愛のナミビア編

「座る」−ヘレロのおまじない−

 ナミビアでヘレロ語の調査をすることになった。ヘレロ語はバンツー諸語のひとつで、ナミビア北西端と中央東部で話されている。

 今回のインフォーマントはアンジェラ。彼女はアメリカに留学中の夫の帰りを待ちながら首都ウィンドフィックで実家の家族と暮らしている。
 アンジェラは大変な世話好きで、インフォーマントとしてだけではなく、私の滞在中のあらゆるケアをしてくれた。村に調査に行くときは「乗合バスに一人で乗るのは危険だから」と私を村まで送り、私が村で彼女の親戚の家に泊まれるように話をつけて帰っていく。村でしてはいけないこともいろいろ教えてくれる。おまけに出発前には「ノブコはこの色が似合うから、この服は絶対持っていきなさい」と荷造りのアドバイスまでしてくれた。
 バスターミナルや宿のない調査地でスムーズに調査をおこなうことができたのもアンジェラのおかげである。 ただし、アンジェラとの調査自体がスムーズであったかというと、そうではない。

 調査者が何を知ろうとしているのかすぐに把握し、仕事を効率よく進めていくのに大変協力的なインフォーマントがときどきいるらしいが、アンジェラはその対極であった。なんといってもすこぶるカンが悪い。その上、アンジェラと私は年齢が近く、夫が遠くにいるという状況や好奇心旺盛なところも似ていて、調査中どんな話からでもすぐに盛り上がって、横道にそれてしまうのである。


 動詞の派生形を調べていたときのことである。ヘレロ語の動詞派生形に適用形というのがある。例えば「彼は私を殴る」という文を適用形にすると、『彼』が殴る相手は『私』ではなく、『私に関する別のもの』に変わってくる。この”関わりかた”にはいろいろあるが、その中の”所有関係”になり得るのはどんな物や場合なのか、いろんな動詞で試してみることにした。

 数ある動詞の中から私が最初に『座る』という動詞を選んでしまったのがいけなかった。適用形の質問の前にまず基本形の「私は彼の(膝の)上に座る」という例文を作ってみた。これは複雑でも何でもない、ごく基本的な文型である。にもかかわらず、アンジェラはその例文に対して

「これはだめだ」


ときっぱり。

えっ?


私はおどろいて聞き直した。この例文が正しくないのなら、適用形どころではない。いろいろ見直してみるがわからない。何度聞いてもアンジェラは

「これはだめ」


の一点張りである。

 しばらくしてアンジェラは私をさとすように言った。「子供ならともかく、誰かの膝の上に座るのはヘレロの社会では礼儀を知らない人がすることよ。こんなことノブコはナミビアで絶対しちゃだめ」

私がたずねているのは、ヘレロ社会の道徳じゃなくて、
ヘレロ語の文法なの!


と言ってしまいそうだったが、おかげでヘレロ社会では誰かの膝の上に座るのはいけないことだとわかった。
(HP作成者の独り言:日本でだって、あんまりまともなことじゃないと思うけどなあ。)

 しかし、肝心の話はまだ済んでいない。少しイライラしながらようやく適用形にたどりつく。「私は彼の・・・・に座る」の・・・・にどんなものを入れることができるかたずねてみた。彼女はあれこれと真剣に考えたあげく、そこに入れられるのは
『食事』
ひとつだけだと言う。彼女が作った例文は何と 「彼の食事に座る」 である。この形が使えるのはこれだけだと、 えらく自信ありげ であった。それにしては納得のいかない例文である。彼女は「これはね、こういう意味」と説明を始めた。
「例えば私の夫が 浮気を しているのがわかったとするでしょ。そんなときには彼に熱い料理を準備してその上にまたがるの、こんな風にね」
 彼女は私のノートをお皿に見たてて地面に置き、膝をついてそれにまたがってみせた。彼女の説明によれば、熱い料理にまたがるので彼女は汗をかき(ヘレロの既婚女性は大きく広がった長いスカートのドレスを着ているのでまさにサウナ状態である)、その汗は料理の上にぽたぽた落ちる。そうとは知らずに夫は彼女の汗の入った料理を食べる。そうすると夫の心は彼女に戻ってくるのだそうだ。 うーん、論文には使いにくい例文である。
 だけどこれはなかなか興味深い。 調査はそっちのけで 詳しい話を聞くことにした。・・・ 
to be continued....


迷走するノブコの言語調査!果たして適用形の謎は解けるのか?次回、「ヘレロのおまじない」完結編、乞うご期待!

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