村崎恭子(横浜国立大学)
アイヌ語には文字がない。しかし文字を介さずに口から口へと伝えられる豊かな口承文芸が存在する。TUYTAH(昔話)は、樺太アイヌ語の口承文芸の一ジャンルである。
樺太アイヌ語はかつて南サハリンでアイヌ民族によって話されていたアイヌ語の一方言で、終戦後樺太から北海道に引揚げてきた樺太アイヌの老人層の間でかろうじて話されていたが、その最後の話者、浅井タケさん(1902−1994)の死によって「話者の絶えた言語」、つまり死語となった。
ここに発表する資料は、『浅井タケ昔話全集U』(村崎恭子編訳、横浜国立大学、1999)のテキストとCDに収録されているTUYTAH 24編(At31-54)である。
本資料の語りべは浅井タケさん(1902−1994)である。浅井タケさんは、樺太西海岸の方言を話す完璧な話者だった。この人の生涯について簡単に説明する。
浅井タケさん(アイヌ名 TAHKONANNA)は、1902年4月5日樺太西海岸のオタスフというアイヌコタンで、山田チクユピ(アイヌ名SAHPO)を父に、テツ子(アイヌ名TEKAKUNKEMAH)を母に生まれた。生後まもなく失明し、ずっと全盲。生後すぐ父は死亡。母もタケさんが18歳の時に病死。両親を亡くしてからは、叔母夫婦に引き取られて、オタスフから4キロ北のライチシカに移り住んだ。オタスフのことばとライチシカのことばはほとんど同じという。つまり、同じ樺太西海岸の方言といってよい。その後、マオカ出身のアイヌ、浅井政治氏(明治23年6月10日生)の後妻となった。終戦後北海道に引き揚げてきてからは最初振内(フレナイ)に住んでいたが、1961年に夫に死別後、亡父の長男にいったん引き取られたが環境になじめず、1974年に北海道沙流郡門別町立特別養護老人ホーム「得陽園」に入園し、1993年東札幌病院に入院するまでの19年間を老人ホームで暮らした。その後、1993年5月子宮がんのために東札幌病院に入院したが、1994年4月30日についに帰らぬ人となった。
「ピウスツキ蝋管プロジェクト」の縁で、私は、1984年2月に浅井タケさんに初めて巡り会った。以後10年間、当時札幌に住んでいた私は、機会ある毎に老人ホームを訪れて、浅井タケさんから樺太アイヌ語をたくさん教わった。これまでの北海道およびサハリンにおける私の調査によると、残念なことだが、浅井タケさんが樺太アイヌ語の最後の話者ということになる。
樺太アイヌの口承文芸は、根源的には北海道アイヌのそれと共通であるが、そのジャンル、語り方、歌い方、形式などの特徴については、北海道の場合とかなり異なっている点が多くある。この相違点については、これまでほとんど明らかにされていなかったが、浅井タケさんの膨大な音声資料と情報によってその姿がかなり明らかになった。
樺太アイヌ口承文芸のジャンルを、まず大きく、物語の類と、歌謡の類とに二分し、物語を、さらに韻文の物語、つまり節を付けて歌う物語と、散文の物語、つまり普通の言葉で語られる物語に分類した場合、TUYTAH (トウイタハ、昔話)は、この後者の代表的なジャンルに入る。しかし、散文の物語には、TUYTAH以外にもう一つ、UCASKUMA (ウチャシクマ、民話)と呼ばれるものがある。一方、歌謡の類には、YAYKATEKARA(ヤイカテカラ、女の恋の歌), IHUNKE(イフンケ、子守歌), HECIRE HAW (ヘチレハウ、踊り歌), SAKE SINOHCA(サケシノッチャ、酒礼の歌), REKUHKARA(レクッカラ、喉鳴らし), TUSU(トウス、シャーマンの祈り)などがある。
以下に、TUYTAHの特徴を、特にUCASKUMAと対比させながら述べる。
語りの形式についての特徴は、
一方、ウチャクシクマでは、挿入歌は一切入らない。
またTUYTAHの物語の内容は以下の通りである。
(a)人間と同じように暮らしている動物が登場する話。カラス、白鳥、イヌ、アザラシ、カエル、シャケ、カニ、フグなど。
(b)動物と人間の結婚、恋など、交わりの話。
(c)人肉を食うOYASI(お化け、goblins or ogres)の話
(d)嫁取り、婿取りをするために冒険をする話。
(e)同じ冒険が3人兄弟(姉妹)の間で繰り返される話。
要するに、樺太アイヌ口承文芸の中におけるTUYTAHの際立った特徴として、@物語の形式が整っていること、A物語の内容も類型化できること、B挿入歌があって描写が生き生きしていること、C人肉を食うOYASIが登場すること、などが挙げられる。