インドネシア語新聞翻訳
2009年12月30日(水)
【デティック紙】


「キヤイ」「知識人」「政治家」「民族の師」しばしば「議論の標的」となったグス・ドゥル

【ジャカルタ】
 しばしばグス・ドゥル(訳注1)と呼ばれたアブドゥルラフマン・ワヒドは、多くのニックネームを持つ人物として知られている。彼はキヤイ(訳注2)であり、ナフダトゥル・ウラマ(訳注3)の重鎮でもあった。また政治家でもあった。彼はまた、しばしば民族の師とも言われた。しかし、グス・ドゥルはよく議論の的となる人物としても知られていた。

 グス・ドゥルは1940年9月7日東ジャワ州のジョンバンで生まれた。シンタ・ヌリアーと結婚し、4人の娘をもうけた。娘の一人がシティ・ザンヌバ・アリファー・カフソー、別名イェニーであり、政治家としてグス・ドゥルの後を継いだ。

 インドネシアにおいて、グス・ドゥルの人となりや言動は以前から報道を賑わしていた。彼は1984年にインドネシアで最大のイスラーム組織であるナフダトゥル・ウラマの総会にて本部役員会議長に選ばれた。[任期終了の]1989年の総会において議長(1989-1994)に再選され、1994年の総会で議長(1994-1999)に三選された。

 1991年にグス・ドゥルの議論の的になりやすい性格が表に出たことがあった。彼はB.J.ハビビ(訳注4)が率いるインドネシア・イスラーム教徒知識人協会(ICMI)(訳注5)に参加するのを拒んだ。[時の大統領]スハルトがこの組織の後ろ盾だった。ヌルコリス・マジド、別名チャク・ヌル(訳注6)や、ムハマディア(訳注7)のアミン・ライスなどの著名なイスラーム知識人たちがこの組織で活躍していた。もっともアミン・ライスはその後指導部との意見の相違によりICMIの専門家部会から身を引いていた。

 何人かの人物がグス・ドゥルに参加を呼びかけたが、彼はICMIが派閥主義を支持し、スハルトの立場の強化を図るものと考えていたため、断った。彼はその年にさまざまな宗教界および一般社会出身の45人の知識人からなる民主化フォーラムを立ち上げ、ICMIに対抗した。

 その後、グス・ドゥルの動きはますます論議を呼ぶものとなった。彼は選挙キャンペーンのため[スハルトの長女である]シティ・ハルディヤンティ・ルクマナ、別名トゥトゥットと手を組んだこともあり、またトゥトゥットを大統領候補として支持したこともあった。

 スハルトが大統領の座から滑り落ちたあと、政治の世界におけるグス・ドゥルの経歴はますます輝かしいものになった。民族覚醒党(PKB)を設立し、2001年の国民協議会臨時総会でB.J.ハビビに代わって大統領に選出された。グス・ドゥルは1999年〜2004年メガワティと正副大統領としてペアを組んだ。

 しかし、その任期半ばにしてグス・ドゥルは大統領の座を降りなければならなくなった。彼の大統領としての政策が論議の的となり、2001年[大統領の政治責任を求める]国民協議会の臨時総会が開催されることになった。そして、2001年7月23日、グス・ドゥルは国民協議会によって大統領を解任され、その座はメガワティ・スカルノ・プトゥリにとって代わられた。

 大統領の任期中、彼は重要な政策を決めたが、その一部は論議を呼ぶものだった。2001年1月、彼は中国正月を選択的休日とした。この措置には中国文字使用禁止の撤廃も伴っていた。

 2001年1月27日には大学学長との会合において、グス・ドゥルはインドネシアが無政府主義に陥る可能性について語った。そして、そのようなことがおきた場合には国民議会を解散することを提案した。そこで反グス・ドゥル運動が起きた。同年2月1日、グス・ドゥルに対して警告書を出すために国民議会が開かれた。この警告書にはグス・ドゥルの退陣を可能にする国民協議会の臨時総会を開催することが盛り込まれていた。

 この脅しに対してグス・ドゥルの支持者は反発した。例えば、〔東ジャワ州〕パスルアンのグス・ドゥル支持者はグス・ドゥルに対する変わらぬ支持を表明し、4月にはグス・ドゥルを生涯大統領として支持する用意がある旨を公表した。

 3月、グス・ドゥルは内閣改造によって敵対者に報復を試みた。ユスリル・イフザ・マヘンドラ法務・人権大臣は、グス・ドゥルに対する退任要請を公表していたため、内閣からはずされた。ヌルマフムディ・イスマイル林業大臣は、大統領と意見を異にし、政策決定に反対し、正義党をコントロールできていないとの理由で解任された。正義党はその当時、多くの党員がグス・ドゥルの退任を要求する行動に参加していた。

 ますます急を告げる政治状況にグス・ドゥルは捨て鉢になりはじめた。彼はスシロ・バンバン・ユドヨノ政治・治安担当調整大臣に非常事態を宣言するよう要請した。しかし、ユドヨノはこの要請を断った。そこでグス・ドゥルは2001年7月1日の内閣改造でユドヨノを他の4人の閣僚とともに解任した。

 結局、7月20日に〔国民協議会議長である〕アミン・ライスが[8月1日に予定されていた大統領を弾劾する]国民協議会の臨時総会を7月23日に繰り上げることを宣言した。[グス・ドゥルと距離をおいていた]国軍は4万人の兵をジャカルタに集め、装甲車を大統領宮殿の方向に向けて配置し、力を誇示した。そこでグス・ドゥルは(1)国民協議会/国民議会の解散(2)総選挙を早め1年以内に実施し主権を国民の手に戻す(選挙によって国民の判断を仰ぐという意味 訳者注)(3)国民協議会臨時総会に対する抵抗としてのゴルカル党凍結、という主旨の大統領布告の施行を発表した。しかし、この布告は支持を得られなかった。そして、7月23日、国民協議会は正式にグス・ドゥルを解任した。

 退任後もグス・ドゥルは民族覚醒党(PKB)の顧問会議議長として一貫して政治に携わってきた。しかし、その後PKBは分裂し、その分裂は2009年の総選挙間際まで続いた。結局、ムハイミン・イスカンダール率いるPKBが正式のPKBであると裁判所で決められ、グス・ドゥル派は敗れた。

 元大統領という立場になってもグス・ドゥルはメガワティ大統領やユドヨノ大統領と意見を異にするなど、議論の的となるような発言を続けた。彼はまた真の政治家になることを期待されてしばしば民族の父ないし師と呼ばれた。民主化を支援する活動家の間では、グス・ドゥルは民主主義および多元論者(訳注8)として知られた。草の根グループの間では後見人と見なされた。

 学歴としては、グス・ドゥルはエジプトのカイロ・アル・アズハール大学に学んだことがある。彼は1963年11月にエジプトに渡った。しかし、アル・アズハールでの受講は順調ではなかった。1966年彼はバクダッッド大学に移り、1970年ここでの学業を終えた。彼はまたオランダのライデン大学で学んだこともあり、1971年にインドネシアに戻る前にオランダとフランスを訪れている。

 69歳でグス・ドゥルは現世に別れを告げた。彼はチプト・マングンクスモ病院に1週間入院後、2009年12月30日(水)18時45分(西部インドネシア時間)に逝去した。民主主義を掲げたキヤイであり、知識人であり、民族の父であり、また政治家でもあったこの人物も今はもういない。安らかに、グス。

経歴
ナフダトゥル・ウラマ議長(1984-1999)
民主化フォーラム議長(1990)
世界宗教および平和会議議長(1994)
国民協議会議員(1999)
インドネシア共和国大統領(1999/10/20-2001/7/23)

表彰
1991 エジピト政府からイスラーム伝道に関する表彰
1993 ラモン・マグサイサイ賞、共同体指導者の分野では威信のある賞
2004 スマランの中国系の人たちによって中国人の父に任じられる。
2006 独立報道連盟(AJI)から報道自由の闘士として2006年のタスリフ賞を受賞

名誉博士
以下の大学から名誉博士号を授与される
タイ、バンコクのタマサット大学法学博士(2000)
タイ、バンコクのアジア工科大学(2000)
フランス、パリのソルボンヌ大学法学・政治学、経済・経営学、人文科学博士(2000)
タイ、バンコクのチュラロンコーン大学(2000)
オランダのトゥエンテ大学(2000)
インドのジャワハルラル・ネルー大学(2000)
日本の創価大学(2002)
韓国の鮮文大学(2003)
韓国の建国大学法学博士(2003)
イスラエルのネタニヤ学院大学人間学博士(2003)


訳注
1) グス・ドゥル: グスは「キヤイの息子」の意味(キヤイの意味は訳注2を参照)。ドゥルは彼の名前であるアブドゥルラフマンのドゥルに由来する。
2) キヤイ: イスラーム教に関し深い学識を持つ長老格の人に対する尊称
3) ナフダトゥル・ウラマ: 伝統主義的イスラーム組織
4) B.J.ハビビ: スハルト元大統領の側近でスハルト政権末期の副大統領。スハルト失脚後大統領に昇格。
5) インドネシア・イスラーム知識人協会: ハビビを会長として1990年に設立された。政治・経済の分野で活躍するイスラーム教徒知識人を集めて結成されたが、スハルトのイスラーム接近策の一つと見られていた。
6) ヌルコリス・マジド: インドネシアの民主化を進めたイスラーム学者。清廉潔白で知られておりインドネシアの良心といわれたが2005年に亡くなった。
7) ムハマディア: 改革派イスラーム団体
8) 多元論: 国内に人種・宗教などを異にする集団が存在することを容認し共存を図る考え

(翻訳者:山本肇)
(記事ID:po0912305hy)

原題:Gus Dur, Kiai, Cendekiawan, Politisi, dan Guru Bangsa yang Kontroversial
http://www.detiknews.com/read/2009/12/30/214028/1268930/10/gus-dur-kiai-cendekiawan-politisi-dan-guru-bangsa-yang-kontroversial



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