インドネシア語新聞翻訳
2010年4月15日(木)
【レプブリカ紙】


プリオク師の墓に関するひとつの歴史

 プリオク師の墓は、今日ジャカルタとして知られているバタビアでのイスラーム布教の闘いに関する話の一部をなしている。そのため、彼の墓の周辺が撤去されるとなったとき、この宗教上の人物を尊敬している人々は怒った。そして昨日〔4月14日〕の事件で承知の通り、住民と治安部隊の間で衝突が起き数百人の人が負傷し、何人かの人が命を落とした。

 プリオク師(墓の入り口に書かれている通りに呼ぶが)のもともとの名は、ハビブ・ハサン・ビン・ムハマド・ビン・アブドゥラマン・アルハダドだ。ジャカルタ市の博物館・歴史局が出したジャカルタの歴史関係書物には、ハビブ・アル・ハダドの名前も墓も記載されていない。同様にジャカルタ市の古い墓の歴史の中にも、プリオク師の名は記されていない。

 現在に至ってもハビブ・アルハダドの経歴を辿るのは困難だ。彼の〔南スマトラ州〕パレンバンからジャカルタへ向かった旅も含め、彼の出自に関して信じるに足る公式の情報源はいまだにない。いつ亡くなったのかも含め、ハビブ・アルハダドの旅の話を裏付ける資料も事実も、歴史家によってまだ研究されていない。

 プリオク師に関する話があっても、それは人々の間で流布している話に留まっている。その話自体は、ハビブ・アルハダドが1727年パレンバンで誕生したことから始まっている。彼は両親からアル・イマム・アル・アリフ・ビラー・サイディナ・アル・ハビブ・ハサン・ビン・ムハマド・アルハダドという正式な名を与えられた。1756年ころ、彼はイスラーム教の布教を強化するためにジャワ島に向かった。

 その航海は2ヶ月かかるところだった。しかし、彼が乗っていた船はバタビア港間近の海上にあったときオランダの攻撃を受けた。ハビブにはまだ神の加護があったようで、彼が乗った船はオランダの攻撃から脱することができた。しかし、その後まもなく船は大波に襲われ転覆し、ハビブ・アルハダドはバタビアの海岸地帯まで流された。

 住民に発見されたときアルハダドは既に亡くなっており、彼の遺体の傍らにプリオク〔釜のこと訳注〕と一本に櫂が見つかった。彼を埋葬するとき、そのプリオクと櫂が墓標となった。その墓にはタンジュンの花〔和名 ミサキノハナ 訳注〕が植えられた。おそらく遺されたこのタンジュンの花と飯を炊くプリオクから、ジャカルタ北部のこの一帯がタンジュン・プリオクと呼ばれるようになったのだろう。

 プリオク師のもともとの墓は、当初ポンドック・ダユン地域にあった。その後になって、まだオランダ統治時代だったが、墓は現在の場所に移された。そして時の経過とともにプリオク師の墓は宗教的な墓参の場所となり、ハビブ・アル・ハダドの布教の闘いに敬意を表する人々が多く訪れるようになった。

 何人かのハビブ姓(訳注1)の人によると、コジャのコンテナー地区に埋葬されているハビブ・プリオクは、最近のおよそ10年に知られるようになったばかりだ。そのため、ジャカルタの歴史に関する公式の本にはプリオク師の墓のことは出ていない。多くが書かれ、ハビブ姓の人のジャカルタの墓参の中心の一つとなっているのは、1756年6月24日(木)に亡くなったアルハビブ・フセイン・ビン・アブドゥラー・アライドルスの墓だ。彼は広く知られており、その墓は何百年も前から墓参されている。

 このほかに、多く人が訪れているハビブ姓の人の古い墓地が二箇所ある。一つはスンダ・クラパ(訳注2)とアンチョールのレクリエーション・センターの間のカンプン・バンダン通りにある。このモスクに、ハビブ・アブドゥラマン・ビン・アルウィ・アシャトゥリ(イスラーム暦1326年、西暦1908年没)、ハビブ・アリ・ビン・アブドゥラマン・ビン・アルウィ(イスラーム暦1122年、西暦1710年没)、およびハビブ・ムハマド・ビン・ウマール・アルクドゥシ(イスラーム暦1117年、西暦1705年没)の3つの墓がある。もう一箇所は、マンガ・ドゥア(訳注3)の商店街の立体交差点に近いマンガ・ブサールモスクで、ハビブ・アブバカールとアルウィ・ジャマルルライルの墓がある。

 ハビブ・アルハダドの墓の場所は、以前はドボの公営墓地だった。集めた情報によると、墓の周辺はアラタス家とアルハダド家所有の土地だった。その当時、地主になっているアラブ系の人が多かった。アラタス家所有の土地は、ジャカルタ首都特別区の地方政府に寄贈された。その後その土地はコンテナー埠頭としてインドネシア第二港湾公社(Pelindo II)に交換に出された。

 Pelindo II はその代わりとして北ジャカルタ市のスムプルに土地を買い、それをブディ・ダルマ公営墓地とした。ここにも何人かのハビブ姓の墓があり、彼らはコジャのドボ墓地から移った者だ。その移動は1996年に行われた。

 ハビブ・アルハダドの墓が撤去されるという噂は以前からあったようだ。しかし6年前(2004年)から Pelindo II は、ハビブ・ハダドの墓の撤去はない旨の声明書を出していた。それだけでなく、歴史的場所として見なされていたので、ジャカルタ首都特別区地方政府によって保全が図られることになっていた。 Pelindo II が本当にその約束を実行するつもりであることを信じさせるために、また同時に墓の強制撤去に対する不信・疑念を一掃するために、H. バンバン・スギオノ北ジャカルタ市長は、この墓を撤去しないことを再度言明した。この声明は先月、クラマット・ルアール・バタンで行われた預言者ムハンマドの生誕記念祭で、ハビブ姓の人たちを前にして行われた。ジャカルタ首都特別区地方政府は、ハビブ・アルハダドの墓を撤去しないだけでなく、その墓に記念碑を立てて存続を図ると言明した。

 その式典に参加した何人かの人は、市長が撤去されるのは建築許可を得ていない周辺の家と入り口の門であると、言明していたと語った。「私はハビブ姓の人の墓を撤去することなどできない」とその時市長は言った。

 住民と地方自治体警察および[インドネシア警察の]警官との間で昨日起きた衝突は、タンジュン・プリオクにおける強制撤去実施の歴史上最大の衝突だった。昨日起きたことはかつて1984年にタンジュン・プリオクで起きた暴力事件(訳注4)を思い出させる。このとき、住民と当時インドネシア国軍だった治安部隊との間で衝突が起き、治安部隊の銃から発射された弾で数百人の死傷者が出た。

 昨夜まで緊張がまだこの埠頭のはずれの地区を覆っていた。この問題に早く決着がつき、これ以上犠牲者が出ないことが望まれる。そして、はっきりしていることは、政府はこのプリオク師の墓を、維持し存続させるべきイスラームの歴史的場所として定める必要がある。


訳注
1) ハビブ姓: ハビブから始まる名前を持つ人。アラブ人あるいは預言者ムハンマドの子孫と称する人たちに多い。アラブ人の名前は日本人のように姓と名からなっているわけでないので、「ハビブ姓」としたのは便宜上の表記。
2) スンダ・クラパ: ジャカルタの古い港があったところ。タンジュン・プリオクの西にあたる。
3) マンガ・ドゥア: 同じくタンジュン・プリオクの西、コタ駅よりやや東側の地域。ショッピング・モールが立ち並ぶ地域として有名。
4) 1984年にタンジュン・プリオクで起きた暴力事件: 1984年9月タンジュン・プリオクでイスラーム教徒と当時インドネシア国軍の機構内にあった警察が衝突し、イスラーム教徒側に犠牲者が出た。


(翻訳者:山本肇)
(記事ID:so1004151hy)

原題:Sepenggal Sejarah Makam Mbah Priuk
http://koran.republika.co.id/koran/14/108633/Sepenggal_Sejarah_Makam_Mbah_Priuk



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