その1
概況、人口、世帯数

 

1. はじめに
   このホームページではネパール(一部北東インド・ビハール州北部を含む)の3つの民族・地域における筆者の村落調査の結果を、順次報告する。
 3つの民族・地域とは、ネワール(Newar, Nevar)、パルバテ・ヒンドゥー(Parbate Hindu, Parvate Hindu)およびミティラー(Mithila)である(1.2.参照)。

 

1.1. 調査年
   筆者はこれまで、上記3地域において複数回の調査を行っているが、ここでの報告は、以前の調査結果に新しいデータを加えつつまとめたものである。
 ネワールの村落(S村)調査は1970〜72年に、文部省アジア諸国派遣留学生制度により行ったものが最初で、1977〜79年のAA研未開発言語文化習得のための海外派遣(「助手投入」)によるネパール滞在においてもその一部をS村の追跡調査に用いており、1984年、1996年、1997年等にも短期間の調査を行っている。

 パルバテ・ヒンドゥーについては、上記「助手投入」の期間に、その一部を使って調査を行ったほか、1996年にも短期間の調査を行っている。
 ミティラーにおける調査は1987年〜1988年、1989年(2回)、1996年に行ったが、いずれも、調査期間は3ヶ月以下であった。
 なお、1970〜72年、1977〜78年以外の調査はすべて文部省科学研究費(国際学術研究)によるものである。

 

1.2. ネワール、パルバテ・ヒンドゥー、ミティラー
   この3つの名称のうち、「ネワール」は民族名称といえる。「パルバテ・ヒンドゥー」は「山地ヒンドゥー(教徒)」の意味であるが、ネパールにおいてそれほど一般的な名称ではなく一部の研究者によって使われるのみである。彼らの間ではむしろ下位区分であるカースト名の方がはるかに頻繁に用いられる。「ミティラー」は地域名である。人を指すことばあるいは形容詞である「マイティル(Maithil)」という用語もあるが、それはミティラー在住のすべてのカーストに対して一様に使われるわけではないので、ここでは用いていない。以下、この3者について簡単な説明を加えておきたい。

 

1.2.1. ネワール
   ネワールはネパールの首都カトマンズを擁するネパール盆地(カトマンズ盆地、標高1300メートル前後)を故地とする民族で、母語はネワール語(チベット・ビルマ語系)である。人口は約100万人。ほぼ半数がネパール盆地に住み、他のほぼ半数はネパールおよび国外の商業中心地などに住む。主生業は、商業、工芸、農業で、それらを基礎に、1500年以上にわたって取り入れたインド文明を、独自な形で自らのものとし、この盆地に小文明を築いてきた。盆地では少なくとも5世紀には国家統合がなされ、都市が存在し、仏教、ヒンドゥー教が併存していた。仏教徒がいくつかのカーストに分かれているのは大きな特徴である。
 18世紀のパルバテ・ヒンドゥーの征服以前は「ネパール」とはネワールを主人公としたカトマンズ盆地の世界を指したのである。ネワール社会には数十のカーストが存在し、仏教徒もいくつかのカーストとして組み込まれていること、ブラーマンの数が仏教司祭(グバージュ、バジュラーチャーリヤ)よりはるかに少ないことが大きな特徴となっている。
 調査村のS村はカトマンズの西約7キロ、カトマンズからインドに抜ける幹線道路の近くに位置している。

写真1
写真1.S村 

 

 

 西側から望んだS村(1971年) 集落はレンガ建ての建物が連なる集村で、周りに水田が広がる。

写真をクリックすると
大きく表示されます

写真2

 

 

 西南の丘の中腹から望んだS村(1996年) 下中の位置に集村形態のS村が位置する。左下の白い屋根の大きな建物は1984年にできた波板(屋根用)工場。

 

 

写真をクリックすると
大きく表示されます
写真3
 

 

1.2.2. パルバテ・ヒンドゥー
   パルバテ・ヒンドゥーの人口は約1000万人。これはネパールの全人口の過半数であるのみならず、彼らはここ230年間、政治的にも軍事的にもネパールの主人公であり続けてきた。その母語であるネパール語はインド・ヨーロッパ語系に属する。その従来の居住域は、ネパール・ヒマラヤ南面の1800メートル以下の地域(山地低部)であるが、近年では、政府、学校などの仕事の必要から高地部や低地部に居住する人々もかなり見られる。
 彼らの生業の中心は農業であるが、今日、官吏・軍人やその他の職業に就く人も多い。パルバテ・ヒンドゥー社会はいくつかのカーストに分かれる。大別すれば上位カーストは、バウン(ブラーマン)およびチェットリ(クシャトリヤのネパール語なまり)の2カーストであり、下位にカミ、サルキ、ダマイ等少数の、従来不可触とされたカーストが存在する。インドはもちろんネワール社会とも異なり、中間の多くの職業カーストが欠落している。
 パルバテ・ヒンドゥーは歴史的に西から東への移住傾向を強く示している。彼らは、中西部のゴルカから軍事・政治勢力として興り、18世紀後半にネパール盆地を征服し、現王室につながるゴルカ(グルカ)王朝の中核となった。なお「グルカ」とはパルバテ・ヒンドゥーの征服者がマガル、グルンなど被征服者側のチベット・ビルマ語系の人々をその傘下に組み込んだ軍事・政治勢力の名称である。その中核をなすパルバテ・ヒンドゥーの人々は今では、ほぼネパール全域に広がっている。
 パルバテ・ヒンドゥーの調査村(B村)は、ダーディン郡南部に存在し、カトマンズの西約80キロメートルに位置している。

写真1
B村写真1

 

 

 B村カミ(鍛冶屋カースト)の集落。(1996年)

画像をクリックすると
大きく表示されます

 

写真2

 

 

 

 B村のバウン(ブラーマン:ヒンドゥー教司祭カースト)の家。家の前庭で家具作りをしているのはマデシュ(タライ−インドから来た職人たち)。近年山地にも南部のガンジス平原から働きに来る人々が増えている。(1996年)

 

写真をクリックすると
大きく表示されます

 

B村写真2

 

1.2.3. ミティラー
 

 ミティラーはインド、ビハール州北部およびネパール東南部にまたがる地域の名称である。その主住民の母語はインド・ヨーロッパ語系のマイティリー(Maithili)語であり、分類によってはヒンディー語の方言とされることもある。ネパール国内の言語人口は約220万人(1991年)であるが、インド側の人口はそのほぼ10倍におよぶと推定される。(なお「マイティリー」は「ミティラー」の形容詞形のひとつである。)
 社会には何十ものカーストがあり、さまざまな職業に携わるが、稲作農業は依然として生業の主体である。
 ネパール側ミティラーでの筆者の調査地(G村)は、ダヌシャ郡の郡都ジャナクプルの数キロ南に位置する。


写真1
G村写真1

 

 

 G村(1996年)。ミティラーの集落には溜池が多い。

写真をクリックすると
大きく表示されます

 

写真2

 

 

 

 G村(1996年)。道の右側は低カースト(タトマー)の居住地。左側の大きな家はブミハール(高カースト)の家(この時点では無住)。
この辺りの家はみな平屋である。理想的な形としては中庭を持つ。

写真をクリックすると
大きく表示されます

G村写真2

<<<- 目次に戻る... ...次のページへ ->>>


copyright (C) 石井 溥:hishii@aa.tufs.ac.jp 1999-
All Rights Reserved.