FIELD PLUS No.8
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11Field+ 2012 07 no.8て日本が海外へ勢力圏を広げていった時代、たぐいまれなる情熱と行動力でもって、しばしばその最前線に身を置いて精力的に現地調査をおこない、アジア東方の広域にわたって貴重な記録を残したことで名高い。その鳥居が晩年ライフワークとして最も心血を注いだのが、契丹の歴史・文化の研究なのであった。 1908年、東モンゴリアでのモンゴル人を対象とした人類学調査の途上、契丹の遺跡・文物に出会った鳥居は、遊牧民でありながら唐文化の影響を濃密に受け継いだ契丹文化の魅力におおいに引きつけられていく。色鮮やかな壁画の発見と家族での調査  それから20年あまりを経て、還暦を迎えた1930年、日本の満洲進出を背景に、鳥居はついに宿願であった契丹遺跡の本格的な調査を実現する。このときの調査の最大の成果は、慶陵東陵で壁画を発見したことであった。中国人軍閥による大規模な盗掘直後の墓室に入った鳥居は、精細かつ雄渾な人物画や、狩猟遊牧民の愛した四季の山水を写した優美な風景画が、壁面いっぱいに鮮やかな色彩で描かれているのを見いだしたのである。 満洲事変後の1933年、成立間もない満洲国の版図に入った慶陵を再訪した鳥居は、さらに綿密な調査をおこなった。このときの調査で特筆すべきは、厳寒のなかでたいへん苦心しながら、妻子とともに家族4人で分担して作業を進めたことである。凍てつく墓室内でいま契丹の歴史・文化に注目が集まっている。この契丹文化をはじめて本格的に調査・研究した人類学・考古学研究のパイオニア鳥居龍蔵。契丹皇帝陵の慶陵を中心に、鳥居による調査・研究について紹介する。慶陵の発見と契丹文字研究 契丹文字研究の道のりを振り返るとき、11世紀契丹最盛期の3人の皇帝(聖宗・興宗・道宗)が葬られた慶陵(中国内モンゴル自治区赤峰市巴林右旗に現存、写真1)は重要な意味を持っている。1920~30年代、この皇帝陵で哀冊(皇帝の死を哀悼するために墓室に埋納した石刻)が発見されて、契丹小字で書かれた資料がはじめてまとまった分量で出現したからである。以後、契丹文字の石刻資料の出土は現在までつづいており、とくにここ30年ほどは出土数が激増し、契丹文字研究は新たな展開を見せつつある。契丹文化に魅せられた鳥居龍蔵 慶陵の名は、この契丹文字資料とならんで、3つの陵墓のうち東陵に残されている美しい壁画でよく知られている。この壁画を発見し、はじめて全面的に調査・研究を進めたのが、アジア東方における人類学・考古学研究のパイオニアの一人鳥居龍蔵(1870~1953)である。 鳥居は、19世紀末から20世紀前半にかけ契丹研究と日本人鳥居龍蔵の見た慶陵古松崇志ふるまつ たかし / 岡山大学、AA研共同研究員写真1 現在の慶陵遠景(岩山の中腹に陵墓が造られている)。写真2 慶陵東陵壁画「四季山水図」を模写する鳥居龍蔵の娘緑子(1933年、『考古学上より見たる遼之文化図譜』より)。龍蔵の娘の緑子が四季山水図を模写する姿は、とりわけ印象深い(写真2)。帰国後、鳥居は調査記録のうち図版を集成した『考古学上より見たる遼之文化図譜』(全4冊、1936年)を、研究員として勤めていた東方文化学院東京研究所より出版し、知られざる契丹文化をはじめて視覚的に示したのであった。とりわけ大量の写真は、いずれも契丹の遺跡・文物を写した最も早い時期の記録として、無二の資料価値を持つ。鳥居龍蔵の遺産 その後、70歳を目前にした鳥居は、日本での職を辞して北京に渡り、亡くなるまで契丹文化の研究に邁進する。研究論文の多くは結局未刊に終わってしまったものの、その原稿は写真やフィールド・ノートといった調査記録、収集文物とともに、鳥居の故郷徳島にある徳島県立博物館に附設の鳥居龍蔵記念博物館に所蔵されている。 鳥居の慶陵壁画の発見と調査は大きな反響を呼び、満洲国の文化事業の一環として慶陵の調査・保存が立案・実行されていくきっかけとなった。そして、戦後になってから京都大学より出版された大冊の調査報告書『慶陵』として結実することになる。契丹研究の現在と未来 1945年の日本の敗戦と満洲国の解体により、契丹研究はいったん下火となる。ところが、近年、開発の進展にともなって中国東北部で遺跡の新発見があいつぎ、中国・欧米・日本で契丹の文物を展示する特別展が開かれるなど、世界で契丹への関心が高まっている。こうしたなか、契丹研究の先駆者である鳥居龍蔵の残した調査記録や収集資料の持つ重要性が再認識されつつある。そのいっぽうで、1990年代の中国側の調査により、慶陵壁画は剥落が進んで憂慮すべき状況にあることが報告されており、保存・修復が急務となっている。それはもちろん中国の研究機関の仕事であるが、鳥居をはじめとする戦前の日本人による調査記録はおおいに役立つ参考資料となるはずだ。人類共通の文化遺産ともいうべき慶陵壁画を、国境を越えた学術協力によって未来へと守り伝えていくことはできないものだろうか。

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