マダガスカルのことわざいろいろ 第3回 |
『マダガスカル研究懇談会会報 Serasera』第19号 pp.31-33. 所収
|
Lasa ny mamba, ka tonga ny voay.
直訳「ワニが去った、そうしたら(また)ワニが来た」
出典[J.A.Houlder, Ohabolana, Antananarivo:Trano Printy Loterana, 1960:81.]
出典[W.E.Cousins et J.Parret, Ohabolan'ny Ntaolo, Memoires de L'Academie Malgache Fascicule XLIV, Tananarive:Imprimerie Nationale, 1972:471.
|
Lasa ny mamba fa tonga ny voay.
直訳「ワニが去った、けれども(ほかの)ワニが来た」
出典[Estine RINARASOA, Ohabolana Malagasy, Antananarivo:Librarie Mixte, 2006:115.]
|
Raha lasa ny voay, misosoka ny mamba.
直訳「ワニが去った時、(ほかの)ワニがやって来る」
出典[Regis RAJEMISA-RAOLISON, Rakibolana malagasy, Fianarantsoa:Ambozontany, 1985:567.]
意訳「一難去ってまた一難」
ことわざの意味「悪いことが去ったと思って安心してはいけません。次ぎにまた悪いことが続けて起きることもあるのです。ですから、災いなどに備え、常に注意を怠らずに毎日暮らしてゆかなければなりません」
|
マダガスカル語の動詞は通常、teny「ことば」の語根にmi-と言う接頭辞をつけて、miteny「言う」を意味する能動態をつくるように、語根に接頭辞なり接尾辞をつける必要があります。これに対し、この諺で用いられているlasa「去る」とtonga「着く、来る」は、共に語根そのものが動詞としての意味を持っている、語根動詞です。この短い諺を口に出した時に、語調のリズムが良いのは、二音節と二音節に近いこの語根動詞が二つ重ねるように使われているためでしょう。
Mambaとvoayは、共にワニを意味します。両単語とも指しているものは全く同じなのですが、mambaはスワヒリ語もしくはバンツー語に起源があり、一方voayの語はオーストロネシア語に起源があります。メリナ方言の日常会話では、voayの語が用いられますが、メリナ方言話者でもmambaの語をよく知っています。このように、指す対象は同じでも、起源の異なる単語が並列的に用いられるマダガスカル語としては、「犬」を指すalikaとamboa、「ネコ」を指すpisoとsakaなどがあります。「犬」の場合、alikaについては異論があるもののオーストロネシア語起源と推測する説がある一方、amboaは異論なくスワヒリ語起源です。「ネコ」の場合、pisoが英語のpuss、sakaがフランス語のchatがそれぞれ訛った単語です。この諺においては、一匹のワニが去ってやれやれと思っていたら、また他のワニがやって来て危ない目に遭うと言う情感が、voayとmambaの単語を使い分けることで、より高まっているように思います。
現在のマダガスカルにおいて、自然状態のワニを見ることは、大きな河川でさえなかなか難しいようです。しかし、昔は河川や池沼の至るところにワニが生息していた語られていますし、ワニは昔話の主人公としても登場します。ワニが多かったことの証拠に、マジュンガ州やムラマンガ県(Moramanga)には、マルヴアイ(Marovoay)と言う名前の町があります。Maro+voay、すなわち「ワニがたくさん」を意味しますから、かつてはよほどワニが多かった土地なのでしょう。他にもベヴアイ(Bevoay)、同じく「ワニがたくさん」の意味を持つ名前の村もあります。私が長年調査を行っているマジュンガ州北部の農村でも、昔は水辺にワニが生息していて、夜間はワニが陸に上がってくるため、村の脇にある池の周辺にさえ日暮れてからは危なくて近づくことができなかったと、老人たちは語っています。その老人たちによると、第二次世界大戦後、ワニ皮が高く売れた時期があり、その時に村の周囲の池沼に居たワニを獲り尽くしてしまったとのことです。1895年の第二次イメリナ王国−フランス戦争に従軍したフランス軍兵士が書いた軍記が何冊か出版されていますが、その中には、マジュンガ州のマルヴアイの町をめぐる攻防戦の後、戦場に遺棄されたイメリナ王国兵士の死体や負傷者をワニが食べたとの記述が見られます。ですから、この諺で描かれている情景は、昔のマダガスカル人びとにとっては、毎日の水汲みや水浴や洗濯、あるいは旅の中で、現実感を持った生活の一こまだったのです。
Kaと faは共に接続詞ですが、kaは順接の接続詞、faは逆説の接続詞になり、いささか諺のニュアンスが異なってきます。Kaは、kaの前にくる文章の事象が起こった結果、kaの後にくる文章の事象が起こった場合の接続詞として使います。最近旅行ガイドブックやマダガスカル製Tシャツのロゴなどで時々見かける、Gasy ka manja.と言う短い一文も、「マダガスカル人だから美人」、すなわちマダガスカル人である事実が先にあってはじめて、kaの後の「美人」が成り立つことを示しています。この諺では、kaの接続詞は、一匹が去ってしまったと言う完了の意味を強く示唆します。これに対しfaは、この「マダガスカルのことわざいろいろ」の連載第一回で取り上げたHitsikitsika tsy mandihy foana, fa ao zavatra.の諺の中で説明したように、順接と逆説どちらの意味にもなります。マダガスカル・チョウゲンボウの諺では順接の意味でしたが、今回のワニの諺の場合には、逆説の意味となります。一匹のワニが去ってやれやれと安心していたら、その安堵感を裏切るようにもう一匹またやって来たと言うわけです。
ラゼミッサ氏の『マダガスカル語辞典』に挙げられているRaha lasa ny voay, misosoka ny mamba.のフレーズは、少し構文が異なります。Rahaは、「もし〜ならば」と言う意味でよく使われる接続詞ですが、「〜する時」の意味も持っています。この諺では、「ワニが去った時」の意味になります。Misosokaは少し難しい単語ですが、語根のsosokaは「挿入すること」・「付け加えること」を意味し、misosokaは「〜の前に身を置く」あるいは「入り込む」を意味する自動詞となります。ですから、この諺では、「ワニが私の前に身を置く」、すなわち「ワニがやって来る」となります。ちなみに、葬式やお通夜で人を見舞う際には、Aza misosoka alahelo intsony, tompoko!との定型化された文言を最後に述べますが、これは「悲しみの前に身を置くのはもうおやめください」あるいは「もう悲嘆に入り込むことのないように」との事から、「どうぞもうこれ以上お嘆きにならないように」との意味を伝えています。
諺の意味そのものは日常生活における油断や慢心を戒めていますが、用法としては日本語の諺の「一難去ってまた一難」がぴったりです。一つサイクロンが去ったと思ったらまた新たなサイクロンがやって来た、頻発する停電がおさまったと思ったら電気料金が大幅に値上がりした、旧大統領が退陣して新しい政権になり生活が良くなると思ったら新大統領もろくなことをやらない、現代マダガスカルにおいてワニはすっかり姿を潜めてしまいましたが、この諺の登場する場面は、尽きることがないようです。
|
|