15Field+ 2012 07 no.8チンパンジーの顔を覚える 一般の人からは、「よくサルの顔なんて覚えられますね」と驚かれることがあるが、他の多くの動物に比べれば、おそらく霊長類の識別はもっとも簡単な部類に入る。その理由の一つは、顔に毛がなくて表情が豊かであることだ。霊長類以外の動物だと、入れ墨・焼印・標識タグなどを用いて、識別の助けとすることも多いが、サルの場合こういった標識なしでも識別することができる。 最初のうちは、さまざまな部分的特徴に着目する。耳が切れていたり、顔に傷があったり、手足の指が欠落していたりする個体もけっこういる。しかし、すべての個体にこういった怪我の跡があるわけではないので、顔のしみやしわ、頭の禿げ方、毛の色、メスの場合だと性皮の形などを丹念に記録していく。ちなみに私が最初にチンパンジーの研究を始めた時には、通常のフィールドノートとは別に識別ノートを作っていた(図3)。 私がフィールドでもっともよく「描く」のはこの個体識別の際である。「右耳の上に小さい禿げがある」個体がいたとしよう。右耳の上と言ってもかなり面積があるから、この記述だけではまだ正確ではない。また、禿げのサイズなどの情報も抜けている。だから、文字だけでより正確に記録しようとすれば、たとえば「右耳の最上部の少し前方から真上に3センチほどのところに直径1センチ程度の円形の禿げがある」といった記載をすることになる。明らかに、森の中でチンパンジーを追いかけながらこんなに書くのは面倒である。 そこで、適当な円弧を描いて(耳)、そこから相対的な位置と大きさで小さい丸(禿げ)を描いてやる(図4)。これで十分である。上手である必要はない。識別に使う絵は誰かに見せるためのものではなく、自分で後から見て再認できればいいのだから。もちろん、似た特徴を持った個体がいるかもしれないから、一つの特徴だけでは心許ない。だから、こうしたものをいくつか見つけ、ノートに記録し(描き)、次にそれらしい個体に出会ったらその特徴を確認する。特徴の全てが一致するならば、前に見たのと同一個体の可能性が高い。だが、こうした特徴に頼っているうちはまだ識別は完全とは言えない。しばらく続けていると、特徴をいちいち確認しなくても、顔を一目見ただけで誰だか分かるようになる。後ろ姿や、身体の一部だけで誰だか分かるようになる。もはや、「分かる」というよりも、「知っている」という感覚の方が近い。こうして個体識別は完了する。 チンパンジーはたしかに個性豊かな存在である。しかし実際には、個性のない生き物などいない。問題はその個性を私たちが感知できるかどうか、である。当然ながら、個体識別ができていない間には、個性は見えない。識別ができると、それぞれが最初から持っている個性が浮かびあがってくるだけなのだ。フィールドで「描く」 フィールドで描くのは個体識別のためだけではない。行動をスケッチしたり、地形を把握したり、植物を覚えたりといった実際的な用途にも用いるし、チンパンジーを待っている間や、対象が動かずに暇な時間などに落書き的に描くこともある。チンパンジー待ちの間は、鳥や植物、昆虫などを(図5)、チンパンジーが動かないときは、なんということもない姿や行動を(図6)フィールドノートの余白に描いてみる。 鳥の絵や、尻を掻いているチンパンジーの絵を描く必要性はまったくない。ただ、フィールドワークというものは、必ずしも直接「役に立つ」データだけを取るものではない、と私は思う。森の中で出会ったさまざまなものにちょっとでも注意を払ってみるのもまたフィールドワークの醍醐味ではないか。プレゼン・論文で「描く」 当然ながら、フィールドで観察した結果は、学会発表や論文という形で公表する必要がある。こうした際にも、イラストは力を発揮する。とくに口頭発表では時間も限られているので、視覚的に相手に伝えることは有効な手段となる。ある行動を言葉だけで説明しようとするとかなり大変だが、写真やビデオを見せれば一発で分かってもらえる。適当な写真やビデオがあればそれを用いればよいのだが、頻度の低い行動の場合、かならずしも適当なものがないこともある。そうした際には記憶からイラストを描いて提示すると伝わりやすい(図7)。 論文では、むしろ行動をきちんと言語化して伝える努力をするべきではあるが、それでも新しい行動パターンを描写する場合などには、イラストや写真があったほうが有効であることは言うまでもない。ただ、あまり漫画チックに描くとお堅い査読者先生方にはお叱りを受けるのでご用心。図5 チンパンジーを探している待ち時間にフィールドノートの片隅に描いた絵のいくつか。図6 観察対象個体の動きがあまりないときに描いたチンパンジーの何気ない姿。直接研究の役に立つわけではないが、当時の状況を思い出す一助とはなる。図7 発表で用いたイラストの例。左側の個体が手と手を繋ぐ対角毛づくろい(GHC:grooming hand-clasp)を要求したが、結果的に互いに枝を持つ枝対角毛づくろい(BCG:branch clasp grooming)になったという例を、記憶を元にイラストにしたもの。日頃から落書きで「訓練」しておくと、チンパンジーのプロポーションなどはわりとそれらしく描けるようになる。
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