インドネシア語新聞翻訳
2009年11月26日(木)
【レプブリカ紙】


犠牲的精神を育てる〔11月27日の犠牲祭によせて〕

【ジャカルタ】
 預言者アダムの息子たち(訳注1)、預言者イブラヒム(訳注2)そして預言者ムハンマドが行った神に自分の大切なものをささげる精神が、日々の生活の中に常に生かされることが望ましい。マラン国立イスラーム大学学長のイマム・スプラヨノ教授は、もともと神に自分の大切なものを捧げるのはより尊いものを得るためになされる行為だと述べた。

 「今の世の中において自分に大切なものを差し出す精神はインドネシア民族にとって大変大切なことだ」とイマム教授は述べた。教授によると、インドネシア民族が一層の進歩と繁栄と高い文明を遂げるには犠牲的精神が極めて必要とされる。「とくに指導者たち、さまざまな段階のエリートたち、そして国民にいたるまでの全ての人が犠牲的精神を持つべきだ」

 同教授は、この世界で、高貴なものを得るための戦いで犠牲を伴わなかったことはなかったと述べた。「大切なものを差し出す教えは、本当は預言者アダムの時代からのもので非常に古い。それをわれわれはハビルとカビルの物語(訳注3)で知っている」と教授は語った。ハビルが差し出した最上の捧げ物だけが結局創造主に受け取られたのだ。

 今年の犠牲祭はインドネシア民族が、国を損なう汚職、癒着、そして親族主義との戦いに専心して身をささげるための契機にすべきだと同教授は述べた。「進歩を願う国民は当然、そのために犠牲を払う喜びを持つべきだ」と教授は言明した。

 ムハマディアのハエダール・ナッシール議長は、覚悟を決めて最愛の息子イスマイルの首を刎ねなければならなかった、預言者イブラヒムとシティ・ハジャール(訳注4)の犠牲の物語(訳注5)は、愛するすべてのものを神に捧げることの大切さを人類に教えるものだと述べた。

 「この捧げる行為は、財産、力、思想など、何であれ、われわれが持っているものを通じ、神にわれわれ自身を差し出すことによって、全面的に生命が吹き込まれるのだ」と彼は述べた。同議長によると、犠牲を払うことも社会的価値、すなわち大衆の福利のためという意味を持つべきだ。

 「今日の信徒にとって大切なものを差し出すことは、われわれの犠牲的精神を呼び覚まさせる道具となる。われわれは、われわれにとってたいしたものではないものを、持たざる者のために犠牲にすることができるだろうか。預言者イブラヒム、イスマイル、そしてシティ・ハジャールは神の恵みを得るために命を差し出す覚悟があった。これが犠牲の意味するところなのだ」

 同議長によると今日、人も社会も利己的で自分自身と自分のグループの利害のみを追及している。一握りの人たちの権力欲と法と規則を軽視することは、多くの国民を犠牲にしているばかりか、制度や国も犠牲にしている。「今日の社会においては、犠牲的精神は公僕、とりわけイスラーム教を信じる者が大衆の利害と信徒の利益を自分自身の利害より優先させることによって、発揮される」と彼は明言した。

 彼はまた、犠牲的精神が集団としての連帯を生むために広がってゆくよう呼びかけた。「われわれは集団に敬虔さを育てると同時に、集団としてのルールを損なうような事柄を阻止するために、精神的エネルギーを持たねばならない」と彼は語った。

 イスラーム信徒は、所有しているものを社会に差し出すことで善行を積まねばならない。しかし、同時に、法の制度、政治の制度を損なうものがある場合は、それを阻む勇気を持つべきだ。犠牲的精神は善いことを競い合う中で具体化されるべきだとハエダール議長は語った。

 タンゲランのダルル・コーラン・ブラク・サントリ・イスラーム寄宿塾のユスフ・マンスール師(訳注6)は、近代において犠牲祭に参加することは、非常に大切にしている財産や物を差し出すことの象徴化のプロセスであるとの見解を示した。「犠牲を払うとは最も大切にしている物を差し出すことだ。したがってその形態は多くなるが、神を最優先にすることだ」

 大切なものを差し出すのは、必ずしも財産をもってする必要はない。「何十キロも歩いたり自転車に乗ったりしている教師は、生徒たちを教育するためにその行為を誠実に行っている。これも一つの犠牲的行為だ」とこのウィサタ・ハティ(訳注7)の指導者は述べた。

 ユスフ師によると、生贄となる動物の首を刎ねることは、貪欲、利己的な考え、欲望のままの振舞いなど、自分自身にある動物的な悪い性格を殺すことだ。本当は生贄動物の首を刎ねることは、専心的に神に仕えるために、多神論を断ち切り、われわれ自身の中にある動物的な悪い性格を殺すことだ。

 「生贄を捧げる中に、それを捧げる人と家族にとって極めて重要な教育的価値がある。そのため、生贄を捧げる人は単に人にお金を渡したり羊や牛などを買うよう命じるだけでは充分ではない」と同師は語った。

 同師は、生贄を捧げようとする人は、妻と子供たちを連れて動物を売っているところへ自分自身で行き、生贄にするのに最良の動物を選ぶよう提案している。ましてや、その生贄を捧げる行事は一年に一度きりだ。同師も生贄を捧げる人は、自分でその動物たちの首を刎ねらることが出来ないにしても、その場に立ち会うよう提案している。

 「首を刎ねられ犠牲となる動物の血をその手で浴びるのは祝福だ。なぜならその人物は肉をよりわけ、貧しい人たちに分配するのに参加しているからだ。本当は生贄を供する中に価値の変換が見つかるのだ。ムハンマドも動物の首を刎ね、その肉を貧しい人たちに分けたのだ」と同師は語った。


訳注
1) アダム: 神が一番最初に創った人間とされる男で、人類最初の預言者とされる。

2) イブラヒム: ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教と連なる一神教の祖とされる預言者。キリスト教ではアブラハムと呼ばれている。

3) ハビルとカビル: キリスト教ではアベルとカイン。アダムとイヴから生まれた兄弟。アベルは牧畜に携わり羊を神に捧げ、カインは農耕者で農産物を神に捧げたが神はアベルの捧げ者だけを受け取った。

4) シティ・ハジャール: 旧約聖書でいうところの、サラの女奴隷でありイシュマエルの母であるハガルのこと。

5) 神が預言者イブラヒムの信仰心を試そうとして、イブラヒムに自分の子を差し出すように命じた。イブラヒムは、生け贄を捧げる山に息子を連れてゆき、まさにその首を刎ねようとしたときに、神から信仰心を認められ、代わりに羊を生け贄として捧げるよう命じられた。この逸話は、旧約聖書の創世記においては、アブラハムが差し出したのはサラとの子イサク(イスハーク)であると書かれているが、イスラームにおいては、イサクではなくハガル(シティ・ハジャール)との子イシュマエル(イスマイル)であったと解釈されている。そのため、当記事で言及されている物語とは、ハガルとイシュマイルによるベエル・シェバの荒野でのさまよいや天使との対面のことを指しているのではなく、イブラヒムが息子を捧げようとした逸話を指しているので注意されたい。

6) ユスフ・マンスール師: インドネシアのTV等で活躍している人気のある伝道師

7) ウィサタ・ハティ: ユスフ・マンスール師が主宰する伝道集会

(翻訳者:山本肇)
(記事ID:so0911261hy)

原題:Membumikan Semangat Kurban
http://republika.co.id/koran/52/91982/Membumikan_Semangat_Kurban



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