Q2:言語記述における音声記号(IPAなど)の使用


(文責)塩原

言語学者は古くから「あらゆる言語を記述するためにすべての言語学者が共通してもちいることができる音声記号」を作る試みをしてきました。そのような表記体系の中で、現在広く用いられているのが、国際音声学協会が制定しているIPA(International Phonetic Alphabet)です。学派の中には独自の音声記号を採用しているものもありますが、そのような場合も基本的にはIPAの体系を採用し、いくつかのスロットに別の記号を当てているというケースがほとんどです。

この種の音声記号を用いることには次のような長所があります。

・基本的に世界のあらゆる言語の音素をくまなく表し分けることができる。

・言語学者間では音声記号について共通の理解が得られているため、それを用いれば、個々の文字と音の対応について他に説明を加える必要がなくなる。

上記のようなメリットがあるにも関わらず、実際のところ、完全に音声記号による転写を行っている研究者はあまりいません。(音声を扱う研究における表記は別ですが。)その背景には、世界のあらゆる言語の音素を網羅するために必要とされる文字体系と,研究対象とする一つの言語の音素を網羅するのに必要とされる文字体系が本質的に異なるということがあるでしょう。以下に、個々の言語の記述に音声記号を用いることのデメリットを具体的に挙げます。

・なじみのない文字への違和感

IPAなどの体系は,「ある音声の対立を,ある言語が音素の対立としてとらえている場合はそれを表しわける」という原則で作られているため、必然的に,特殊文字や補助記号が多くなります。言語学者も人間ですから一つの言語の音素体系を表す際,その音素数と分布さえ許せば,なじみのある文字を使って表記を行いたいというのは当然の感覚でしょう。

・各言語の記述上の慣習からの逸脱

言語の中には,話者コミュニティによる正書法が確立しているものがあります。(たとえば,インドネシア語の正書法では[]をnyと,[]をngと表記することになっています。)

また,正書法とまでいかなくても,当該言語,あるいはそれと同系統の言語の研究者間による表記の慣習がある程度定着している場合があります。(例えば、インドネシアの諸言語では、声門閉鎖音[]をqで表記する習慣がある程度定着しています。)

いくら一般言語学の立場から客観的研究対象として記述を行うという立場を取ると言っても,想定される読者である当該言語の研究者や一般の話者を意識しないで表記を行うのには限界があります。

・コンピューター処理がしにくい

IPAなどの特殊記号を用いると、(i) 特別なフォントが必要で、入力に手間がかかる。(ii)検索、ソーティングなど文字列の処理がしにくいなどの問題点があります。

・実際の使用

以上の欠点があるため、多くの言語学者は,IPAとは別の文字体系を表記に用い,その表記の体系とIPA表記を対応させる表を,記述の初めに前提として置くという手法をとっています。(間にワンステップおいているわけです。)その例として,バントゥ諸語の一つのベンデ語(タンザニア)の表を下にあげます。

一方で,音声記号に含まれる特殊文字のうち、いくつかのものは(少なくとも言語学者の間では)一定のコンセンサスを得て用いられているということにも目を向ける必要があるでしょう。たとえば、シュバーを表す«や、硬口蓋鼻音を表す、声門閉鎖音を表すなどは、他にその音を表す適当なローマンアルファベットがないこともあって、記述上広く採用されています。また、特殊記号ではありませんが、アルファベットに補助記号を付けた音声記号の中には、話者コミュニティの表記上の習慣として取り入れられているものもあります。

結論

言語学的記述を行う際には、何らかの形で、表記に用いる記号の音価をすべての言語学者に理解できる形で提示する必要があります。IPAはまさにその目的のために作られた記号なのですが、その目的を満たすための特徴が、逆に、個々の言語記述の上でさまざまな不都合をもたらすことになります。

そのため、多くの言語学者は、各言語の表記上の習慣と音素の表しわけの必要のバランスを考えながら、必要に応じて転写に音声記号を取り入れるという方法をとっています。記述の進んでいない言語で、新しく表記方法を定める場合もそのような方法をとるのが現実的でしょう。(ただし、記述の前提として、転写に用いる記号と、IPAとの対応を明示することが最低限必要です。)


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