線路は続くよタンザニア編

タンザニア鉄道の旅

 97年3月4日、午後5時過ぎ。タンザニアの首都ダルエスサラームの中央駅。 20両編成の長距離列車が間もなく出発しようとしている。 日差しは一向に衰えず蒸し暑く、
汗と埃で顔がベタベタして気持ちが悪い。私は一等車のデッキに立ち、プラットホームを行き交う人々を眺めながら出発までの時を過ごしている。
荷物を車内に積み込んでいる人、    おお何と沢山の鞄だ、の図

見送りの人。             小さいけど、見送りの人々の手、のつもり。

歯ブラシ を売り歩く少年、キオスクでコーラ を飲んでいる人たち。

定刻を過ぎても列車は動き出す気配がない。

 デッキに出ていた別の乗客が話しかけてきた。タンザニア人の青年だが英語がとても流暢だ。タンザニアでは英語の上手な人は珍しい。父が駐カナダ大使をしていて海外での生活の方が長かったのだと言う。そんな話をしていると突然、

ガタン

と大きく揺れて列車が動き出した。何のアナウンスもなく、扉を閉めにくる駅員もいない。プラットホームにいる人や線路の脇を歩いている人たちが手を振って見送る。人々の姿が後ろに流れ去り、列車はゆっくりとダルエスサラームのまちを後にした。

 96年度からの科研費による国際学術研究 「東アフリカにおける地域共通語に基づく文化圏生成とエスニシティの構造」(代表・宮本正興大阪外大教授) に参加することになった私は、ビクトリア湖岸の少数民族の言語とその言語使用に関する調査を行うことになった。今回の旅はその下調べとして、ビクトリア湖の周辺地域を見て回り、調査地を決めるのが目的だ。インド洋岸のダルエスサラームから内陸のビクトリア湖までは飛行機やバスで行く方法もあるが、初めての内陸への旅を鉄道で行ってみることにした。ここではその旅の報告をしようと思う。

 全行程およそ1200km。車中2泊で3日目の朝にビクトリア湖南端の町ムワンザに着く。列車が走る経路はかつて奴隷や象牙が運ばれた交易路であり、バートンやスピーク、スタンレーといったヨーロッパの探検家達が奥地を目指して進んでいった道でもある。19世紀の終わりドイツの植民地支配下で鉄道が建設された。内陸の中継地点タボラで北のムワンザ行きと西のキゴマ行きとに分かれている。

 列車はダルエスサラーム市内を抜け、いくつかの小さな集落を通り過ぎて行った。やがて家々の姿も見えなくり、潅木の林が続くようになる。不快だった蒸し暑さが収まり始めると、まもなく日が暮れた。

to be continued....


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