特集2・ユニークな言語ベスト10

「屈折も活用もない言語」 -- タイ語

『言語』(第17巻8号 pp.90--95. 1988.8.1.大修館書店)所収

(c)峰岸真琴 Minegishi, Makoto 1988.

(本文中のタイ語翻字:

EE=前舌広母音、WW=後舌非円唇狭母音、AA=中舌半広母音:schwa、OO=後舌広母音、

声調:1=中平調、2=低平調、3=下降調、4=高平調、5=上昇調)

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一 言語学の南北問題

 語学好きの方から、タイ語とはどのような言語かと、簡単な説明を求められることがある.「基本語順は主語、動詞、目的語のSVO型で、修飾語は被修飾語の後に置かれ、語形変化のない、いわゆる孤立語です.」と答えると、尋ねたほうは、性の区別や、動詞の活用等を省略した、フランス語とか、片言の英語のようなものを想像するらしく、「何だか面白くなさそうな言葉だな」というような曖昧な表情をする.こちらも、つまらないと思われるのはシャクだから、「声調が5声あって、日本語の{〜して行く、来る}にあたる、補助動詞なんかもありますよ」と、一応付け加えてはみるのだが、こういうものは、さほど珍しくもないというわけで、積極的にタイ語を学んでみようかというほどの、魅力を感じてもらえないらしい.

 それというのも、孤立語の特徴を説明するのに、「文法範疇としての、名詞の性、数、格の区別や、動詞の活用、法、時制の対立がない.形態論でいう接辞がない.更には、品詞の区別がない、あるいは文法そのものがない」などと、いわばあるべきものが、どういうわけか存在しないという、消極的な定義しかされてこなかったからである.さすがに、現代では孤立語に文法がないと考えられたりはしなくなったが、このような説明をせざるをえない言語学のほうにも問題がある.言語学が成立し、発展を遂げてきたのが、主にインド・ヨーロッパ諸言語の話されている地域であったために、言語学的な言語観には、文法即ち活用表という、いわば「北の論理」、あるいは偏見が、どこかに根強く残っているのだ.そのような見方をすれば、活用表を作る必要のない、タイ語、カンボジア語、ベトナム語、中国語などの孤立語に、(狭義の)文法が存在しないと見えるのも、無理もないことである.

 そこで、これらの言語を、「ないないづくし」ではなく、孤立語固有の内在的論理に基づいて、記述することができないかどうか、考えてみる必要がある.言語の記述を、ゲームのルールの説明に例えれば、伝統的な言語学は、それぞれの駒の形や動き(形態論や文法範疇)が定まった、チェスのルールを説明するために、便利なように工夫されたものである.一方、孤立語は、いささか誇張して言えば、白黒二種の石を用いる碁のようなものである.それぞれの石の形は、皆一様だが、その置かれる位置によって、さまざまな機能を果たすことができる.そのルールを説明するためには、白黒の石の形作る模様(語の組み合わせと語順)に注目しなければならない.残念ながら、このような言語の記述に必要な科学的術語は、充分に工夫され、定着しているとはいえない.目下のところ、「北側から見れば、こんな事はヘンに見えるでしょうが、南側からこう見れば、ちっとも変ではないでしょう」という形でしか、「南の論理」を主張することができないし、やや乱暴な例え話をして、大雑把なイメージをつかんでいただくしかないのである.

二 動詞と補語

 先に、タイ語の基本語順は、主語、動詞、目的語のSVO型だと述べた.これはごく簡略化した言い方で、やや詳しく言えば、タイ語の動詞は、動作の対象を表す目的語に限らず、動詞に対してさまざまな意味的な関係を持つ文成分を、前置詞や助詞などの文法的指標を介さずに、直接補語としてとることができる.これが孤立語の第一の特徴である.ただし、その補語は hay3 <与える> sOOn5 <教える> khaay5 <売る> などの例外的な動詞を除いて、ひとつだけである.こういうと、一体、文法的指標もないのに直接補語をとって大丈夫だろうか、と心配する方もいるだろうが、確かに大丈夫なのである.この理由を説明するには、まず、タイ語の動詞とその補語の関係について述べなければならない.pay<行く> という動詞を例にとってみよう.

(1) phom5 pay1 chiang1may2

<僕><行く><チェンマイ>

(僕はチェンマイへ行く)

(2) phom5 pay1 rot4fay1

<僕><行く><汽車>

(僕は汽車で行く)

 (1)の補語は、「行く」という動作の方向、あるいは目的地を表している.また、(2)の補語は、動作の手段を表している.つまり、ある動詞について、どのような成分が補語になりうるかは、動詞の持つ意味的な特徴によっているのである.一般に、どの言語にも適用できるような、「補語」の定義は存在しないのだが、孤立語に限っていえば、直接補語とは、動詞の表す動作に関して、意味的にみて不可欠であり、かつ、「選択可能」な文成分である、と定義することができる.例えば、te?2 <蹴る> は、蹴られる対象を補語にとれるが、動作の道具、あるいは手段である「足」は、「選択不可能」、つまり足以外の部位で蹴ることができないので、道具という意味では、補語にはなれないのである.もちろん、他人の足(つまり動作の対象)であれば、蹴ってもいっこうに構わない.

 日本語から見て面白いのは、kin1<食べる> の場合である.

(3) kin1 khaaw3

<食べる><御飯>

(御飯を食べる、食事をする)

(4) kin1 mWW1

<食べる><手>

(手で食べる)

 (3)の補語は動作の対象で、問題ないが、(4)の補語は動作の道具、あるいは手段である.タイ人は、もともと手づかみで食事をしていた.今では、主にフォークとスプーンで食べるが、中国系タイ人であれば、もちろん箸も使う.このように、「選択可能」な範囲であれば、箸でも、手でも、直接補語にすることができる.もっとも、(4)について、「箸や手は食べられない」というタイ人もいるが、そういう人でも、日常「ついうっかり」(4)のように言っているようである.

 動詞が、典型的な文脈において、どのような文成分を、いくつともなうかという、「結合価」の観点から考えると、タイ語の動詞には、上に述べたような、補語を一つとる「不完全動詞」と、主に状態や、状態変化を表わし、補語をとらない動詞「完全動詞」とがある.また、補語のほかにも主語をとるから、大多数の動詞の「結合の手」の数は2または1である.このことと、それぞれの動詞の持つ意味の範囲とは、実は関連がある.

 一例として、日本語の「運ぶ」にあたる、タイ語の動詞をいくつか挙げると、thuun1 <頭に載せて運ぶ>、thWW5 <手に持って運ぶ>、hOOp2 <両手でかかえる>、hiw3 <手にぶらさげる>、bEEk2 <肩にかつぐ>、saphaay1 <肩に掛ける>、?um3 <子供や鉢を腹の前に抱きかかえる>、kradiat2 <籠などを、片方の腰の上に載せて運ぶ>、haap2 <天秤棒の両端に荷を下げて運ぶ>、khOOn1 <棒の一方に荷を結び、もう一方をかつぐ>、haam5 <2人で棒の両端をかつぎ、真ん中に荷物をぶらさげて運ぶ> など、私達から見れば、実に細かい区別のある類義語がある.しかし、その結果として、「動作の様態、手段、道具、主な対象物」などが、動詞そのものによって含意されるので、これらを補語などの文成分として、いちいち動詞に結合させる必要がないのである.結局、動詞と補語が意味的に緊密に結びついているために、文法指標は必要がなく、動詞の結合の手の数が少ないのだと言うことができる.

三 動詞連続

 補語についての説明で、補語は大多数の動詞について、ひとつだけあらわれうる、と述べた.補語を二つとる例外的な動詞は、実はタイ語では上に挙げた三つしか見つかっていない.すべての動詞について調べ終わったわけではないので、断定はできないのであるが、日常用いられる動詞に関するかぎり、上の三つといってよい.  それでは「汽車でチェンマイに行く」は、どう言えばいいのか.ただし、(5)はもちろん非文法的である.

(5)* phom5 pay1 chiang1may2 rot4fay1

* <僕><行く><チェンマイ><汽車>

 タイ語にも手段や様態を表すといわれる前置詞があって、最近の言語学の論文では、このような場合に、例えば dooy を用いて、dooy rotfay <汽車で> 、などとしてあることが多いが、いささか翻訳臭い.最もタイ語らしい表現は、nang3 <座る> という動詞を用いて、(6)のように言うのである.

(6) phom5 nang3 rot4fai1 pay1 chiang1may2

<僕><座る><汽車><行く><チェンマイ>

(汽車に乗ってチェンマイに行く)

 (6)のように、タイ語では一般に、一つの動詞に補語がひとつしか許されないかわりに、一つの文に動詞句が二つ以上、理論的にはいくらでも現われうる.これが、もうひとつの孤立語の特徴である.このような文構造は、「動詞連続」( Serial Verb Construction、あるいは Verb Serialiation )と呼ばれ、その分析は、孤立語の研究者にとって、興味深い研究テーマのひとつとなっている.

 動詞連続において、どのような動詞が、どういう順序で組み合わされるかの基本的原則は、「時間の順に従う」ことである.例えば、「市場に行って、スイカを買う」のように、動詞が引き続いて行われる、一連の動作を表す場合、当然予想されるように、それぞれの動作の行われる時間的順序に従って、動詞が並べられる.

(7) pay1 talaat2 sWW4 tEEng1moo1

<行く><市場><買う><スイカ>

(市場へ行ってスイカを買う(買った))

(7)は、単なる動作の連続を表していることに注意してほしい.この文は、「市場へ行ったら、(たまたま)おいしそうなスイカがあったので、買った」というような場合に使う文である.なお、孤立語であるタイ語は、もちろん動詞に時制の区別がないので、動詞句だけを例に取り出した場合、その時間も定まらない.

 一方、市場に行く前から、スイカを買うことに決めている場合もある.「市場にスイカを買いに行く」場合などがそうである.動作の目的をいう場合、(7)は、単純な動作の連続を表すから使えない.その代わり、(8)のようにいうのである.

(8) pay1 sWW4 tEEng1moo1 thii3 talaat2

<行く><買う><スイカ><〜で><市場>

(市場にスイカを買いに行く(行った))

 (8)には、場所を表す前置詞 thii3 が使われている.例えば、「何をしに行くのか」ときかれたりした時や、ひとに「スイカを買ってきてくれ」と頼むときには、(7)でなく、(8)のように言わなければならない.

 このように、動詞句を並べるか、前置詞句を用いるかによって、文の意味が変わってしまうことがある.孤立語を学ぶことの、面白さでもあり、難しさでもある.

四 タコとムカデ

 タイ語の動詞は「結合の手」の数が、一または二と少ない.一方、日本語などの膠着語や、インド・ヨーロッパ諸言語などの屈折語では、それぞれの文成分のもつ、意味上の機能が、助詞や格語尾として明示されるため、ひとつの動詞にたくさんの「結合の手」がある.

 大雑把に言えば、タイ語は、ひとつの体節(動詞)にふたつまでの脚(結合の手)をもち、それらの体節がたくさんつながった、「ムカデ」型の言語であり、膠着語や屈折語は、ひとつの胴体にたくさんの脚をもつ「タコ」型の言語であると言うことができる.

 こう考えてみれば、タコがムカデを見て驚くのは当たり前である.また、ムカデのほうから見ても御同様である.おおかたのタイ人は、日本語を学ぶと「なんでまた、こんなにややこしい助詞の区別が必要なのか」と感じ、一部の大胆な学生は、わずらわしい助詞や助動詞を、全部落としてしゃべったりして、日本語教師をがっかりさせるのである.

 最後に、文法理論においてムカデの占める位置について考えてみたい.先に「言語学の南北問題」などと大げさな言い方で、南の言語には、その内在的論理にかなった統語法の分析が必要であると述べた.一例を挙げれば、ムカデ型言語の深層に、タコ型の構造を仮定し、タコの脚をやたらに「削除」しても、それはムカデの体節のモデルとして適切とはいえないだろう.(もっとも、最近は語彙項目をバッサリ削除するような、危険な変形は認められないが.)

 誤解のないように言っておくが、私は深層、表層の区別や、単なる語の前後関係を越えた、立体的な統語構造の存在そのものを疑っているのではない.言語の普遍性の研究を進めるためには、例えば、ひとつの文中に、定動詞はただひとつである、というような、文法理論の背後に隠された偏見を、ひとつひとつ取り除かねばならないと言っているのである.この意味で、ムカデはタコにとって、自らを映す良い「鏡」になりうるであろう.

 ムカデ型の文法モデルの研究は、今のところ、私の思いつきにすぎず、その明示的な定式化はこれからの課題である.確かに、記述方法としては、タコの脚を切っていくほうが、ムカデの体節をつないでいく手術よりも、技術的には簡単なのである.しかし、形態論の貧弱な孤立語に対して、従来の形態・統語論的な文法理論を、機械的に適用するよりも、むしろ、機能主義的立場から、意味論や語用論との有機的関係を明示できるような、文法モデルの定式化を試みるほうが、危なっかしい分だけ面白い.  将来、孤立語の研究が、このような方向で充実してゆけば、私達の言語観も、今とは大分変わったものになる、といえば言い過ぎだろうか.

(みねぎしまこと・言語学)