Column036 :: Ishikawa Hiroki's HP

終戦の日に歴史について考える~もうひとりの祖父と本土決戦~


 70年目の終戦の日、私は映画館にいた。 
 ある映画を観ながら、私は70年前の日本と、その時代を生きていた母方の祖父について考えていた。

 「武蔵野に祖父の面影を探す」というコラムに書いたとおり、私の父方の祖父は1944年12月3日に空襲で命を落とした。父方の祖父と同じく佐渡島の出身であった母方の祖父は、戦争を生き延び、2001年に85歳で他界した。

 幼いころ、毎年私は佐渡島を訪れていた。母に連れられて姉ととともに祖父母が住む母の実家に行き、そこで夏休みを過ごすためであった。佐渡島には海も山も川あり、そこで遊ぶことはもちろん楽しかったが、祖父母と過ごせることもうれしかった。初孫であった姉と、初めての男の孫であった私は祖父母に大変かわいがってもらった。夏の終わりに私たちが千葉に戻る際、家の前に立っていつまでも見送りを続けてくれた祖父母の姿を、私は今でもはっきり覚えている。

 祖父は左足の腿から下を失った傷痍軍人であった。小学校高学年になった頃には、すでに歴史に関心を抱いていた私は、祖父の蔵書の海軍関係の書籍を見せてもらうようになった。それらの書籍を見ながら祖父の話を聞き、私は祖父が戦前の日本海軍を代表とする戦艦であった長門に乗り組んだこともある海軍の軍人であったことを知った。日本海軍の戦艦と言えば、現在では大和が有名である。しかし大和とその姉妹艦武蔵の存在は国家機密として国民には知らされておらず、長門と姉妹艦の陸奥こそが国民にとって海軍の象徴であった。世界的にも有名であった長門に乗っていた祖父に対して、私は尊敬の念を抱くようになった。そして私は、祖父の負傷が、米軍の艦載機が投弾した爆弾の破片によるものであることも知った。

 受験やその他の事情から、中学入学以降私が佐渡を訪れる回数は減った。しかし祖父母の優しさは変わらず、私は祖父母に対する敬愛の念を抱き続けた。そして私にとって祖父母が住む佐渡島は帰るべき故郷であり続けた。それゆえ、祖父が亡くなったとき、私が抱いた喪失感は大きなものであった。
 祖父が亡くなった後、長女である母が佐渡島から祖母を呼び寄せ、世話をすることになった。老齢になって、長年住み慣れた故郷を離れる祖母のことを私は心配していた。しかし祖母にとって千葉での新しい生活はさほど苦にはならなかったようで、むしろ楽しんでいるように見えた。短い期間であったが、私にとっても祖母と暮らした日々は幸せなものであった。

 祖母が2005年に他界した後、私は祖母が祖父の遺品を佐渡から持ってきていたことを知った。孫としても、あるいは歴史学研究者としても祖父の遺品は私にとって興味深いものであった。祖父の遺品には、アルバム、太平洋戦争中の手紙、負傷した際に体から取り出された爆弾の破片が含まれていた。
 本物の爆弾の破片のずっしりとした不気味な重さに驚きつつ、私はアルバムのページをめくり、色褪せた手紙を開いて内容を確認していった。また母から祖父の思い出話を聞いた。その結果分かった祖父の足跡は次のようなものであった。

 大正5年(1916年)生まれの祖父は、20歳で徴兵検査を受けて甲種合格となり、昭和12年(1937年)に横須賀海兵団に入団した。新兵としての教育課程を終えた後、祖父は長門に半年間乗り組んだ。さらに八雲という日露戦争にも参加した巡洋艦に乗艦して2度の練習航海に参加し、東南アジアやヨーロッパを巡航した。昭和十五年(1940年)に祖父は海軍砲術学校の普通科砲術練習生課程を卒業し、太平洋戦争の開戦後、緒戦のフィリピン攻略戦に加わっている。
 その後約2年間の祖父の動向は明らかではない。再び祖父の足跡を確認できるようになるのは昭和19年(1944年)に入ってからである。この年の8月に祖父は新兵を率いて舞鶴から宮崎に向かっている。目的地は、現在の宮崎空港の前身である海軍赤江飛行場であり、祖父はその周辺で飛行場を護るための対空機銃砲台を構築する作業を指揮した。その一つである池田機銃砲台の指揮官となった祖父は、昭和20年(1945年)4月29日に米軍の艦載機の爆撃によって重傷を負った。その後祖父は佐渡島に戻り、そこで終戦を迎えた。

 祖父の遺品のなかには、負傷後に部下たちから送られてきた見舞いの手紙が数多く含まれていた。そこには祖父が厳しいなかにも細かな心遣いをする隊長であったことが書かれ、回復を願う言葉が綴られている。伝え聞いていたとおり、祖父が部下を防空壕に退避させている最中に負傷したことも、ある手紙に書かれていた。

 戦後、祖父は私の母をはじめとする4人の子どもを育て上げた。終戦から約20年が経過した1977年に、祖父は祖母とともに宮崎を訪れている。旅の目的は、自分が負傷した池田機銃砲台を訪問することであった。その時に撮影された、今は色褪せた写真には、池田機銃砲台のあった小山や、軍用機を空襲から守るための掩体壕が写っていた。それらの情報から、私は池田機銃砲台が現在の宮崎空港に近い場所であったことを知った。

 緒戦の快進撃の後、日本軍は1942年半ば以降守勢に回った。1943年9月には本土防衛と戦争遂行に必要不可欠な地域として「絶対国防圏」が定められた。しかし1944年6月から7月にかけてのマリアナ沖海戦の惨敗とサイパン島の陥落によって「絶対国防圏」構想は破綻した。日本軍は作戦計画を大幅に見直すとともに、本土防衛を真剣に構想するようになった。そして1944年7月に、フィリピン、千島列島、台湾、本土の4方面で、連合国軍の侵攻に備える準備が開始された。その後米軍は1944年10月にフィリピン、さらに1945年3月には沖縄に上陸した。米軍の本土上陸は時間の問題と考えられ、日本軍は「決号作戦」と呼ばれる作戦計画を策定し、本土決戦のための準備を加速した。しかし実際に本土決戦は行われなかった。広島と長崎への原爆の投下、そしてソ連の参戦の後、日本は1945年8月15日にポツダム宣言を受諾して降伏した。降伏の調印式は9月2日に行われた。

 祖父が宮崎に向かったのは、本土決戦の準備が開始された直後であった。祖父が派遣された赤江飛行場は1941年に建設が開始され、1943年12月に完成した。当初は練習基地として使用されたが、1944年8月実戦部隊が展開する。1945年に入ると、赤江飛行場は沖縄方面へ向かう特攻機の中継基地として使用されるようになり、この飛行場からも特別攻撃機が出撃した。赤江飛行場からの出撃戦死者数は計385人であるという。米軍は沖縄に襲来する特攻機の出発地である九州南部の飛行場を空母の艦載機によって攻撃し、祖父はそのなかで重傷を負った。

 もし祖父が4月29日に負傷せず、そしてもし米軍を主力とする連合軍の日本本土侵攻作戦が実施されていたならば、間違いなく祖父は宮崎で戦死していたであろう。そのことを知ってから、私は、防衛庁防衛研修所戦史室の『本土決戦準備』、米軍の日本本土侵攻計画を解説した『日本殲滅:日本本土侵攻作戦の全貌』をはじめとする本土決戦に関する書籍や、『宮崎の戦争遺跡』『九州の戦争遺跡』などの南九州の軍事遺跡に関する書籍を読み漁るようになった。

 連合軍の日本本土侵攻作戦はダウンフォール作戦と呼ばれ、2つの作戦で構成されていた。まず1945年11月1日に開始が予定されていたオリンピック作戦は九州南部を制圧することを目的としており、1946年3月1日に開始予定のコロネット作戦は首都東京を含む関東地方の占領を目的としていた。いずれの作戦も沖縄侵攻作戦をはるかにしのぐ兵力が動員され、特にコロネット作戦は「史上最大の作戦」と呼ばれるノルマンディー上陸作戦を上回る兵力を動員する史上空前の上陸作戦となるはずであった。
 日本軍は連合国軍のこのような日本本土侵攻作戦の開始時期や上陸地点を正確に予測し、上陸予想地点を中心に防衛網の構築を進めた。迎撃に投入される兵力は、国内に残る陸海軍の兵力500万人、そして男子15歳から60歳まで、女子17歳から40歳までを徴兵して集めた民兵組織である国民義勇戦闘隊2800万人であった。
 タラワ島、ペリリュー島、硫黄島、そして沖縄と、戦場が本土に近づくにつれて日本軍は戦訓を学び、より頑強に米軍に抵抗するようになっていった。それは米軍に日本本土進攻を躊躇させるほどの損害をもたらし、原爆投下の一因ともなった。
 『本土決戦準備』に解説される九州や関東における本土決戦準備の様子を見ると、資材や人員が不足するなか、それでも沖縄戦などの戦訓を取り入れ、凄絶な抵抗をするための準備が進められていたことが分かる。
 沖縄戦の日本側犠牲者は軍民合わせて約20万人であり、米軍の犠牲者は1万2千人であった。連合国軍は沖縄戦の結果などをふまえ、ダウンフォール作戦全体の損害予測として、少なくとも約5万人、最大で約27万人の死傷者数を見積っていた。沖縄戦に比べてはるかに規模が大きな本土決戦において、日本側に夥しい数の死傷者数が生じたことは言うまでもない。
 もし本土決戦が実施されていれば、戦後の日本の状況も大きく変わっていた。1945年8月9日に中立条約を一方的に破棄して満州と千島列島に侵攻したソ連は、これらの地域を制圧した後、朝鮮半島と北海道、さらに東北地方に攻め入ったであろう。そして朝鮮半島で起こったように、日本列島は米ソによって分割統治されて南北の分断国家が生まれ、さらに史実の朝鮮戦争のような民族を二分した戦争が起こっていたかもしれない。もしそうなっていたとしたら、その世界の2015年を日本人はどのように迎えただろうか……

 私が観ていた映画は、半藤一利氏の小説を原作とする『日本のいちばん長い日』であった。この小説は1945年4月に鈴木貫太郎が首相に任命されてから終戦に至るまでの道のりを、御前会議で降伏が決定された1945年8月14日の正午から、玉音放送でポツダム宣言の受諾が国民に伝えられた8月15日正午までの24時間を中心に描いている。8月に入って戦況が絶望的になってなお軍部はポツダム宣言の受諾に抵抗し、降伏が決定した後も、陸軍の一部は宮城事件と呼ばれるクーデター事件を起こしてまで、本土決戦を実施しようとした。
 『日本のいちばん長い日』は1967年に映画化されている。いつか観ようと思っているうちに、再映画化されることを知った私は上映を心待ちにしていた。そして70年目の終戦の日にその映画を観に行った。
 本土決戦を主張する陸軍を代表としつつ、終戦を望む昭和天皇への忠誠との狭間で苦悩し、降伏決定後自決する阿南惟幾陸軍大臣役の役所広司の重厚な演技、一命をなげうってでも終戦を実現しようとする鈴木首相役の山崎努の円熟の演技、自らの名によって始められた戦争によって日本が滅亡の危機に瀕していることに苦悩し、国民を救うことを願う昭和天皇役の本木雅弘の真摯な演技、あくまで本土決戦の遂行を主張し、宮城事件を起こした畑中健二少佐役の松坂桃李の鬼気迫る演技はいずれも素晴らしかった。

 日本人の多くは、1945年8月15日に終戦を迎えたことを当然のことと思い、なぜもっと早く戦争を終結できなかったのかとばかり考えているのではなかろうか。しかしこの映画や本土決戦に関する文献が物語るように、そして日本各地に埋もれる本土決戦のための軍事遺跡が沈黙のうちに伝えるように、8月15日が終戦の日とならず、本土決戦が決行された可能性は極めて高かった。この国はあと一歩のところでふみとどまり、かろうじてそれを回避したに過ぎない。その史実が持つ重みを日本人は理解する必要があるのではなかろうか。

 祖父の遺品のなかには、軍装姿の肖像画がある。その肖像画を見るたびに、そこに描かれた若かりし頃の祖父の凛々しさに驚きつつ、戦争を生き延び、年老いた祖父に話を聞くことができた夏の日々がかけがえのないものであったことを感じる。そして今でも祖父を敬愛する孫として、祖父が体験したことの重みを少しでも理解し、心に刻んで生きていこうと思う。それとともに、これからも一人の日本人として、終戦に至るまでのこの国の歴史と、そこから始まった戦後の歴史について学び、考え続けたいと思う。

2015年9月2日


引用文献
江浜明徳『九州の戦争遺跡』海鳥社、2012年.
トーマス・B・アレン、ノーマン・ポーマー著、栗山洋児訳『日本殲滅:日本本土侵攻作戦の全貌』光人社、1995年.
半藤一利『日本のいちばん長い日(決定版)』文藝春秋、1995年.
福田鉄文『宮崎の戦争遺跡:旧陸・海軍の飛行場跡を歩く』鉱脈社、2010年.
防衛庁防衛研修所戦史室『本土決戦準備 〈1〉関東の防衛』朝雲出版社、1971年.
防衛庁防衛研修所戦史室『本土決戦準備 〈2〉九州の防衛』朝雲出版社、1972年.





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軍装姿の母方の祖父の肖像画。この肖像画を見るたびに、若かりし頃の祖父の凛々しさに驚きつつ、戦争を生き延び、年老いた祖父に話を聞くことができた夏の日々がかけがえのないものであったことを感じる。

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