表題の問いに関しては、無条件にラテン文字を使う事を暗黙の諒解にしている人も多いかと思われます。中にはラテン文字の使用以外、考えもしない人さえいるかも知れません。実は、我々のプロジェクトの議論でも、その多くがラテン文字の使用を前提としたものになっています。
確かにラテン文字は便利です。広い地域に普及している事のほかに、子音と母音を分けて表記しているのが大きな理由です。つまり、どんな音節構造であっても、原理的には表記できる文字なのです。分かりやすく言えば、伸ばす音、詰まる音、子音だけが連続している音等、自由自在に書ける文字なのです。音声の精密な表記に用いられるIPA(国際音声字母)や正書法の無い言語の研究書の大多数に見られる転写法もラテン文字を元にしていますが、それもこの利点故にでしょう。
然し、だからといってラテン文字を採用する事がいつでも最善の策であるとは限りません。言語学者の常識は、必ずしも話者にすんなり受け入れられるものばかりとは限りません。
例えば世の中には、ラテン文字を知らない、或いはそれに慣れていなくても、他の文字には通じている、といった人がいます。
片仮名が適切な場合
中川裕1995『アイヌ語をフィールドワークする』(大修館)の「書き言葉としてのアイヌ語」(199頁から205頁)に大変興味深いエピソードが書かれています。「音素表記で訓練されてきてしまったために、かつてはカナ表記に対する抵抗が非常に大き」く、「カナで書かれているとそれだけでなにか不正確なような気がした」著者が、「ひらがなとカタカナの入り交じった」アイヌ語の手紙を受取ったところ、書き手の気持が「表記法だのなんだのということを越えて」「直接的にしんしんと伝わってき」て「カナに対する認識を改めるようになった」という話です。その後「.
. . 私はつくづく思った。これからアイヌ語を学ぶ人ではなく、現在アイヌ語をしゃべれる人たちが使える文字、つまりカナで書き表わすことの重要性を。」「カナで書いてあれば、年寄りでもなにが書いてあるかわかる。」といって貴重な提言が続きます。文字に関心のある方には是非一読をお薦めしますが、これに似た状況は、世界の他の地域でも見られることでしょう。
エチオピア文字が選ばれる場合
又、私が経験した事をお話すれば、エチオピア人に挨拶等、簡単な日本語を教えた事が何度かあるのですが、彼等は紙に書き取る時、まず間違いなくエチオピア文字を使います。その中の一人で、私のウォライタ語調査の相手をして下さった方は、英語に相当堪能で、しかもエチオピア文字で書かれるアムハラ語は彼にとって第二言語なのですが、最初はエチオピア文字で書いていました(尤も最近は、私の調査ノートを見てラテン文字を使う事を覚えたようですし、平仮名も少しですが使えるようになりましたのでエチオピア文字だけではありませんが)。
日本人だって、言語学を知らない限り、取分けラテン文字を使わない言語や余り知られていないような言語を短期旅行用に書き留めるときは、普通は片仮名で書くと思います。
いずれにせよ、ラテン文字以外の文字を使う方が自然である場合もあるのです。従って、無条件にラテン文字を押し付けるわけにはいかないと思います。
上では、ラテン文字に拘らず、慣れ親しんだ文字を採用する可能性に就いて述べました。しかし、慣れ親しんでいさえすればどんな文字でも構わないかというと、そうでもありません。
言語構造に起因する問題点
エチオピアのウォライタ語から例を取りましょう。この言語では、「近さ」はmátaa、「草」はmaatáa、「蜂」はmáttaa、「ミルク」はmááttaa、「権利」はmáátaaと似て非なる語で表されますが(アクサンテギュは高アクセント)、エチオピア文字で普通のウォライタ人がこれらの語を表記すると、総て同じになってしまいます。これは、エチオピア文字が音節文字で、アクセントは勿論、子音の重化も表記出来ず、更に母音の長短も基本的に区別出来ないためです。極簡単に言ってしまえば、片仮名から促音記号「ッ」や長音記号「ー」を取り去ったような文字だからです。したがって上の何れも「マタ」と書くしかないのです。
海外旅行用何々語といった類の物に馴染みの薄い言語が片仮名で表記されている事がありますが、そのまま読んでも通じない事が多いでしょうし、その言語に通じている人にとっては腹立たしいような表記がされている場合もあるかも知れません。これも又、片仮名で音節構造の異なる外国語を表す事が如何に難しいかを示すものでしょう。
誤解の無いように付け加えて起きますが、ラテン文字を使ったとしてもこれらの問題が完全に解決されるとは限りません。子音や母音を表す字のが図の数が足りなかったりして、コンピューター上での処理が厄介な補助記号に頼らなければならない事は幾らでもあります。
文字に対する愛着に起因する問題
又、ここでは余り深く立ち入りませんが、或る文字に通じている事と、それで表記される言語(及びその話者)に愛着があることとは別問題です。実際の必要上から共通語を学んだけれども、自分の言語にその文字を使う事には心理的に抵抗を感じる、といった場合もあるかも知れません。
最初の問題は、実際のところはたいした問題ではないのかも知れません。補助記号を使ったりすれば、多くの音を表し分ける事が可能ですから。尤もそれはそれで問題はありますし(別項参照)、他民族の文字に対する(或いは民族そのものに対する)心理的抵抗感はそう簡単には拭い去れないものでしょう。
結局のところ、どの文字を採用するかはその言語の話し手達自身が決めるしかないでしょう。その際には上で見たように様々な事を考慮しなければなりません。その際に言語学者に何が出来るのかに就いては、別項を御覧下さい。
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まとめ
ラテン文字が絶対ではない。当該地域でよく知られている文字を採用するのも一法である。結局は話し手達が好きな文字を選べばよい。但し、文字の借用には様々な点で問題が発生しうる。
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