘主義教団(スーフィー教団)の一つ、19世紀末にセネガル西部で成立したムリッド教団であった。人口に膾炙した伝説によると、この教団の開祖アフマド・バンバ(1927年歿)は、7.5トンもの著作をアラビア語でものしたとされる。この数字は些か大袈裟であるとしても、彼が驚異的な数のアラビア語散文および韻文を書き残したのは確かである。バンバの3代目の後継者の指導で1970年代に編纂された「公式」の著作集だけで9巻(写真1)。いずれの巻も大部で、中にはおよそ800頁に及ぶものもある。こうした著作集に収められた彼の作品の数々は、首都ダカールでも、教団の聖都トゥーバでも、路上や書店で、広く販売されている。その多くは、色とりどりの紙に書写生の手書き文字が印刷された小冊子で、一般的な活字の刊本とは異なる独特の外観を呈する(写真2)。 勿論、このようにして売られているのはバンバの著作だけではない。数多の宗教知識人がものした夥しい数のアラビア語著作が、日常の光景に満ち溢れているのである。そして、こうした刊本として流通する著作群の向こう側には、各地の図書館などに写本の形でのみ存在する、更に膨大な量の著作群が控えている(写真3)。このような著作の山に分け入ることで、西アフリカの宗教的・知的世界の一端を描き出せないか。そうイスラームとアラビア語の世界。それは、アラビア半島の遥か西方、西アフリカの大地にも広がっている。この地に残る大量のアラビア語著作群から、そして今日の人々の語りから、過去と現在の声が聞こえてくる。フィールドノート 2つの声を聞く旅西アフリカにおけるアラビア語資料調査苅谷康太 かりや こうた / AA研写真1 教団の聖都トゥーバの図書館には、大量に印刷されたアフマド・バンバの9巻の著作集が並ぶ。写真2 手書きの文字を印刷した刊本の数々。西アフリカでは一般的にマグリブ書体という北アフリカ由来の書体が使用される。アラビア語の著作だけでなく、アラビア文字を使った現地語の著作も見られる。写真3 写本の多くもマグリブ書体で書かれている。モーリタニアセネガルモロッコ西サハラガンビアギニア・ビサウギニアブルキナ・ファソナイジェリアニジェールマリアルジェリア

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