III.リントンの文化領域論の及ぼした影響と評価

  1.  リントンのマダガスカル文化領域論に対しては、後にMangoky河流域でマシクル族の調査を行ったフランスの民族学者Henri Lavondésが、1967年に出版した自らの民族誌の中で公然と批判を加えている。Lavondésによれば、リントンの文化領域論は、次ぎの三点において全く皮相なものでしかないと言う。
     a.)数多くの細部の誤り。例えば、アンドゥリアマンドゥレシを、神と同一視していることなど。
     b.)不完全な文献資料に依拠していること。しかしリントンの調査当時、マダガスカルの各民族に関する民族誌のほとんどが刊行されていなかったことは、考慮されなければならない。

     ⇒Raymond Decary, L'Androy (Extréme Sud de Madagscar), 1933, Paris:Société Editions Géographique, Maritimes et Coloniales. ,Hubert Deschamps, Les Antaisaka,Géographie humaine, coutumes et histoire d'une population malgache, 1936, Tananarive:Pitot de la Beaujardiere, H.M.Dubois, Monographie des Betsileo (Madagascar), 1938, Paris:Institut d'Ethnologie. , Jacques Faublé, La Cohésion des Sociétés Bara, 1953, Paris:Presse Universitaires de France.

    などが、マダガスカルにおける先駆的な民族誌である。すなわち、リントンの『タナラ族』自体が、この脈絡では最も初期の出版物に位置づけられるだけではなく、R.DecaryとH.Deschampsが行政官研究者、H.Duboisが神父であることからして、専門研究者によるマダガスカルの民族・文化人類学的な民族誌として最も早くに書かれた著作である。フランスの民族学者による民族誌は、J. Faubléの1953年のバラ族の民族誌が最初である。フランス民族学者によるマダガスカル研究が活発化するのは、Georges Condominas, Fokon'olona et collectivités rurales en Imerina, 1960, Paris:Editions Berger-Levrault の出版以降である。

     c.)各文化領域の内部において、文化特色の細目を分析するとその地域的区分は、マダガスカルの現実の複雑さを十分に説明することのできない過度の単純化であること。例えば、領域3における婚姻の特徴「普通はクラン内婚であるが、定まった規則はない。姉妹の子供同士および半兄弟と姉妹同士は結婚できないが、兄弟の子供同士および交叉イトコの結婚は、是認されている」(R.Linton, 1928, p.387)は、マハファーリ族、アンタンドゥルイ族、バラ族については当てはまるが、Lavondés自身が調査を行ったマシクル族の村において機能している婚姻体系は、リントンが領域2の中のベツィレウ族について「男系および女系出自上の4世代内の先祖を共にする男女の結婚を禁止している」(ibid., p.379)と述べたそれによって特徴づけられる。この二つの異なる婚姻体系は、マダガスカル全島に広がっている一方、同一地域や同一村内でも共存している。さらに領域3とリントンによって規定された地域内においても、その親族名称は兄弟姉妹やオイ・メイ名称などについて極めて不均質である。  以上の3点より、Lavondésが観察したマシクル族の事実を、領域3として一般化することはできないと主張している(Henri Lavondés, BEKOROPOKA, Quelques aspects de la vie familiale et sociale d'un village malgache, 1967, Paris:MOUTON & CO. pp.16-19)。

     ⇒しかしながら、1926年から1927年に2年をかけてほぼマダガスカル全島の広域調査を中心に行ったリントンと、1961年から2年をかけてMangoky河下流の数ヵ村において集中調査を行ったLavondésとでは、文化領域に対する接近の仕方が全く正反対である点に注意しなければならない。リントン自身は、地域や部族やクラン毎の差異を無視した<マダガスカル人>や<マダガスカル文化>と言う包括性を批判するために、リントンの言葉によれば「一般に想定されているマダガスカル文化の単一性は神話である」(R.Linton, 1928, p.390)ことを明らかにするために文化領域論を要請したのに対し、Lavondésにとっては、そのような文化領域の設定そのものが村落レベルからは途方もない一般化と捉えられるのである。

  2. リントンの文化領域論のその後のアメリカ文化人類学によるマダガスカル研究への影響
    a.George Peter Murdock 1959年
     G.P.Murdock, Africa: its peoples and their culture history, 1959, New York: McGraw-Hill.pp.212-221
     G.P.Murdockは、マダガスカルにおいて調査を行ったわけではないものの、アフリカの民族の文化史系統を論じた1959年の本の中で、「第7部 インドネシアの文化的影響 27章マダガスカル人」と題する一章全てを、マダガスカル島への人の移住とそのアジア・アフリカ双方の歴史系統および現住民族との関係についての記述に充てている。この章の中で、マードックは、マダガスカルの各民族を幾つかの区分に纏めている。
     「多くのマダガスカルの部族は、便宜上以下の11の主要な集団にまとめることができる;

    1.アンタイサカ(タイサカ、テサキ):隣接するアンタイムル(アンタイムルナ、タイムル、テムル)、アンタンバフアカ(タンバフアカ)、アンタイファシ(アンタイファシナ、タイファシ、テファシ)を含む。彼らの人口はおよそ42万人であり、昔のアラビア系の形質的特徴および文化的特徴の顕著な流入を示している。
    2.アンタンドゥルイ(タンドゥルイ):隣接するアンタヌシ(タヌシ)を含む。彼らは、およそ39万人。
    3.バラ:類縁のバラベ、イマムヌ、サウツァウトゥラ、ティムンジ、ヴィンダを含む。彼らは、およそ18万人。
    4.ベツィレウ:アリンドゥラヌ、イラランギーナ、イサンドゥラ、マナンドゥリアナを含む。彼らの人口は、およそ50万人。
    5.ベツィミサラカ:ベタニメーナを含む。彼らの人口は、およそ63万人。
    6.マハファーリ:彼らはおよそ8万人の人口を擁する。
    7.メリナ(アンティメリナ、フヴァ、イメリナ、ウヴァ):形質においてマレー系の顕著な高原の民族(people)であり、1600年頃から近隣に対し政治的覇権を及ぼしている。その現在の人口は、およそ100万人。
    8.サカラヴァ:アンタンカラナ、アンティブイナ、アンティフィヘーレナ、アンティマイラカ、アンティマーラカ、アンティメーナ、アンティミランザ(アンタンブング)、ヴェズを含む。彼らは、形質的にはおそらくマダガスカルの中で最もニグロイド的特徴が強いものの、インドネシア型アウトリガー・カヌーを現在でも保持しているマダガスカル内唯一の集団である。彼らの人口数は、およそ30万人。
    9.シハナカ(アンティシハーナカ):彼らの人口は、およそ8万5000人。
    10.タナラ(アンタナラ):イクングとメナベを擁し、隣接するベザヌザヌ(アンタイーヴァ、アンタカイ、タンカイ)をも含む。彼らの人口は、およそ20万人。
    11.ツィミヘティ:彼らの人口は全部で、およそ30万人。
     マダガスカルの諸民族は、主にその生業(basic economy)に基づいて、4つの下位区分に分かれる;内陸高原、東海岸、内陸高原と東海岸の間の断層崖、および島の最北部と最南部を含む西海岸の平原。(ベツィレウとメリナ)高原の部族は、副次的な家畜飼育を伴う灌漑稲作に主として依存している。(アンタイサカとベツィミサラカ)東海岸の民族は、漁撈と家畜飼育を伴う陸稲焼畑によって生計をたてている。(シハナカ、タナラ、ツィミヘティ)(内陸高原と東海岸の間の)断層崖の民族は、両者の中間的な位置にあり、多くの点において陸稲作から水稲作への転換の初期的状態によって特徴づけられる。(アンタンドゥルイ、バラ、マハファーリ、サカラヴァ)(西海岸の)平原の民族は、牛牧畜民であり、海岸部では漁撈に大きく依存し、また農業への依存度合いは低い」(G.P.Murdock, 1959, pp.216-217.)。

     ⇒マードックは、当然とは言えリントンが用いることのできなかった1930年代以降に出版されたフランス語の民族誌を的確に利用している。しかしながらマードックは、アフリカ大陸の人びととマダガスカル島の人びとが、形質的また文化的にどのような歴史的な関係にあったかについて記述することを主眼に置いている上、自身はマダガスカルにおける調査経験を持たなかったため、その民族の11区分はかなり特異な分類となっている。一方、生業に基づいた4区分は、シハナカ、タナラ、ツィミヘティの3つの民族を内陸高原と東海岸の間の断層崖の民族としてひとまとめにし、陸稲焼畑から水稲水田稲作への転換局面にあることを明かにした点にマードック独自の大きな特色が見られる他は、リントンの文化領域区分をほぼそのまま踏襲する形となっている。マードックの27章の参考文献には、リントンの文化領域論の論文およびタナラの民族誌の二つが挙げられており、その影響をうかがわせる。

       b.Aidan Southall 1971年
     1971年発行の『アメリカ人類学雑誌』(American Anthropologist) 73巻 において、A.Southallが責任編集する「マダガスカルにおける親族関係、出自と居住」(Kinship, Descent, and Residence in Madagascar)と題する下記の3論文を載せた<マダガスカル小特集>が組まれた。

    1) Aidan Southall, “Ideology and Group Composition in Madagascar” , ibid.pp.144-178.
    2) Conrad Phillip Kottak, “Social Groups and Kinship Calculation among the Southern Betsileo”, ibid. pp.178-193
    3) Peter J.Wilson, “Sentimental Structure: Tsimihety Migration and Descent” ibid. pp.193-208.

     この小特集の巻頭論文の中で、A.Southallはマダガスカルの民族と文化の下位区分との関係およびリントンの調査と著作の意義に触れ、次のように述べている。
     「複数の異なる文化の観点からマダガスカル人の親族を比較することは、そこに関わってくるマダガスカル人の文化単位の特徴について幾つかの問題を呼び起こさずにはおかない。全てのマダガスカル人は、同一言語の様々な方言を話している。20ほどの民族集団を区別することが、慣習的に行われているものの(Deschamps 1961:294)、これらの民族集団の名称のほぼ全てが、外部の人間(foreigners)によって与えられてきたものであり、ごく少数の名称だけが、植民地化以前に自称詞として用いられていたにすぎない。17世紀のルイ・マリノ神父のような初期のヨーロッパ人の旅行者たちは、河の名前、統治者の名前、王国の名前、あるいは王の住む村の名前によって人びと(populations)を区別していた(Grandidier et al.1904)。タナラ、アンドゥルイ、タヌシ、シハナカ、テファシ、アンカラナ、サカラヴァなど部族の名称と言われるものの多くは、生態的な名付けにすぎず、それぞれ、森の人びと、有刺林の人びと、島の人びと、湖の周りの人びと、砂の人びと、岩の人びと、長い谷の人びとを意味するために用いられてきた。さらに、幾つかの民族名称の起源については、疑わしいものがあり、議論の対象となっている。これらの民族名称のいずれもが、政治的に中央集権化されたり統一されたりしたことがない。18世紀以前はこの名で知られていたわけではないが、メリナだけが植民地化以前に中央集権化され統一されていた。
     それゆえ、文化的区分や文化的領域(cultural boundaries)の根拠は大なり小なり恣意的なものであり、マダガスカル人とは単一の主題の上の変異(variations on a single theme)であるとの仮定へと導くことにもなろう。海岸、半砂漠、森林、山の多い高原;漁撈、牧畜、キビ栽培、陸稲栽培、灌漑稲作と言った生態系と生活様式の大きな違いは、社会組織や文化の諸特徴に反映される可能性を有している。インドネシア系から派生した顕著な同質性の一般的な印象にもかかわらず、とりわけアラブやスワヒリの他の影響の証拠も豊富に存在する。それゆえ、各地域における放散(divergences)もおおいにありうることである。以上のように、これまでの文献において慣習的に部族と扱われてきた民族の名称は、しばしばよそ者によってそれらの名称が与えられてきたにせよ、遅くとも19世紀頃からは自分たち自身をそのような名称で認識する地域的な集団分けを指すために用いられるうるであろう。これらの名称で呼ばれる人びととは、彼らの内部でかなり大規模な移動が繰り返されてきたにせよ、互いの集団および外部の影響に対するさまざまな反応と受容および多様な政治的な歴史を伴う、それにより多くの場合広範囲に広がり互いにはっきりと隔てられていた人びとと言う、異なる生態的な適応を表している」(A.Southall, ibid., pp.144-145)。
     「昔のイギリス宣教師たちを別にすれば、リントンの著作は、おそらくマダガスカルの文化に対する英語圏の人びとの本格的な参入であると同時に、専門的人類学者による最初の著作であった。リントンの洞察力およびマダガスカル全島の精力的な踏破は、他に並ぶもののない文化的関係と文化史に関する見取り図を確立した。・・・タナラについての彼の集約的調査は二ヶ月間のものであり、物質文化や個人のライフ・サイクルについては詳細である一方、社会組織については、総計300頁以上の中でわずか15頁が充てられているにすぎない。一方、1938年のベツィレウについてのデュボワ神父の記念碑的著作も、家族生活の素描に1500頁の中の60頁を費やしているにすぎない。リントンは、部族、氏族(gens)、亜氏族、リニージの概念図式の下にタナラの社会構造を記述している。彼は、タナラとタナラの多数の下位区分の双方に対し部族の語を適用し、部族と言う単語の用法に揺らぎを見せている。後の1939年の論文において彼は、氏族をクランに置き換えた一方、ザフィマニリをクランと部族の二つの単語で呼んでいる(1939:284)」(ibid., pp.145-146)。

     ⇒Southallは、慣習的な部族や民族集団の名称による区分の実体性について疑問を投げかけ、マダガスカルにおける人びとの文化や社会の多様性や相違は、その居住する生態環境に対する適応によって生じたものであるとの見解を明瞭に表明している。リントンの文化領域区分に直接言及しているわけではないものの、その区分に理論的な意味づけを与えたとも言える。この見解は、1971年のKottakの論文において「文化適応」論としてさらに明確に述べられることになるだけではなく、Southall自身も1975年の論文の中でリントンのタナラ、とりわけザフィマニリ研究について触れ、「もしリントンが<森に対し適応した>ことだけを述べていたとするならば、彼の全体的な内的発展の議論は破綻する。しかしながら、彼が<適応した>ことを内的な生態的変化と社会的変化双方の結果の一部であると考えていたなら、さまざまな事実が彼を反駁することになる。彼の仮説は明らかに、一つの集団から他の集団への政治的な観念の伝播や農業技術の伝播などではなく、環境との人間集団の相互作用における内的発展の動態を意味している。タナラがベツィレウの影響の下に灌漑や王制を発展させてきたと考えるのか、それともただ単に人びとがベツィレウからタナラへと移住し、すでに慣れした親しんでいた制度や慣行をその場に作り出したと考えるのか、彼の仮説に残された余地はないであろう」と述べ、この適応論の可能性について検討を加えている(Aidan Southall, “Ecology and Social Change in Madagascar:Linton's Hypothesis on the Tanala and Betsileo,” 1975, American Anthropologist vol.77 p.605)。

       c.Frank M.Lebar  1972年
    ed.Frank M.Lebar, Ethnic Groups of Insular Southeast Asia Volume 1:Indonesia, Andaman Islands and Madagascar, 1972, New Heven:Human Relations Area Files Press. pp.1-3.

    HRAFが編集した『島嶼東南アジアの民族集団』の第1巻の第1章がわずか3頁ではあるものの、<マダガスカル>および<マダガスカル人>についての記述に充てられている。  「人類学者たちは、マダガスカル島のマダガスカル語話者人口の中に便宜上およそ20の民族集団ないし部族複合を区分している。これらの諸集団は、リントン(1928年)によって3つの文化領域、現行では3つの環境帯(ecological zones)に分けられている。東部:ベツィミサラカ(91万5千)、アンテイファシ(4万)、アンテイムル(21万2千)。高原:ベツィレウ(73万6千)、フヴァまたはメリナ(157万)、シハナカ(13万5千)。西部海岸:サカラヴァ(36万)、マハファーリ(9万1千)、アンタンドゥルイ(32万6千)、バラ(22万8千)。タナラ(23万7千)、タンカイないしベザヌザヌ(4万4千)、ツィミヘティ(42万9千)、アンタンカラナ(42万)、アンタヌシ(14万9千)は、上記の3領域の中間と考えられる。形質的差異および文化的差異は、おおよそこの三区分と相関しており、とりわけ生業(basic economy)について相関が高い。東部海岸の部族は、主に焼畑稲作に依存している。高原の部族は、棚田稲作に依存している。西部海岸の人びとは、主に牧畜と漁撈に依存している(Murdock 1959)。1928年の論文においてリントンは文化的多様性を強調したが、サウゾール(1971)は、マダガスカル人の<部族>の多くが、さまざまな生態的適応および外部との混交の度合いを経た基本的に類似の文化的基盤に立つ地域的なまとまりを実際に表しているのかについて、疑問を投げかけた」(ibid.,p.2)。

  3. Conrad P.Kottakの文化適応論 1971年
    Conrad P.Kottak, “Cultural Adaptation, Kinship and Descent in Madagascar,” 1971, Southwestern Journal of Anthropology , vol.27 pp.129-147.

     リントンの文化領域区分の設定から43年後、南部ベツィレウの実地調査を行ってきたC.P.Kottakが、「さまざまな地域環境およびさまざまな地域的接触と交換の歴史的形態に対する適応の社会−文化的方法と人間の双方を含む適応放散(adaptive radiation)の視点から、マダガスカルの文化・社会的多様性に接近する」(ibid., p.129)ことを目的に、新たに民族単位(ethnic unit)を6つの文化適応型に分類した。Kottakの主張の基礎は、祖型集団(parental group)から分かれた多くの下位集団が、さまざまな新しい環境に居住することにより、多様化への再分化をも含む進化的過程として適応放散することの概念にある(ibid., p.130)。そして、その祖型集団には、以下の共通の特徴を持つとされる原マダガスカル人(proto-Malagasy)を措定した(ibid., p.134)。1)父系に偏重する出自集団 2)母方出自集団への選択的帰属 3)夫方居住の優先 4)<血キョウダイ>と言う擬制的親族関係 5)ハワイ型イトコ名称と世代型名称 6)祖先崇拝 7)遺体の一部分を取り出し遺物として祭祀する習慣 8)割礼 9)ある領域の土地と人に対し権限を持つムパンザカ(王)の存在 10)アンドゥリアナハーリと呼ばれる霊的存在の信仰。次ぎに、この祖型集団が、メリナ王国の拡張などの要因によって、マダガスカル島各地域に分散し、その地域の自然的また歴史的な条件と状況に適応した結果、次ぎの六つの文化的適応型が生じた(ibid., pp134-145)。
     タイプI 河岸農耕民と儀礼的職能者(南東海岸部):アンタイサカ、アンタイムル、ザフィスル、アンタイファシ、アンタンバフアカ。
     タイプII 沿岸交易国と政治的連合国家:サカラヴァ、ベツィミサラカ、アンタヌシ。
     タイプIII マダガスカル型牧畜民(南部・西部):バラ、マハファーリ、アンタンドゥルイ、内陸サカラヴァ、内陸アンタヌシ。
     タイプIV 熱帯森林の焼畑耕作民(東部断崖):タナラ、内陸ベツィミサラカ。
     タイプV 灌漑農耕民(中央高原):メリナ、ベツィレウ。
     タイプVI 牧畜と菜園農耕複合(北東部・北部):ツィミヘティ、アンタンカラナ、シハナカ、ベザヌザヌ。

     ⇒Kottakの文化的適応型の区分で目をひくのは、これまで一つの民族として扱われることが普通だったベツィミサラカとサカラヴァとアンタヌシを、内陸部に住む人びとと海岸部に住む人びとの二つに区分したことである。また、タイプIIは生態環境への適応よりも歴史的な生業と政治的統合形態を重視した、Kottak独自の区分である。その一方、タイプIIを除けば、リントンの文化領域の区分そのものと大きな違いがあるわけではない上、共通の社会・文化的特徴を持つ祖型集団が、定住先の生態環境に適応することによって、現在見られる多様性と共通性をもったマダガスカル人を作り出したとするいささか極端な適応論に対しては、多くの実証的な批判のあることが予想される。

     マダガスカルの人々は、島に上陸した当初から現在に至るまで、さまざまな理由によりさまざまな規模の移住や移動を繰り返してきている。したがって、ある民族集団がマダガスカルの地図上の特定面積を占め、それら複数の集団が島の生態的条件に応じて、<マダガスカル人>を構成する幾つかの文化/社会的特徴を共有する下位区分を成すと言うリントンの文化領域論は、マダガスカル島の上で展開されてきた人々の生活・社会・文化について、いささか固定的あるいは静態的な印象を与える。その結果、千数百年に渡りマダガスカル人が新しい来島者たちをも受け入れながら島の上で繰り広げてきた離合集散の動態を軽視させる危険性を、この文化領域論は孕んでいる。しかしその一方、マダガスカル島に住む人々を等しく<マダガスカル人>と捉え、その文化や社会の共通性や斉一性を無批判に設定する人々に対し、この文化領域の設定は、リントン自身のもくろみ通り具体的な資料を伴った異議申し立てとなっている。さらに、北米インディアンの調査研究資料に基づいたその差異を表現するための博物館展示を念頭に文化領域論が生まれた経緯を思い起こせば、マダガスカルの文化や社会あるいは歴史についての展示を行うに際し、このリントンの文化領域は、現在なお言及されるべき有用性を保持していると言えよう。

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