マダガスカル北西部における「生存」と稲作
−小商品化した生活の実践− |
内堀基光・小川了編『資源人類学04 躍動する小生産物』弘文堂 2007年
pp.183−242 所収
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I. 彼らは「農民」か
マダガスカル島北西部あるいはマジュンガ州(faritany Majunga)の北部一帯を雨季(asara)に歩けば、低地に広がった水田とそこに成育する稲、ところどころにバナナやサトウキビなどが栽培される柵を巡らされた土地を目にするであろう。乾季(maintany)に同じ地域を歩けば、雨季に水田であったところで草をはむ牛群の姿が目につき、バナナやサトウキビなどの栽培される土地になぜ柵が巡らされていたのか、その理由がわかるであろう。これらが「農村」の景観であることに疑いをはさむ余地はなく、そこに生活する人びととは「稲作農民」であるに違いない。
しかしながら、1983年から調査を行ってきたこの地方において私自身は、人びとが自分たちを「農民」と名指した場面にほとんど遭遇した経験がない。その一方、マダガスカル語(1)には、次ぎのような「農民」と翻訳可能な単語が、幾つか存在する。
ムパンブーリ(mpamboly):マンブーリ(mamboly)、すなわち「耕作する」・「栽培する」と言う動詞の行為者形であり、「耕作者」や「栽培者」を意味する。
タンツァハ(tantsaha):サハ(saha)、すなわち「谷」・「畑」・「田舎」が語根であり、「田舎人」あるいは「村人」を意味する。
ムパムカチャ(mpamokatra) :マムカチャ(mamokatra)、すなわち「生産する」と言う動詞の行為者形であり、「生産者」を意味する。
タンツァハとムパムカチャの二語は、社会主義的政策の一環として1976年に創設された国立の「農民銀行」(Bankin'ny Tantsaha Mpamokatra 略称B.T.M.)[CEGET et CERSOI 1989:124]の名称におそらく由来して用いられるようになった、マジュンガ州北西部の人びとにとっては官製用語ないしメリナ(Merina)の人びとの言葉を基に作られている公用マダガスカル語(fietny official)の響きの強い単語であり、それゆえ日常生活の場面で使用されなかったとしても不思議はない。一方、「耕作する」、「栽培する」と言う動詞マンブーリは、同地方の人びとの日常生活の中でも頻繁に用いられる単語であり、pないしapを動詞に挿入ないし付加することによって「〜する人」と言う名詞を規則的に作ることができる点は、公用マダガスカル語と何ら変わりはない(2)。したがって、ムパンブーリと言う単語が存在し、またこの単語の意味について、人びとの間における理解に曖昧な点はない。そうであるにもかかわらず、具体的な作物を対象に「私は、稲を栽培している」などのフレーズはしばしば聞かれる一方、「私は、稲作民である」、ひいては「私は、農民である」と言う自己規定のフレーズが、彼ら自身の口から語られることは、ほとんどないのである。
このことの理由の第一点は、マダガスカル北西部地方では職業に基づいた身分制度および分業制度が過去に発達しなかったこと、また自分たちの周囲に異なる生活形態をとる人たちが住んでいなかったことなどから、自分たちがことさら「農民」であると言う身分上および職業上の対自的な意識が形成されなかった点であろう。
第二点は、1824年のラダマ一世の軍事遠征以降、19世紀イメリナ王国(Imerina)支配下に置かれた北西部地方の人びとには、ヴァーリ・ゼーヒ(vary zehy)と呼ばれる貢租が稲の収穫に対して課された一方、19世紀末から1960年までのフランス植民地時代およびその政策を基本的に継承した1960年から1972年までのマダガスカルの第一次共和制の間、農村に住む人たちに課せられた税金が、人頭税と牛頭税の金納であった点である[Wilson 1992:21-30]。これらの租税は、生産物や生産過程や生産手段に対する課税ではなく、それゆえ「農民」と言う生業身分ないし職業を規定し名指しするものではなかった。
しかしながらこれらの理由以上に、マダガスカル北西部の人びとの間において、「特定の何物かを生産する人」と言う固定されあるいは特化した意識そのものが形成されていないことの可能性そのものを、検証しなければならない。
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