インドネシア語新聞翻訳
2010年4月15日(木)
【メディア・インドネシアカ紙】


タンジュン・プリオクが燃え盛る

 北ジャカルタの港湾地域であるタンジュン・プリオクで激しい紛争が勃発した。これこそ、1984年にタンジュン・プリオクで起こり、当時アミル・ビキを死亡させた同様の事件以来、最も深刻な紛争だ。1984年のタンジュン・プリオク事件(訳注1)は、後にオルデ・バル(訳注2)時代の重大な基本的人権の侵害の一つとして記録されている。

 昨日〔4月14日〕、同地域で同じような事件が繰り返された。ぞっとするほどの凶暴性と憎悪を抱いて、警察と住民が朝から晩まで戦った。数十名が負傷し、多くのパトカーが〔この〕集団によって燃やされた。暴動はさらにコジャ病院まで広がった。

 きっかけは同じで、つまり宗教的信条を害したことだ。1984年の残忍な暴動は、履物を脱ぐことなしにモスクに入った役人に対して住民が激怒したことが発端だった。

 一方、昨日の紛争はこれまで聖なる場所と信じられてきたプリオク師の墓に入ろうとした、数千名の地方警察官吏に対する住民の抵抗が引き金となった。その墓地はインドネシア第二港湾公社の所有地にある。プリオク師はハビブ・ハッサン・ビン・ムハンマド・アル・ハダドの別名であり、そのジャカルタ北部の地域を初めてタンジュン・プリオクと名付けた、スマトラ出身のイスラーム伝道者だった。

 1984年にタンジュン・プリオク事件が勃発した時、民衆で〔事件について〕知っている者はあまりいなかった。その事件で真実を放送しないように、報道が厳しく制御されていた。

 昨日、タンジュン・プリオクでの戦いは見世物となった。これこそ民主主義と自由の時代に起こった戦争だ。あらゆる装備と権威を持って〔戦う〕国家がいかに国民を愛していないか、ということを民衆は実際に目にした。

 一方、国民〔自身〕がいかに残忍な凶暴性を持っているのかも、民衆は目の当たりにできた。焼夷弾を爆発させることを含め、鋭利な武器や武器として利用できる全ての戦争装備品を、彼らも見せつけた。

 まるで戦場での敵のような陰惨な流血の闘いに、国家や国民自身が巻き込まれた原因は何なのだろうか?

 これらのすべてはいくつかの原因で起こった。第一に、国家が全力を傾けて国民を愛することに真の改善が見られないことだ。住民と利害の対立が起こると、国家は国民を排除すべき敵として扱う傾向がある。

 第二に、国家の問題解決が下手なことだ。そのプリオク師の墓は、ジャカルタ首都特別州のプリヤント副知事の説明によれば、取り壊されないが、聖なる場所として改装されるという。しかしその素晴らしい意図は、コミュニケーションの悪さから理解されなかった。

 第三に、この国家の法の確立が非常に巧みに操られていることが日ごとに明らかになり、規定に対する深刻な不信が起こったことだ。最近暴露された司法マフィア(訳注3)〔の慣行〕は、そういった不法行為がいかに拡大されていたかを明らかにした。

 そして、同じぐらい重要なのが市民教育の悪さだ。国民が規律を持つように教育することを国家は怠った。各教育組織も同様だ。また政党も市民教育を行うことを怠った。


訳注
1) (1984年の)タンジュン・プリオク事件: 1984年9月タンジュン・プリオクでイスラーム教徒と警察が衝突し、イスラーム教徒側に数十人とも数百人とも言われる犠牲者が出た。
2) オルデ・バル: 「新秩序」の意味。具体的には、スハルト政権下の1963年から1998年までの時期を指す。スハルト以前のスカルノ政権時代は、オルデ・ラマ(旧秩序)と呼ばれる
3) 司法マフィア: 法の確立を左右するような利益誘導のためになされる個人または団体による全行為や既存の規定を逸脱した公職にある者を指す。例えば汚職を行った高官などはそれに含まれる。

(翻訳者:川名桂子)
(記事ID:so1004153kk)

原題:Tanjung Priok Membara
http://www.mediaindonesia.com/read/2010/04/04/136067/70/13/Tanjung-Priok-Membara



ISEA インドネシア語新聞翻訳 TOPへ

ISEA TOPへ