言語学者は正書法の制定にどこまで関われるのでしょうか?


 新しい表記体系を生み出す時、言語学者が関与する事がしばしばあるかと思います。しかし、そもそもこうした活動に言語学者が参加する必要があるのでしょうか。又、参加するとした場合、何が出来るのでしょうか。これらはきちんと考えなければならない根本的な問題だと思います。

  1. 「言語学的に正しい」表記

     言語学的に正しい表記が、必ずしも実用的に使いやすい表記であるとは限りません。細かい補助記号がコンピューター上で扱いにくい事は言うまでもありません。言語学でよく使われるラテン文字は、話者にとっては馴染みの薄い文字かもしれません(全く文字を知らないのならともかく、他の文字には通じているかも知れません。別項参照)。又、極めて不思議な事なのですが、音韻論的に有意義な対立が必ずしも話者に正しく認識されているとは限らないのです(勿論普通に話す時にはきちんと発音し分けられますし、聞き取りも完全なのですが)。


     私のフィールドでの経験をお話しましょう。私の調査しているウォライタ語(エチオピア)には、日本語と同じくアクセントの対立があります。しかし、その聞き取りや分析は、少なくとも私には極めて困難です。そこである時、私はずるい事を考えました。つまり、話者の人に何処が高いのか、或いは何処に下がり目があるのかといった事を説明してもらおうとしたのです。日本語で「雨」と「飴」のような例があること、ウォライタ語にもこうした対が見付かる事、それらの違いはアムハラ語(エチオピアの公用語)学校文法で重視されている子音の重化の違いではなくピッチの高低によるものであることなどを説明し、一応納得してもらった後、問題となっている語句のアクセントに就いていろいろ訊いてみました。結果は散々でした。明らかに違いがある対に対し「全く同じだ」と答えたり、明らかに低く聞こえる箇所を高いと認定したり、しかもその答えが一定していなくてさっきと違う事をしょっちゅう言ったり、といった具合でした。2人ほど試してみましたが、結果は同じです(尤も私の聞き取り、分析の方が根本的に間違っているのかも知れません。少なくとも語を超えたレベルでの基底形では彼等の認識の方が正しいのかも知れません)。


     Kaji, Shigeki (1997) 'ATR and Wolf vowels' (『言語研究』第112号、33―65頁)にも面白い話が載っています。「ローマ字をベースにした正書法も決まり、少なくとも音韻に関しては一見、なんの問題もないかのよう」な「よく研究されている」セネガルのウォロフ語で、「新たに4つの短母音と4つの長母音を発見した」という内容ですが、フランス人研究者の誤った記述をセネガル人研究者(おそらく母語話者でしょう)が代々受け継いできた旨が述べられています。音韻的に正しくない正書法が受け入れられ、使われ続けてきたという事実に対しては様々な角度から考える必要がありますが、ここでは省略します。とにかく、正確な音声観察とその音韻的な分析は、母語話者にとっては時として極めて難しいものである事がお分かり戴けたと思います。
     


     従って、そうしたものに基づいた正書法は、話者の人に使いこなせないもの、或いは相当の訓練を必要とするものになりかねないのです。文字の習得には当然相当の努力を要するものですが、正しいかどうか保障の無い言語学理論が話者に無意味な努力を要求する事はないでしょう。
     文字はつまるところ、言語を知っている人が見て何が書いてあるか分かればいいわけであって、正しい言語学的分析に則っている必要は全くありません。従って、正書法の制定には、その言語に通じている人が参加、或いは協力する事は絶対に必要ですが、言語学を知っている人がいる必要は、理論上は無い筈です。

  2. 文字化に際し言語学者の貢献できる点


     但し、言語学者が参加していた方が、便利な場合もあります。


     例えば、様々な文字、と言っても当該地域で採用候補になり得る文字が中心となるでしょうが、それらの利点や欠点をその理由とともに分かりやすく説明する事が出来ます。子音連続や閉音節の多い言語で平仮名のような開音節主体の音節文字は使いにくいだろう、といったことを分かりやすく説明する事が出来るわけです。尤も正書法を制定するとなると、純粋に文字の持つ利点や欠点だけで決定するわけにもいかないでしょうが(別項参照)。
     


     次に、正書法が余り規範的に、或いは厳密になり過ぎないように助言する事が出来ます。何処まで規範を厳密にするかに就いては別項を参照戴くとして、古今東西の文字を幾つか知っていれば、当然このような結論になると思います。「表音文字」を使っていながら一つ一つの語のスペルを覚えなければならない正書法、一つの語に対し複数の書き方が存在する正書法、一つの文字が幾つもの読みを許す正書法、いずれもその他の面での或る程度の、というより相当程度の規範が前提となりますが、きちんと機能しています。こうした事を教えられるのは、普通は言語学者が適任でしょう。
     


     その他、正書法の制定とは少し離れますが、採用された正書法がどのように使われるのかを観察するのも言語学者の大切な仕事だと思います。頻繁に見られる誤りにはどんな種類のものがあるのか、新しい外来語音をどう表記するか、同音異義語をどう書き分けるか、等、興味深いテーマは沢山あると思います。そうした研究が将来の正書法制定・改定に役立つ事は充分考えられます。
     これらはいずれも言語学者の重要な仕事だと思います。尤も、総ての言語学者にこうした事の出来る能力があるとは限らないでしょう。能力があっても実行しない人や、或いはこうしたことが大切だということに気付きもしない人もいるかも知れません。

     最後に、言語学者は個々の細かい点に関して話者が迷っている時、具体的にアドバイスをする事も出来るでしょう。例えば二重母音をaiと書くか、ayと書くかといった、ひょっとしたらどうでもいい問題に話者達が決着が付けられないでいる場合に、言語学者が音韻論の立場からどちらかを選ぶ、といった事ですが、こうした事は文字の本質からすれば些細なことかと思われます。

  3. 言語学者の仕事 もう少し一般的な観点から


     言語学の直接的な目標は、調査可能な言語資料の調査、記述、そして可能ならそこからの理論化でしょう。従って、文字に関して言語学者が出来る事も、正確なデータの収集とそれらの記述、分析です。従って、正書法制定にあたってもそれらの成果を提示する事が主たる仕事になるでしょう。必要に応じて当該言語の構造の「正確な」分析を示すこともありましょうが、話者の人に受け入れてもらえなければ意味は余り無いでしょう。
     いずれにせよ、言語学の目標、及び言語学者の任務は規範の制定にあるわけではありません。正書法の制定に関しても、基本的に同じ事が言えると思います。話者の人々が言語学者を絶対視することなく、又、言語学者も自分の学説を話者に押し付ける事が無い、そういった関係が望ましいでしょう。

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まとめ
 言語学的に正しい正書法は必ずしも実際に使いやすい正書法ではない。一般に言語学者の仕事は規範の制定ではなく事実の調査・記述である。言語学者が正書法制定に協力する際にもその事を忘れてはならない。
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