ヒンドゥー文化としてのバリ


高島 淳


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 宗教学の概念の一つに、「普遍宗教」と「民族宗教」という区別がある。佛教・キリスト教・イスラーム教の三つが民族に関係なく普遍的にひろがっているのに対して、神道やヒンドゥー教は、日本人やインド人のみが信じる民族に限定された宗教であるとするのである。こうした見方にそれなりの正しさがないわけではないが、ヒンドゥー教の場合、歴史的に見る限り事実に反していると言えよう。

 現在ではわずかにバリ島にのみ残っているヒンドゥー教も、イスラーム教と上座部佛教の進出する以前には広く東南アジア諸国全体において中心的な位置を占めていた宗教であった。そのことは、地名や人名の多くがサンスクリット語起源であることや(シンガポールは「ライオンの都」を意味する)、ラーマーヤナの物語が今でも文化の基層となっていることなどからも見てとることができる。有名なアンコール・ワットの遺跡も、本来ヒンドゥー教寺院として建てられたものが後に佛教寺院とされたものである。

 また、ヒンドゥー教の性格という点からも、この宗教がインド以外の世界に広がり得るものであったことを指摘しておきたい。一般の人がイメージするヒンドゥー教は、多神教的な民間信仰と抽象的な現世否定哲学の両極端であろうが、シヴァあるいはヴィシュヌを最高神とする一神教的で普遍主義的なヒンドゥー教も存在している。中でもシヴァ教はカースト等を無視する性格が強く、インド以外の国に広がる適応性を持っていたのである。

 本稿では、まず、インドネシアへのヒンドゥー教の伝播の歴史の概略を見てから、次に現在のバリ島におけるヒンドゥー教のあり方について筆者の見聞したところを述べ
(n.1)、続いて、そうしたヒンドゥー教がインド自体におけるものとどのような違いがあり、またどれほど忠実に受け継いでいるのかを示すことにしたい。

1.インドネシアへのヒンドゥー教の伝播

 西暦1世紀くらいからインドネシア方面にインド文化の流入がはじまっていたと考えられるが、その文化的内容について多少ともはっきりしたことが言えるようになるのは5世紀くらいからである。まず中国僧法顕はインドからの帰路に耶婆堤(ジャワ)に滞在して、そこにバラモンの教えが栄えていたことを伝えている。その他、この頃と推定される碑文のいくつかがヒンドゥー教や仏教が栄えていたことを示す記述をしている。

 7世紀にはスマトラにシュリーヴィジャヤ王国が栄えるが、中国僧義浄はインド留学の帰途に685−695の10年間に渡ってそこに滞在している。彼が、インド留学を志す中国僧にシュリーヴィジャヤにしばらく留まって勉強することをすすめていることからも、この地のサンスクリットの知識が高度なものであったことが推測される。

 8世紀後半から9世紀半ばにかけて、ジャワ島にシャイレーンドラ王国が栄えるが、この王家は大乗仏教の信者であり、有名なボロブドゥールの大仏蹟(800年頃?)を建立したようである。シャイレーンドラ王家は9世紀半ばにはジャワ島での勢力を失い、スマトラにシュリーヴィジャヤ王国を再興したと考えられている。この王家は9世紀末から10世紀始めにベンガルのナーランダーと南インドのタミルナド州に僧院を建立していることからも極めて盛んにインドとの交流を行っていたことが知られる。

 このシュリーヴィジャヤ王国は中国資料では三仏斉として知られているが、東西貿易の中継地として海上貿易を独占していたことが述べられている。これに対して南インドのチョーラ朝が1025年頃には大遠征を行ってシュリーヴィジャヤ本国に痛撃を与えている。このようなことからも、当時におけるインドネシアとインド(特に南インド)との交流の密接であったことが解るのであり、この時代に新しいシヴァ教の教えが伝えられたものと推測される(n.2)

 シュリーヴィジャヤについで貿易の中心となったのはジャワのクディリ朝であるが、11−12世紀にかけて栄え、ヒンドゥー法典やマハーバーラタなどを古ジャワ語に翻訳するなどの文化的事業がなされた。仏教とシヴァ教が融合してジャマン−ブド(「仏の道」の意味)と呼ばれる形態をとったのもこの時代のことであると考えられる。

 13世紀はじめにはシンガサーリ朝がクディリ朝を継ぐが、1292年に滅び、1293年の元の侵攻の後にマジャパヒト王国が成立する。この王国は宰相ガジャマダの指導のもとに14世紀には繁栄して現在のインドネシア全域を支配するまでになったが、やがてマラッカを中心とするイスラームの勢力に押されて16世紀初頭には滅びる。

 バリ島においては、8世紀からインド文化が広まっていたことが碑文等から知られるが、本格的なヒンドゥー化は、10世紀末にクディリ朝の支配下に入ったときからと推定される。その後しばらくジャワの支配を離れるが、1343年にはマジャパヒト王国に再び征服される。それにともなって、社会制度などのヒンドゥー化が行われたようである。15世紀にマジャパヒト王国がイスラーム勢力によって圧迫されるに従って、ジャワ島のヒンドゥー教徒達がバリ島に大規模に移住して、10−14世紀にかけて形成されたジャワ−ヒンドゥー文化を今日まで伝える最後の場所となったのである。

2.バリ島のヒンドゥー教

 バリ島にはインド流に、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ(バリ島の発音は異なるがここではインド風に記す)の四カースト(ヴァルナ)があり、人口の90パーセントはシュードラである。ただ「インド流」といったのは言葉の綾で、いわゆる「不可触賎民」は存在しないし、インドのような厳密な職業との対応や内婚の制度があるわけではない。職業はほぼ完全に自由だし、婚姻も数代続けて下の「カースト」(インド的カーストとは異なるから括弧をつけておく)と結婚してはじめて「カースト」を落ちることになる。

 このうちでバラモン階層を構成するのが、プダンダといわれる祭司たちである。実際に祭司としての活動を行っているのは現在では2−300人にすぎないと推定される。これに対して、非バラモン(n.3)の宗教的職能者はプマンクと呼ばれ、無学でほとんど寺守りというような存在にすぎないとされている。

 確かに、これらプマンク達はサンスクリットの知識は持たないものの、儀礼の実行にあたっては丸覚えのサンスクリットのマントラを誦えながら行うし、多少の教理的理解も持っている。こうした側面については従来ほとんど報告されていないので、まず彼らの儀礼を見てみよう。

 一応シュードラと呼ばれる平民層の60パーセントを占める(つまりバリ島最大)のがパセックとよばれる「カースト」集団である。彼らは基本的にシヴァを信じるヒンドゥー教徒であるが、シヴァとブッダは等しいと見なしているから、仏教徒でもあると主張している。その仏教徒にとっての総本山にあたるのが、シーラユクティ寺院であるとされる。

 シーラユクティ(「戒の適性」とでもいう意味)は、ロンボク島への船の出るパダンバイの港のすぐ北の丘の上にある。仏教とではないパセックにとっても四つの中心的寺院の一つとして尊重されているとのことである。後ろが山、前が海で、いかにも霊場という感じの寺であるが、パセックである寺のプマンクによると以下のような縁起を持っているそうである。他の資料も参考にして概略を述べてみよう。

 七人の聖仙(sapta-rsi)の一人の系譜に属する聖者がレンプーヤン山の女神と結ばれて五人の兄弟を生んだが、その一人がクトゥラン仙である。クトゥラン仙はウダヤナ王に仕えたが、当時六派にわかれて争っていた宗教の混乱を憂えてジャワにわたり、シヴァ−佛陀の教えを学んできて、バリに広めた。彼が最初に建てた寺がシーラユクティで、これが西暦1001年のことである。五兄弟のうちの他の四人もそれぞれ寺を建て、それが四つの中心的寺院である(一つはシーラユクティと同じ場所にある)。パセックはこの五兄弟の子孫であるから「七聖仙の子孫である偉大なパセック氏族」(Maha Gotra Pasek Sanak Sapta Rsi)と自称しており、最初にバリに正しい教えを伝えたものであることを大変誇りにしている。

 こうした伝承は大変興味深いものであるが、残念ながらどこまでが伝承でどこからが最近のものであるのかがはっきりとしない。西暦1001年などという日付がどこから出てきたのかと思われる人もおおいであろうが、これは、ウダヤナ王碑文(ジャワの王女を妻とし連名の碑文が989から1001年にかけていくつか残っている)に基づいているのである。それにもかかわらず、こうした伝説から学ぶべきことも多いと思われる。プダンダや王族の伝承はどれも15世紀のマジャパヒト王朝滅亡の時のジャワ島からの移住にまでしか遡らないからである。考古学的遺物は遅くとも10世紀頃から豊富なヒンドゥー教や仏教の影響があったことを示しており、そうした文化がこうしたプマンクの儀礼のなかに残存していることは充分考えられることだからである。更にその前にも、ジャワ島を経由しないインドからの直接の影響も存在したようであるが、これについては碑文のほかには伝承など一切存在しないようである。

 さてプマンクの儀礼であるが、マントラを誦えながら花などを神に捧げるという、それ自体は単純なものである。後で述べるプダンダのように複雑なムドラー(印)を結ぶようなこともない。またバリ島のヒンドゥー教の一つの大きな特徴であるが、崇拝の対象は神像ではなく、神の座(椅子の形をしていたり、メールとよばれる中空の塔であったりする)にすぎない。しかしマントラの方はなかなか興味深いものであった。普通の村のプマンクの場合サンスクリット語はわずかで、時にバリ語の讚歌を伴ったりすることもあるが、シーラユクティの場合サンスクリットのみであった。あいだにバリ語も入ったが、これは一般人への解説である。

 マントラ[冒頭部がmp3で聞けます]の内容はかなりの要素が抜け落ちているとは思われるが、復元推測してみると、最初に自己の浄化と聖水(浄めの水)の作成・太陽としてのシヴァへの帰依・師としてのシヴァへの帰依・最高のシヴァへの帰依・女神への帰依・現世的幸福への祈り・解脱への祈りの七つの要素からなっているようである。もちろん、シヴァは同時に佛陀としても捉えられていて、「南無佛陀・南無シヴァ」あるいは「南無シヴァ佛陀」といった要素が繰り返し現れる。「金剛手」などが出てくるところにも佛教の影響は見て取れるが、全体の根幹となる構成は明白にシヴァ教のものである。パセックの人達はマントラの最後の祈りの部分を一まとまりとして捉え、六つの根本マントラとして子供の頃から習うと言っていた。男だけではあるが、お参りに来る男達はみな自分でマントラを誦えて礼拝していたようであった。

プダンダの儀礼

 さてヒンドゥー教のあり方をもっと純粋な形で伝えているのがプダンダの儀礼である。葬式とか祭りの場合には観光客であっても彼らの儀礼を行う様子を見ることが出来るが、彼らにとってはそうした儀礼は副次的なものであって、祭礼とは無関係に毎朝義務として同じことを繰り返しているのである。

 その儀礼はスーリヤ・セーバナ(太陽の崇拝)とよばれているが、単なる太陽ではなく、太陽に現れているシヴァ(佛教のプダンダの場合には佛陀)を崇拝するものである。この儀礼の本来の意味や現在の意味については後に述べることにして、まずどのような儀礼が行われるのかを見てみよう。

 この儀礼は、本来は夜明けに始めなければいけないはずの儀礼であるが、観察した二人の場合はいずれも高齢を理由にして8時半あるいは9時ぐらいからしか開始されなかった。

 儀礼の次第としては、まず道具や供物(花、水、香)の浄化、自分自身の浄化、自己神化(自身を神の座として神と一体化する)、こうして降臨した神を水瓶の水に移してそこでもう一度供養、神の従者の神々の供養、そのほかの神々の供養、神々にお帰りいただく、過ちがあった場合の償いの儀礼、という具合で、全体で一時間程続く。神を「象徴する」マントラやムドラー(「印相」複雑な両手の動きによって神や行為を象徴する動作)が所作の中心であって鈴をならしたり花や水を捧げる動作が伴う形で行われ、マントラを聞き取れなければ同じことの繰り返しとしか見えないだろう。シヴァ教のものと仏教のものとでムドラー(印)がかなり違っている。マントラに関しては、仏教の方は声が小さい上に金剛鈴を鳴らしっぱなしで、とてもマントラを聞き取ることができず、主神に対するマントラが(他の神へのマントラはほとんど共通のはずだ)どの程度異なっているのかは確認できなかった。

 このような儀礼は8世紀頃を中心に成立したヒンドゥー教(シヴァ教)のアーガマと呼ばれる文献に規定されているものである。(n.4)イニシエイション(ディークシャー)を受けた行者が毎日行うべきシヴァの崇拝の儀礼であるが、その本質はむしろ自分自身シヴァになることにある。そのことは「シヴァとなってシヴァを供養すべし」と明確に述べられており、シヴァを崇拝する部分よりも、その前に行われる自己浄化の部分の方が大きな位置を占めている。これは、人間は本質的にシヴァと同じものでありながらそのことを忘れているために輪廻や苦しみの生存があるのであり、自己の本質がシヴァと同一であるということを再認識すれば死後に(すぐれた人は生前でも可能だが)シヴァと一体となって解脱に到ることが出来るという教理によって、毎日シヴァとの同一性を実感出来るようにシヴァの供養を行うということである。シヴァとの同一性の意識を持つために、マントラの力の「炎」で汚れた身体をまず焼きつくし、念を込めた指先でマントラの力を身体に「入魂」し、存在の階梯を積み重ねた玉座の上に神を呼び下ろして一体化する技法が入念に行われなければならない。

 儀礼のこうした本質は現在のシヴァ教のプダンダによっても明確に意識されている。我々の観察したシヴァ教のプダンダの場合、例えば冠をかぶるのも、自分がシヴァとなったということをはっきりと意識するためだと答えてくれた。これは二つの意味で非常に驚くべきことである。一つには、本家であるインドにおいても、こうした教義を維持している人々はごく少数であって、シヴァ教の儀礼が広く行われている南インドにおいては、自己とシヴァの同一性など実際の意識に登ることはなく、ひたすら偉大なる神を讃え奉仕することが中心となってしまい、シヴァのリンガに対して食事等の供物を捧げることのみに重点がおかれているからである。リンガに対する供養は、バリ島では文献にはあっても実際には行われていない。この点のみを見ると、一見バリ島のヒンドゥー教においてシヴァへの信仰が弱まっているように見えるかも知れないが、シヴァ教の本来的立場からは外的な目に見える供養は二次的なものでる。最も重要なのは、先に述べたような形で自己の内部において自己をシヴァとして供養することなのである。

 もう一つの点は、プダンダ以外の人々にとってはこの儀礼は全く別の意味を持っているということである。バリ島の普通の人々にとってプダンダの儀礼が重要なのは、それが「聖なる水」を作り出すということである。この点からバリ島のヒンドゥー教は「聖なる水の宗教」(アーガマ・ティールタ)と呼ばれることもある。ティールタとはサンスクリットでは本来「渡し場」を意味し、そこから水をともなう聖地を意味するのだが、現代の南インドのバラモンの女性は普通に水のことをティールタと呼んでおり、バリ島において聖水をティールタと呼ぶのもインドに直接由来しているのかもしれない。

 葬式のようなバリ島の儀式においては常にこの聖水が必要であり、そうした場合、プダンダ達(たいていは一人だが大きな儀式のときは数人呼ばれることもある)が呼ばれる。彼らは毎朝行っているのと全く同じ供養を行ってシヴァを水の上に呼びだしそれによって浄められた水が聖水として人々に分け与えられるのである。プダンダの儀礼のあいだ人々はおとなしくあるいは無関心にその終わるのを待っているだけであり、その意味はまったく理解されていない。プダンダの方も、自分の儀礼に集中しているだけで、それが終わればその後の儀式には全く関わらずに帰ってしまう。

 こうしたあり方は、プダンダの儀礼のあり方にも影響を与えている。シヴァ教の聖典においても現在の南インドの儀礼においてもムドラーは非常に簡素なもので、たとえば鈎のムドラーで魂を引き上げるとか明白な目的を示している。それに対してバリ島のムドラーは華麗であって、五人の神のマントラをとなえながら数秒のうちに五人の神を象徴するムドラーを空中に描くといったことが行われる。また金剛鈴の使用もバリ島独特である。これらは佛教の影響であることも確かであろうが、公衆の面前で聖水を作るために儀礼を行うという条件にも規定されているものと考えられる。たとえ観衆は儀礼の本質を理解していなくとも、何かすぐれたことがなされているのを見て始めてその効力を信じるのであり、ほとんど身動きのないような儀礼だけでは納得しないだろうからである。

 「見せる」儀礼という点からは、バリ島において護摩の儀礼が消えてしまったのは不思議である。サンスクリットでホーマという火に溶けたバターを注ぐ儀式はインドのシヴァ教においては重要な部分なのであるが、これはまったく残存していない。牛が少なくてバターが得にくいというような物質的理由によるものとも考えられるが、日本ではバターの代わりに木片を使って現在でも密教儀礼のなかの重要な位置を占めているのである。この点は謎としか言いようがない。

 「見栄えのする」儀式の必要性や、バリ島の宗教儀礼の芸能性といったものは、バリ島における神像の不在と相補的な関係をなしているように思われる。小さな寺でもブサキ寺院のような大寺院でも、バリにはほとんど神像がない。あるのは空の仏壇のようなものとか、パドマアーサナ(蓮華座)とよばれるただの椅子である。神の形を作らないということは、イスラム教の影響の可能性もある。バリ島のヒンドゥー教の多くの部分は16世紀にイスラームの圧迫を受けてジャワ島から移ってきたのであり、それ以前の遺跡には神像も見られるからである。もう一つの可能性としては、シヴァ教の高度な崇拝形式(完全に精神的観想のみによるやり方)に依っているということも考えられる。しかしながら、これはやはり宗教的達人にふさわしい方法であって普通の人の興味を引きつけにくい。

 たとえばインドの寺のように神像があればそれを派手に飾り付けることに努力が注がれて、その前で讚歌などが歌われることになろう。そういった神像のないバリでは、まず多量の供物をきれいに並べることに熱中する。椰子の葉を切って細工したものなどのほかに、豚の脂身や丸焼きなどが一面に並べられる。神像に向かってひざまづくことができないなら、自ら踊りくるってトランス状態に入って神を迎えようとする。固定した信仰の対象がないときにはパフォーマンスが必要となるのである。

 シヴァ教において大事な儀礼として入門式(ディークシャー)があるが、この伝統も変形してしまっている。本来この儀礼は単なる入門式ではなく、死の時の解脱を保証する浄化の儀礼でもあるが、その側面は忘れられている。バリでは師の足に接吻することで師への絶対的な帰依を示すものだけとなっている。この点で欠落があるとはいえ、師資相承に絶対的な重要性を置く点では、インドの伝統に忠実なのであり、シヴァのプダンダは、今でも師のことを考えるとその後ろに後光の射しているかのようだと言っていた。

 たとえ教義の理解があやふやだとはいえ、このプダンダは千年前のインドの教えの基本においては忠実な継承者なのである。一方、現在の南インドのシヴァ教寺院のバラモンたちはバクティ(信愛)の教えの影響をうけて、うやうやしく神の崇拝を行うだけで、自らが神と等しいなどという考えには震え上がってしまうだろう。こうして「[かつてのシヴァ教儀礼のあり方の一端は]バリ島において現在までも継続しているように思われる」(n.5)という南インドのシヴァ教研究の第一人者ブリュンネル女史の言葉がある意味ではもっともなことが納得されたのである。

[後記]

 この論文は、『神々の島バリ --- バリ=ヒンドゥーの儀礼と芸能』河野亮仙・中村潔編(春秋社 1994, [ISBN 4-393-29110-7 C 0039], 第五刷 1997)の第3章として刊行されているものです。ネットワーク上の論文の実験として私自身の撮影した写真を付加してあります。これを読んで興味をもたれた方はこの本をお買いになると更にいろいろなことを知ることができますし、美しい写真も沢山のっています。

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