アンコール文明に関するインド学からの研究は、1961年のK. Bhattacharya, Les religions brahmaniques dans l'ancien Cambodge d'après l'épigraphie et l'iconographieが唯一まとまったものであったが、その標題がバラモン教と述べているようにヒンドゥー教研究の発展をみる以前の研究成果にすぎない。その後、カンボジア内戦などの情勢によって1990年代に至るまではほとんど研究の進展は見られていない。
ようやく遺跡保存から一歩進んで新たな考古学的美術史的研究が再開されるのを目にしたインド学研究者の間でも、長い間のカンボジア側での研究の空白の間にインド学において展開した新知見を照らし合わせる研究が必要であるという認識が世界的に生じつつある。そのような研究の最初の成果として、シヴァ教研究の世界的権威の一人であるA. Sandersonが2004年に``The Śaiva Religion among the Khmer (Part I)'' (Bulletin de l'École Française d'Extême-Orient, 90-91, pp. 340--462)を発表している。この論文の成果は多くの点で研究代表者の見解と重なるところもあるが、いまだ不明としている点も多い。
本研究においては、サンスクリット碑文の研究に加えて、クメール語の専門家である研究分担者を得ることができたので緊密な研究協力体制の下に新たな視点からの研究をリードしていくことができるものと思う。
チャム文字碑文の研究に関しては、A-V. Schweyer, ``Chronologie des inscriptions publiées du Campā'', BEFEO 86, pp. 321--344 (1999)が述べているようにそれまでの50年以上にわたって新たな研究の進展がなかったところに、ようやくいくらかの関心の兆しが見られるという状況にすぎない。本研究によって研究のための基礎的ツールを提供することで兆しつつある研究の再開に貢献することができよう。
充分なヒンドゥー教(特にシヴァ教)の知識なしに行われてきた従来のアンコール研究の危うさは、単に神像の奉献の時に奉献者の名前にイーシュヴァラを付け加えるというのがシヴァ教において確立された慣習であることを知らないために、まったく不要な王の神格化等の観念を読み取るということが相も変わらず行われていることに見られる。このような無知が今後の東南アジア研究全般にわたって悪影響を及ぼすことを懸念して、本研究を企画するものである。