FIELD PLUS No.8
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8Field+ 2012 07 no.8契丹文字墓誌の姿からわかること契丹国時代墓誌の様式を探る武田和哉たけだ かずや / 大谷大学契丹文字で書かれた墓誌は、皇族など特定の血統の人物の陵墓からしか出土していない。被葬者の出自とは大きな関係がある。契丹国(遼朝)時代の陵墓と墓誌 契丹国が成立したのは、唐滅亡後の907年である。契丹族は北アジア系の遊牧民で、元来は墓を作る習俗はなかったらしく、死者の亡骸は樹木の上などに架けられて葬送されていたという(『隋書』契丹伝)。しかし、唐の影響下にあった時期に中華の諸制度が浸透したのであろうか、契丹国では皇族・貴族および高位の官僚(漢人含む)クラスは地下式の陵墓に葬られており、墓の基本的構造は中華世界におけるそれとほぼ変わらない。 このように、契丹国の支配者階層の陵墓制度は唐にならったものであったが、これらの墓には一定の割合で墓誌が副葬されている。その形態もやはり基本的には当時の中華世界で流行していた形式(ふたつの方形の板石を重ねる合子式)が大半を占めている。 これまでにみつかった契丹国時代の墓誌を概観すると、契丹人・漢人を問わず、大半の墓誌は漢文で書かれているのだが、契丹人皇族と国舅族(=代々皇族と通婚する一族)の一部、および特殊な出自上の経緯から契丹人皇族と同じ待遇を受け国舅族とも通婚していた特定の漢人の血統の者の陵墓からのみ、契丹文字の墓誌が出土している。 現在までに、契丹国時代の墓誌は約220点が確認されており、このうち契丹人の墓誌は約90点、また漢人の墓誌は約130点、あと出自不明なものが数点ある。初期の契丹人の墓誌の出土事例は現時点ではまだ少ないが、例えば契丹国の建国して約35年後の会同五(942)年に薨去した皇族の有力者・耶律羽之の墓には、中華世界のものと遜色のない墓誌が副葬されていた事実からすれば、墓誌を副葬することが、建国直後の時期から行われていたことが知られる。墓誌の寸法と被葬者との相関関係 契丹文字墓誌の初出事例は、現時点で公開されているものでは、契丹大字で書かれたものは統和四(986)年の耶律延寧墓誌、また契丹小字のものは重熙二十二(1053)年の耶律宗教墓誌である。耶律延寧墓誌を除くと、あとの契丹文字墓誌はいずれも契丹国の興宗皇帝在位時以降のものであり、契丹文字が墓誌に使用される事例が多くなるのは、どうやら中期以降とみてよかろう。 ところで、中華世界では例えば唐代後半期のように藩鎮の勢力が割拠した一時期を除けば、墓誌の大きさと被葬者の身分・生前の地位には一定の相関関係があることが既に多くの研究者により指摘されているが、契丹国における墓誌もその例外ではない。遼寧省博物院に展示されている契丹国の皇帝と皇后の哀冊(墓誌)。戦前に内蒙古・巴林右旗の慶陵で発見されたものである。上部の斜めに立てかけた台形の石が「蓋」、下の板状の石が「碑身」すなわち墓誌の本体である。大抵の場合、文字はこの碑身の上面に刻されていることが多いが、蓋の裏面に刻されている例も、いくつか存在する。遼寧省北鎮市にある北鎮廟内の契丹国時代墓誌の収蔵状況。耶律宗教墓誌をはじめとする皇親たちの重要な墓誌がある。表1墓誌の一辺の寸法130~135cm程度125~130cm程度120cm前後100~110cm前後75~100cm程度75cm程度より以下例聖宗皇帝、道宗皇帝聖宗仁徳皇后、聖宗欽愛皇后、道宗宣懿皇后義和仁寿皇太叔祖・同妃耶律羽之〔渤海国相〕、耶律宗教〔興宗弟〕、耶律宗政〔興宗弟〕、耶律宗允〔興宗弟〕、耶律仁先〔于越〕、耶律弘世〔道宗弟〕と同妃、蕭和妻耶律氏〔聖宗皇帝姉、聖宗欽愛皇后母〕、蕭義〔天祚妃父〕など陳国公主〔聖宗皇帝姪〕、耶律弘用〔興宗皇帝甥〕、耶律元寧〔耶律羽之孫〕など耶律道清〔耶律羽之曾孫〕、蕭孝恭〔楮特部・南府宰相家系〕、蕭孝資〔楮特部・南府宰相家系〕、耶律元寧〔于越曷魯孫か〕など   被葬者Ⅰ  皇帝Ⅱ  皇后Ⅲ  皇太叔と妃Ⅳ  皇親・有功の皇族とそ     の妃、国舅族の有力者Ⅴ  宗室・国舅族の構成員Ⅵ  皇族・他部の有力者

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