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2009(平成21)年度 教育セミナー報告

黒木 英充(東京外国語大学AA研)

    多様性と他者性のダイナミズム−アラブ・キリスト教徒研究の視角

 本セミナーのねらいは、アラブ・キリスト教徒に関する研究状況を紹介し、「中東・イスラーム研究教育プロジェクト」が研究の柱の一つにすえてきた「他者性」をめぐる問題について光を当てることであった。

 「ムスリムと非ムスリムの平和的共存」が切実な人類的課題となっている今日、アラブ・キリスト教徒に関する研究は、中東におけるキリスト教徒の問題、ムスリムが多数を占める社会におけるキリスト教徒の問題、歴史的にムスリム支配下にあった非ムスリムの問題、といった形で拡張的・発展的にパラフレーズすることができる。ただ、その全体像を俯瞰するのは限られた時間の中では困難なので、アラブ・キリスト教徒の問題に絞り、中でも18-19世紀のギリシア・カトリックのミッレト成立過程に光を当てることで、「歴史的シリア」の地域における社会の多様性と、そこで様々な他者性の軸が交錯して集団編成が進んだ事実を指摘することをめざした。

 まず、アラブ・キリスト教徒をめぐる研究状況について、東方キリスト教会研究とエスニシティ研究、オスマン史研究のそれぞれの局面から簡単に問題点を整理したうえで、「越境」や「相互浸透」の担い手として振る舞うアラブ・キリスト教徒たちの両義的存在の意味を問うことの重要性を指摘した。

 そのうえで、東方諸教会の信徒にローマ教皇の首位性を認めさせてその管轄下に組み入れる「教会合同」の歴史について解説し、それがオスマン帝国臣民に対して行われた際の問題点について説明した。つまり、臣民としてはスルタンの支配下にありながらも、信仰面ではローマ教皇というオスマン帝国の外部にある権威の下に入る(=カトリック化する)、という分裂した状況である。さらに、ヨーロッパ諸国がオスマン帝国内部のキリスト教徒諸派に対して「保護権」を主張する段階に至り、この問題は一挙にオスマン帝国の分解を招く可能性のある危機的なものとして浮上したのだった。

 歴史的シリア地域においてアラブ化したギリシア正教(東方正教)のキリスト教徒たちは、オスマン帝国支配下で、コンスタンティノープル総主教座の権威が高まるとともに自らの教会首長たるアンティオキア総主教座に対する覇権が強まるなかで、徐々に分裂の様相を強め、反コンスタンティノープルの立場を主張する信徒たちがカトリック化していった。そこには当然のことながらイエズス会を初めとするヨーロッパのカトリック伝道団の活動が影響していたのであるが、問題は単純ではなく、こうしたカトリック化した人々(ギリシア・カトリック)は、自らをビザンツの伝統を継承するアラブのキリスト教徒として位置づけていたために、一部は伝道団とも様々な対立を引き起こすこととなったのである。このようなアンビバレントな条件の下で、19世紀の歴史的シリアをめぐる国際政治の激動が直接関係し、マクシモス・マズルーム総主教によってギリシア・カトリックが独立したミッレトとしてオスマン政府に公認されたのが1848年であった。(そしてこの1840年代にはすでにレバノン山地でマロン派とドルーズ派の衝突が始まっており、1850年にはアレッポのキリスト教徒居住地区襲撃事件が発生して当時滞在中だったマズルーム総主教は命からがら逃げ出し、その死後の1860年にはレバノン山地とダマスクスでギリシア・カトリックも含めたキリスト教徒全体が多大な被害を受ける大規模紛争が発生した。)

 この一連の過程は、当該地域の「宗派主義」sectarianismの起源をなすものと考えられるが、ここで問題となった宗派(ミッレト)そのものは、このように目まぐるしく入れ替わる「他者性」の軸の狭間で、マズルーム総主教の師に当たるアレッポ主教ゲルマノス・アーダムやマズルーム自身の、引き裂かれる自己と、その状況を逆手にとって利用する主体性との揺らぎの中で、動的に形成されたものであった。従って当該地域の社会を超歴史的に宗派主義的なものと見なす視点には大きな問題があり、その姿勢自体に強い政治性が見出される。私たちがアラブ・キリスト教徒の問題を取り扱う際には、この不安定で動的な、見る者と見られる者が絶えず入れ替わるような相互置換的状況を前提として、考察を進めなければならないのである。

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