『しにか』(1997年6月号 pp.64--67. 1997.2.1.大修館書店)所収
(c) 峰岸真琴 Minegishi, Makoto 1997.
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水族は貴州省東南部にある三都水族自治県を中心とした地域に居住している.ここは雲貴高原の東南にあたり、水族は山間のわずかな平地から山頂までを耕し、水稲を主とした農業を営んでいる.
水族はタイ系の少数民族で、現在の人口は約35万人である.タイ系民族は元来が雲南省あたりをその故地としていたと考えられている.13世紀半ばのモンゴルの大理国征服を契機として、その多くはメコン川、メナム川に沿って東南アジアへと南下したらしい.13世紀末には現在のタイの地にスコータイ王朝が成立した.タイ系民族が国家を形成しているのは現在タイとラオスの二国であり、その他のタイ系民族は東南アジア大陸部の諸国と中国における少数民族となっている.
13世紀以来のタイ系の民族移動は短期間のうちに広範囲にわたって起こったものらしく、タイ系の一つのアホム族はブラフマプトラ川に沿って西に向かい、現在のインド東北部アッサム地方に至ってアホム王国を建国したこともあった.水族も古来から現在の地域にいたのではなく、もっと南方から移動してきた可能性がある.ただし水語は言語学的にはトン語とともに北方タイ語に属し、東南アジアのタイ系民族の言語は、雲南のダイ族を含めてそのほとんどが南西タイ語に属するので、両者は早い時期から分離していたのであろう.
水族、トン族は地理的に最も北に位置するだけでなく、文化的にも他のタイ系民族とは異なっている.同じ中国国内のタイ系民族であっても、雲南のダイ族までは上座仏教を受け入れ、東南アジアの文化、つまり広義のインド文明の影響を受けているのだが、水族は自然信仰である.また言語や衣装、風俗に独自の文化を保持しているとはいえ、借用語には東南アジアからのものがなく、漢語からの借用語を取り入れている点で、漢族の影響を受けているといえる.
現在の水族は、日常生活において主に水語を話し、漢族との間では漢語を話す二言語併用者である.老人は水語しか話せないものも多い.解放後に多くの少数民族が、民族固有の言語の表記のため、あるいは漢字を理解するための音標文字として、伝統文字を簡略化したり、ローマ字を用いることで民族文字を制定しているが、水族についてはそのようなことはなかった.現在の学校教育は漢語の教科書を用いて行なわれており、民族語による教育や教科書が作られてはいないのである.
一方同じタイ系の民族であるトン族についてはローマ字によるトン語表記が行なわれ、それを用いた教科書も印刷されている.このように、水族とトン族の置かれている文化的環境はかなり異なっているといえるが、これは1964年時点での水族の総人口が12万7千人という少数にすぎないことに対し、トン族が1958年には83万人と多かったことによるのかもしれない.
また、いつごろからかは判らないが、水族が独特の文字を使っていたことも、民族文字をわざわざ制定しなかった原因として考えられないわけではないが、その事情は明らかではない.
「水書」と呼ばれる水語の文字の存在は知られていたにせよ、それがどのようなものであるかは近年まで明らかでなかった.
李方桂『水話研究』(1977年、台北)は、水語を初めて言語学的に紹介したものであるが、水文字についての記述が序に見える.氏が貴州茘波(レイハ)県で水語調査を行なった時点では、文字の存在について、占卜に使うためのもので、巫師だけが読める水書という文字があると聞いただけで、その後南京において実物を見る機会を得た.序には水書の見本が掲げてあるが、音注も訳文もないので読み方は判らない、とあるが、明らかに漢字と関係のある字形も指摘されている.
水書についての解説には西田龍雄著『アジアの未解読文字』(大修館、1982年)に「水文字暦の解読」の章がある.これによると、『水話研究』に先だって、1963年には河野六郎教授による水書の紹介があったとのことである.
『水語簡志』(1980年、北京)には、水語の調査による記述のほかに、その文字について記述があり、文字の表も掲げられている. 同書によれば、水文字には百数十字がある.
普通水書(白書)と秘伝水書(黒書)の二類があり、大きな差異はないが、黒書には白書にない文字が含まれている.
水文字にはその成り立ちから3種がある. ひとつは漢字の上下を逆にしたり、一部を変形したりしたものである.五行、十干、十二支、数を示す文字など、漢文明に影響された占いに関するものであるから、漢字をもとに作られたのも当然といえよう.
次は象形字であり、魚や鳥などを図形として簡略化したものである.
もう一つは漢字の「仮借」に類似するもので、ある字の音を借りて他の意味を表わすが、この類はごく少数に留まるようである. 以上の『水語簡志』の記述から見て、水文字の全てが表音(あるいは表語)文字であり、上述のように百数十字しかないこと、また占いという特別な目的のために、水書先生という専門家が用いることからも、この文字の使用、理解と行った流通範囲はごく狭いものであったと考えられる.
現在水書をきちんと読める人はごく少数である.『水書』(王品魁訳注、1994年、貴陽)を見ても、字(語)と音がきちんと一対一に対応するものではなく、意訳により補われた部分が多いように思われる.
(水文字の実際の形については、上述書を参考のこと.)