FIELD PLUS No.8
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14Field+ 2012 07 no.8チンパンジーの社会と個性 私は野生チンパンジーの社会を研究している。おもな調査地は、タンザニアのタンガニイカ湖畔にあるマハレ山塊国立公園。ここに生息する60頭あまりのチンパンジー集団が研究対象である。私が相手にしている社会とは、単にたくさんの個体の集まりというわけではない。その中の個々の個体がどういった個性を持っているのかも問題となる。 カルンデと名づけられた個体を例にとってみよう(図1)。彼はチンパンジーである。もう少し丁寧に言うならオトナオスという性年齢クラスに区分される。だが、彼はオトナオスの代表ではないし、ましてやすべてのチンパンジーが彼と同じように振る舞うわけでもない。彼は現在マハレで最長老のオスである。かつてオトナオスの中で第一位となったが陥落し、肉体的な力が衰えた今でも大きな社会的影響力を持っている。いかつい顔の割には気が弱く、不安になるとすぐに他のオスに抱きついて泣きわめく。遊ぶのが大好きで、小さい子どもとレスリングをしては大きな声で笑う。ンコンボというメスと仲が良く、二人でいるとまるで隠居爺さんと古女房といった雰囲気でもある……。 こうした記述はまだまだ続けられるが、このくらいにしておこう。こうした一つ一つの特徴が合わさったものが、マハレで研究した人たちが共通して感じるカルンデの個性である(図2)。そして、他の個体たちもまた、それぞれの個性を持っている。チンパンジーの社会は、こうしたさまざまな個性の持ち主たちが、複雑に絡み合って日々交渉を繰り返す中でたえず生み出されている。そして彼らの個性もまた、社会の中で日々を暮らす中で形作られているのだ。個体識別 こうした形で社会を理解しようとすれば、当然個々の個体を見分け、その個性を十全に知る必要がある。誰が誰だか分からない匿名の社会を見ているよりも、個々の個体が誰であるか分かっているほうが、より詳しいことが分かるのは当然である。登場人物が誰かを理解することなしに、社会というドラマを理解することはありえない。 このように個体を見分けることを「個体識別」と言う。対象となる集団の全ての個体を見分けて、それぞれに名前をつける個体識別法は、日本霊長類学の伝統的手法の一つであり、今では世界的なスタンダードとなっている。現在、霊長類を対象とした行動研究が、個体識別なしにおこなわれることはほとんどないと言ってよいだろう。 たとえば人類学の研究でも――敢えて言われることはないだろうが――対象の人々を個体識別せずに研究することはないだろう。人間が相手なら、分からないときには直接相手や周りの人に聞けばいいのだが、人間以外の対象だと、相手に聞いても教えてくれない点が異なる。チンパンジーのフィールドで「描く」中村美知夫 なかむら みちお / 京都大学野生動物研究センター、AA研共同研究員個性を持つのも、社会を持つのも人間だけではない。人間以外の動物の社会を理解しようとする場合にも、彼らの個性を「描く」ことは欠かせない。描く1図1 マハレの老雄カルンデ。図2 デフォルメしたカルンデのイラスト。マハレ野生動物保護協会のTシャツのデザイとして作成したもの。けっして写実的な描写とは言えないが、彼の「個性」を知っているマハレの研究者などにはこれでもカルンデだと伝わる。図3 私が最初にマハレを訪れた際に、個体識別ノートに描いた個体の一部。このときは、まだ個体識別に集中していて、正式にはデータを取り始めてはいないため、わりと手の込んだ絵になっている。図4 2011年にジュジュという新入りメスの右耳の上の禿げを描いたもの。このときは、他の個体のデータを取りつつジュジュの識別もしているので、じつに簡単な描き方である。しかし、個体識別の目的にはこれで十分である。キゴマタンガニイカ湖タボラドドマダルエスサラームマハレ山塊国立公園タンザニア

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