チベット暦4月の行事

文:星実千代

 

 1959年にチベット動乱が起り、多数のチベット人が国外に逃れた。その後、国外に出た人々はもちろん、国に留まった人々も生活が激変し、しばらくは伝統的な年中行事など顧みる余裕もなかったに違いない。近年、伝統的な文化や行事を復活・維持しようという動きが見られるが、体制の変化、環境の違い等から伝統的なものとは著しく変わってしまった部分もあるようだ。ここでは1959年以前にラサおよびその周辺で行われていた民間の年中行事を紹介しよう。

 西暦6月1日から30日は、太陽太陰暦に基くチベット暦では、今年は4月10日から5月10日にあたるので(1982年当時)、チベット暦4月の行事から述べていくことにしたい。

シベー・チューガbzhi pa'i bco lnga)4月15日

 この日はチベット人の伝承によると、釈尊に大変ゆかりの深い日である。成道の日でもあり、涅槃の日でもある上に、この世に誕生するためにマヤ夫人の母胎に入った日とも言われる。記念日が三つ重なっていることからトゥチェン・スムゾムdus ohen gsum'dzom)「三重記念日」ともいわれる。

 このような尊い日があるため、4月は聖なる月とみなされ、4月中の善行・悪行の結果は他の月よりも著しく現われると考えられている。そのために僧侶も俗人も4月中は、他の月より一層精進潔斎に励む。とくに1日から15日までは、殺生を極力慎むために、肉や玉子を口にせず、専ら乳製品や麦粉を主にした食事をとり、身心を清め、善行に努め、悪行を捨てさるべく努力する。普段は何かにつけて大目に見てもらえる子供たちも、この時期には虫や小鳥を殺傷しないように厳しく戒められる。以前は狩猟、漁労等一切の殺生を4月1日から15日まで禁ずる触れが政府から出され、生肉の販売も禁じられた。

 いよいよ15日になると、人々は早朝から家の内外を念入りに清掃し、身を洗い清めて、仏壇に灯明をあげ、香を焚き、水や白い礼布のカターをお供えする。そして晴着に着替えると、一家揃って寺社参詣に出かけ、寺社を取りまくように作られた環状道路リンコーgling skor)を右まわりにまわる。多くの人は右手でマニ車を回し、左手に数珠を持ち、オム・マ・ニ・ペメ・フムという真言を唱えつつ、罪障の消滅を願い、静かに歩く。信心深い者の中には、全身を地面に投げ出して伏し拝む、いわゆる五体投地の礼をしながら進む者もある。環状道路はこのような参詣者で道中一杯にごったがえし、霊験あらたかな寺社には長蛇の列ができる。参詣者は灯明用の溶かしバターをシュキョーbzhu skyogs)、あるいはチュウ・クンmchod kong)と呼ばれる容器に入れて持参し、礼布カターとともに神仏に供える。遠方からの参詣者や、一日中何度も環状道路をまわって功徳を受けようとする人々は、小麦粉のだんごに、干しチーズ、バター、黒砂糖をまぶした菓子パーツァ・マークbag tsha mar khu)や大麦の炒粉、バター、黒砂糖で作ったマーセンmar zan)、お茶などを昼食用に持参する。

  参詣の道筋の両側には露店が立並ぶ。またあちこちでラマ・マニbla ma ma ni)という、この時期にだけやってくる大道芸人が黒山の人だかりの中で、仏教説話を描いた掛絵をかかげて、それを指し示しながら美声を張り上げ説教節を聞かせる。乞食や犬も、普段より気前のよい参詣者たちを目あてに、いつもより多数集る。ごちそうがたっぷり喜捨されるので、日頃飢えている彼らも、この日ばかりは贅沢になり、炒り麦粉をお茶で練ったパーspags)などには目もくれないという。

 ところによっては、この日、霊山のまわりをまわる。例えばラサ郊外のキナー村では霊山チャクサム・チュオリlcags zam chu bo ri)の麓の道を通って、山を右まわりにまわる。まわる回数が多ければ多いほど、ご利益が大きいといわれ、壮健な者の中には、未明より日没までかかって三度もまわる者がある。

  この山には十六羅漢が住むといわれ、多数の神仏の像や寺院、仏塔、修行者が瞑想する岩窟があり、仏教の聖地でもあるが、その地方に住む人々にとっては、土地神シダーgzhi bdag)あるいは産土神ユーラyul hla)の住む場所として、また死者を鳥葬にふす場所として最も関りが深い。シダーあるいはユーラの多くは、烈しい祟りをする死霊'dre)が時を経て祀られるようになり、住民の守護神になったものであるという。支配地域に住民が困難に遭えば、すぐに駆けつけて、助けてくれる心強い神であるが、おろそかにしたり、粗末な扱いをすると、手ひどくしっぺ返しをする恐ろしい神でもある。4月15日の霊山巡りは、寺社参拝のためばかりではなく、このような土地神を祀る神事とも関りがあるかも知れない。

 4月は厳しい寒さが緩み、風もおだやかになり、草木の新芽が出始める季節である。草を喰む家畜の乳の出もよくなり、乳製品もたくさんできるようになる。渡鳥のクユーkhu byug カッコーのこと)やピンキュマ(ping kyur ma トンビのこと)が南方から訪れる。クユーが飛来すると、人々は「水がよくなる」といって喜ぶ。農家では大麦、小麦をはじめ、そば、豆類や大根、かぶ、菜種、ねぎ、白菜などの作付が大方終り、除草にとりかかる家もある。

 
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