Column014 :: Ishikawa Hiroki's HP

武蔵野に祖父の面影を探す(武蔵野、東京)


 今日は父方の祖父の命日であった。私は勤務先で開催する研究会に向かう前に、祖父が亡くなった場所に赴いた。

 武蔵野市の一画にあるその場所には今では築30年ほどのマンションが建っている。慰霊碑があるわけでもないその場所に献花するわけにも何か供えるわけにもいかず、私はただ手をあわせてきた。祖父の命日にその場所を訪れるのは初めてのことであった。

 新潟県佐渡島出身の祖父が上京後三鷹駅の近くに住み、父の1歳の誕生日の翌日に空襲で亡くなったこと、祖母が戦後佐渡島に戻って父がそこで育ったことは幼い頃から両親に聞かされていた。高校卒業後に上京した父は母と結婚して千葉県に家を建て、私はそこで育った。私にとって祖父は遠い存在であり、祖父が暮らしていたという三鷹もまた私にとって遠い存在であった。

 現在の勤務先は東京都の府中市にある。内定を得た後、私は部屋探しをして、府中市に程近い三鷹市の一画で暮らすことになった。祖父が住んでいた三鷹の地で暮らし、祖父も仰いだであろうその空を眺めているうちに、私は自分が祖父についてほとんど何も知らないことに違和感を覚えるようになり、その思いは日増しに強くなっていった。歴史学研究者である自分が、自分にまつわる重要な過去について知らないまま、それが埋もれているはずの土地に暮らすことはなんとも居心地が悪かった。

 そこで私は仕事の合間を縫って実家に赴き、祖父に関する資料を集め始めた。幸い祖母の遺品のなかに、祖父や祖父が務めていた吉祥寺精工という会社に関する書類、祖父が亡くなった当時の新聞記事が含まれていた。また祖父のもとで働いていた後輩の方が、戦後祖父を偲んで作成してくださった資料を父が持っていたことも初めて知った。

 吉祥寺精工は現在の武蔵野市にあった。武蔵野市といえば、住みたい街のランキングで常に上位に位置する吉祥寺があることで知られている。しかし武蔵野市やその隣の三鷹市など、武蔵野と呼ばれるこの一帯は第二次世界大戦中一大軍需地帯であった。その中心は中島飛行機という日本有数の航空機生産メーカーであった。 

 中島飛行機は1937年に航空機用発動機、すなわちエンジンを生産するための大規模な工場を武蔵野に開設した。航空機需要の増大に伴い、この中島飛行機武蔵製作所の近隣には航空機関連の会社が集まるようになり、武蔵野は一大軍需地帯へと変貌した。祖父が務めていた吉祥寺精工もそのような会社の1つであった。三鷹駅の北口が開設されたのは、これらの会社に通勤する人びとのためであったという。

 中島飛行機武蔵製作所における航空機用発動機の生産は日本の総生産量の約3割を占めており、ここで生産された栄、誉といったエンジンは日本陸海軍の多くの航空機に搭載された。それゆえ第二次世界大戦末期の1944年に、B29による日本本土空襲が可能になったアメリカ軍にとって、中島飛行機武蔵製作所は最重要攻撃目標となった。

 アメリカ軍による日本本土空襲といえば、焼夷弾を用いた夜間無差別爆撃というイメージが強い。しかしアメリカ軍も民間人を大量に殺戮する無差別爆撃を最初から企図したわけではなく、当初は軍事目標に対する精密爆撃を試みた。中島飛行機武蔵製作所はその最初の目標となり、1944年11月から数次にわたってB29の大編隊による爆撃が実施された。しかしこれらの爆撃によって思うような戦果をあげることができなかったアメリカ軍は、方針を転換して夜間無差別爆撃を開始する。その後1945年3月10日の東京大空襲をはじめとする爆撃によって日本全土は焦土と化した。

 祖父が亡くなったのは、1944年12月3日に実施された中島飛行機武蔵製作所に対する2回目の爆撃の時であった。当時の新聞は祖父を「自ら犠牲に数百名の工員救う」と称え、工場長であった祖父が工員たちを待避壕に避難させたあと、「大切な工作用機械を守らなくては」と1人工場に戻って爆撃の犠牲になったと伝えている。当時の新聞が戦意高揚のためには事実の隠蔽や歪曲を厭わなかったことを考えれば、祖父に関する記事の内容をどこまで信じてよいのか分からない。しかし身内に伝わる関係者の方々の話からすると、この時祖父の判断によって多くの人びとが命を落とさずにすんだことは確かなようである。

 実家から持ち出した祖父に関する資料に目を通すとともに、私は都立図書館などを訪ねて各種の地図を調べ、吉祥寺精工の跡地や祖父が住んでいた場所を探し出した。今は住宅街となっているそれらの場所や、武蔵野中央公園として整備されている中島飛行機武蔵製作所跡地に足を運ぶことによって、私は頭では分かっていても心の中では漠然としていた祖父の存在をようやく実感することができた。

 祖父に関する資料を作成してくださった後輩の方は、戦後も祖父のことを忘れず、また祖父の一人息子である父のことをずっと気にかけてくださっていたという。今回私が祖父について調べ始めたのを機に、父と一緒にその方にお話しをうかがいに行こうということになった。しかし父が連絡をとると、すでに高齢であったその方が病床にあることが分かり、急遽父のみがその方が入院なさっていた名古屋の病院に向かった。その方は父との65年ぶりの再会を大変喜んでくださったそうである。その方が亡くなったのはそれから間もなくのことであった。

 祖父に関する各種の資料や、武蔵野に刻まれた戦争の記憶を後世に伝えるために出版された数々の書籍がなければ、祖父についてこれほど多くの事実を知ることはできなかったであろう。記録を残し、伝えていくことの重要さをあらためて痛感する。

 しかし、できることならば、古びた書類や物言わぬ武蔵野の戦跡に祖父の面影を探すのではなく、戦争を生き延びた祖父に直接話を聞きたかったと思う。 

2011年12月3日



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1939年に発行された「東京都武蔵野町三鷹村」の地図の一部。上方の薄緑色に塗られた広大な敷地が中島飛行機武蔵製作所(現武蔵野中央公園)。この図の中央に祖父が勤務していた吉祥寺精工の名が見える。

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