【付録 社会生活上のアドバイス】
   マダガスカルで生活するからと言ってとりたてて特別のものがあるわけではないと思います。日本での社会常識を働かせてマダガスカルにも適用すれば、それで十分な場合が多いのではないでしょうか。それでも分からない事、疑問の事があれば、その場で地元のマダガスカルの人に遠慮なく訊ねることが一番です。私たちは、<ガイジン>(vazaha)ないし<よそ者>(vahiny 客の意味もあります)ですから、そのような人たちがマダガスカルの人たちに物を訊ねることはちっとも恥ずかしいことではありません。マダガスカル文化・社会におけるしてはいけないことあるいは<禁忌>(fady)の事が気になる人は、Jorgen Ruud , TABOO : A Study of Malgasy Customs and Beliefs , 1970 , Antananarivo:Trano Printy Loterana がアンタナナリヴ市内の本屋では簡単に入手できますので、読んでみてください。マダガスカル人の <禁忌>に関する様々な慣習が網羅的かつ体系的に記述された、大変に優れた本です。その上で、マダガスカルの人びとの社会生活に係わる考え方の一部をお伝えしておきます。

 fiaraha-monina : マダガスカル語で<社会>の事をこう呼びます。文字通りに訳すと「一緒に暮らすこと」です。ですから、マダガスカルの人たちにとっては、好むと好まざるとにかかわらず、人間は人と共に生き生活するものなのです。

 tia tena もしくは tia tena loatra : 文字通りに訳すと「自分を愛する」もしくは「自分を愛しすぎる」です。意訳すれば、<利己的>や<自分勝手>ないし<エゴイズム>でしょうか。上記のfiaraha-moninaに対置される単語です。「自分を愛する」ことは人間誰にでもある感情ですが、それを「一緒に暮らすこと」すなわち<社会>の中で押し通したり、強く主張することは、tsy mahay fiaraha-monina「社会生活をわきまえない」態度や行動となります。

 araka ny zokiny : 文字通りは「年長者順に」と言うことで、年長者を敬うことを指します。年長者の意見や考えが無原則に承認されるわけでは決してありませんが、<社会生活>firaraha-moninaの中では、年長者に敬意を示す行動は大切な事柄です。

 manetry tena : 文字通りは「自分を低める・卑しめる」ですが、この二語で<謙譲する>を表します。マダガスカルにも地方や民族による言葉や習慣の違いがあり、自己顕示や自己主張の程度にも顕著な差がありますが、それでもおしなべてmanetry tena の習慣と感情が存在します。ですから、相手に贈り物をする時には、「小さな物ですが」あるいは「僅かばかりですが」との言葉を必ず添えます。そして、mahay manetry tena 「謙譲が分かる」事はまた、mahay fiaraha-monina「社会生活が分かる」事でもあります。

 miavona・miavonavona : manetry tena の反対の単語がこのmiavona ないし miavonavona で、すなわち「威張る」・「偉そうにする」・「(人を)見下す」の意味です。miavona・miavonavonaにあたる具体的な行動としては、人から挨拶されたのに挨拶を返さない、人と話をしない、お祭りや儀礼に参加しないなどもあてはまります。上記<社会生活>fiaraha-monina の観点からは、tia tena と共にmiavona・miavonavonaは、嫌われる態度ないし行動です。

 諺・慣用句 Tsy misy olona tsy misy kilema. : 「傷(欠点)の無い、人間はいない」。そのような人間が集まり作っているのが、<社会>fiaraha-moninaなのです。また中央高地で行われるkabary<スピーチ>の基本精神も、「自分が到らない人間(欠点のある人間)であるかをどれくらい知っているか」を示すことにあるのです。

 ですから、社会生活の上では次ぎの事柄に気を付けてください。
 1)人前で、ある人に恥をかかせるような言動をとらないこと。ある人の申し出や意見や考えの公衆の面前でのあからさまな拒絶や拒否や否認も、そのような行動の一つとなる事があります。
 2)仮に相手に非があることが明確な場合でも、その人を論理的に追いつめ逃げ場のないような叱責や譴責のやり方をとらないこと。
 3)相手の過ちや非を叱責した際に、もし相手が謝罪した時は、それ以上の追求をしないこと。
 4)自分の意見や考えが正しいと確信できる場合でも、それがその場の大方の人の意見や考えとそぐわない時は、それを強く主張したり押し通したりしないこと。

 言葉が拙くても構いません。とにかく人と一緒に行動し喋ることです。初代大統領のTsirananaや国家首班就任直後に暗殺されたRatsimandravaが今でも根強い人気があるのは、彼らがその地位にもかかわらず農民などの間に分け入って話を聴き、積極的にコミュニュケーションを図ろうとつとめたからに他なりません。逆に前大統領のRatsirakaが不人気だった大きな要因の一つが、フランス語の能力の高さをひけらかした上、民衆の前にほとんど姿を現さず、集会などの際にも人びとを寄せ付けなかった事にあります。

【付録 挨拶についての約束事】
 マダガスカル語の挨拶の中には、vaovao ・maresaka ・kabary ・kabaro など、「知らせ」・「聞いたこと」などと直訳されますが日本語に訳すことの難しい単語の問いかけが、どの方言においても例外なく含まれています。強いて日本語に訳せば、「お変わりはありませんか」のフレーズでしょうか。この問いには、必ず Tsy misy.「ありません」と答えます。マダガスカル語の会話を習う時には最初に覚えるフレーズですが、これらの言葉には使い方の決まりがあります。すなわち、このフレーズは、何らかの<主>が先に問いかけるものなのです。例えば、人の家を訪ねた時は、家主が客に対して先に問いかけます。あるいは、外で会った時は、立ち止まっていたり座っていたりする人が歩いている人に先に問いかけます。それから、村の中で人と会った時は、村人が外からやって来た人に先に問いかけます。したがって、私たち<ガイジン>(vazaha)はマダガスカルの土地の上では常に<よそ者>でありまた<お客>(両方とも vahiny と呼びます)ですから、通常の状況ではマダガスカルの人からの問いかけを待ち、それに Tsy misy. と答えてからこちらが初めて相手に、「お変わりはありませんか?」と問いかけなければなりません。この挨拶の順番取りを守らないと、マダガスカルの人たちはとても奇妙に感じるようです。ただし、既に任地に定住し、自分が住んでいる家ないし部屋に人が来てくれた時は、自分が<家主>の立場として、先に「お変わりはありませんか?」と問いかけても構いません。この時は、マダガスカルの人から見ても私たちの側が<主>であることを納得する状況ですから。
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