インドネシア語新聞翻訳
2008年1月30日(水)


スハルト、クジャウェンからイスラームへ

 「私はムハマディア(注1)の徒である」。これは、スハルトがまだ大統領職にあったとき、ムハマディアの会員のさまざまな集まりで、しばしば彼の口から聞かれた言葉だ。

 この言葉を聞いて、非常に喜んだムハマディアの会員たちがいたことはもちろんだ。もっとも、同じ言葉がスカルノ元大統領と彼の娘メガワティからも、しばしば発せられていたが。スハルトは自分の「サントリ(注2)らしさ」を示すため、礼拝の時間を知らせる太鼓(注3)を上手に叩けることを披露しさえした。

 「以前、私は毎晩コーランを読誦し、礼拝所で寝ていた」スハルトは、OG・ルーデルが著した彼の伝記『村の子』の中で、子供の頃をこう述懐している。

 しかし、スハルトがクジャウェン(ジャワのイスラーム: 注4)の信徒であることは、公然の秘密である。このタイプのイスラームは、イスラーム法に基づく宗教儀礼をそれほど重視しない。

 1960年代から1970年代の半ばに大統領府の記者を勤めたアルウィ・シャハブ氏は、スハルトのクジャウェン傾向は、明確だったと話している。さまざまな場所で演説をするとき、スハルトは常にジャワ哲学の知識を引用した。例えば、寛容と共感、目上の人をたてよ、指導者は範を垂れよ、感ずるだけでなく共感せよ、などだ。v  アルウィ氏はさらに、スハルトがその頃ほとんど礼拝をしなかったと語っている。地方訪問の時、彼はスハルトが礼拝したのを一度も見たことがなかった。外交上の儀典にも礼拝の「儀式」は、明記されていなかった。「礼拝の習慣を持つ外国からの使節がなかったからで、そのため私もしばしば礼拝をしなかった」と彼は語っている。

 「礼拝の習慣があるイスラーム国からの国賓があるときは、スハルトも礼拝するのを目にした。彼も一緒に礼拝していた」とアルウィ氏。もっとも、スハルトは大統領に就任した最初から演説を始めるとき「アッサラーム・アライクム(注5)」と流暢に唱えていた。「当時この言葉は一般的ではなく、スハルトがこれを広めたのだ。スカルノとは対照的だ。スカルノはしばしばコーランを引用したが、この言葉を口にすることはほとんどなかった」とアルウィ氏は述べた。

 クジャウェンに対するスハルトの傾倒は、民間信仰(注6)を宗教の中に入れて欲しいという請願が出されたときに、見ることができた。民間信仰の導師でスハルトのスタッフでもあったザヒド・フセイン氏が進めていたこの請願は、イスラーム教徒から強い反対にあった。反対者には、国会に席をおいている人物、さまざまな社会団体のイスラーム教指導者もいた。

 1997年に国会で、民間信仰は宗教の部類ではなく文化の表現であると定められ、反対陣営は崩れた。ザヒド氏は毎週インドネシア国営テレビに出演して「悟る」という言葉をスローガンとする民間信仰を紹介した。ザヒド氏がスハルトの引きでテレビ出演していることを誰もが知っていた。スハルトが若い頃、いかに熱心なクジャウェンの信奉者であったか、スマランのガラン川とクレオ川の合流地点にある碑がはっきり証拠を示している。その土地の住民はそれをスハルトの碑と呼んでいる。そこは以前スハルトがしばしば水行をした場所だという。

変化
 その後、スハルトの宗教に対する姿勢を変えた原因は何か。ひとつの説として、詩人のタウフィック・イスマイル氏の言葉を引用しよう。彼はジョグジャカルタのムハマディヤ中学校のスハルトの学友たちがその役割を演じたと話している。ある同窓会のとき、スハルトの友達が「スハルトさん、君はイスラーム教徒なのになぜそのようなことをしたのか。あの君の部下(ベニー・ムルダニ氏=タンジュン・プリオク事件の注参照・編集部注)をコントロールしなければ。あれではだめだ」と言ったのだ。

 この抗議は、スハルトの他の学友たちからも支持された。反論する機会もあったが、スハルトは耳を傾け熟考した。「それがスハルトを変えたひとつの原因だと私は考える。彼の学友の抗議が、彼に影響を与えたのだ」とタウフィック氏は語る。

 その話の情報源は誰か。タウフィック氏はプルタミナ(注7)の専門職の人だと言う。「私の情報源は確かな人物でまだ存命中だ。彼はこの話をタンジュン・プリオク事件(注8)の1年後、1985年の断食明けの大祭後の同窓会に出席したスハルトの学友たちから聞いたとのことだ。」

1980年代
 政治評論家ファチリー・アリ氏は、スハルトのイスラームに対する関心は、1980年代の終わりに始まったと語っている。「私が記憶しているかぎりだが、1989年頃、テレビで子供の日の番組があった。そこでスハルトは全く突然、子供たちにコーランの序章について尋ねたのだ。私は驚いた。スハルトが初めてイスラームに対する関心を公然と示したからだ」とファチリー氏。

 人類学の見地からすると、このスハルトの態度は、ジャワ人として普通のことだとファチリー氏は語る。「彼は年齢を感じ始めたのだと思う。ジャワ人は若いときには「ふらふらしている」が、50代に入ると内省を始め禁欲や断食、不眠などの行を始める。スーフィー派(注9)の言葉でいえば『隠遁』」に入ったのだ。」とファチリー氏は述べた。

 ファチリー氏は、ジョグジャカルタのバントゥルの一人の村長を例として、調査結果を述べた。当初、村長は宗教に対して関心がなかった。彼は会社の近くに祈祷所を建てたが、礼拝に行くより東屋でタバコをふかしているほうが多かった。「10年が経って私がそこに再び行ってみると、彼は完全に変わっていた。非常に熱心に祈祷所に通っていた」

 他の例として、故スジャトモコ氏(元国連大学学長)が挙げられるとファチリー氏は語った。彼は若いころ世俗主義者であった。しかし年をとってから大変宗教的になった。「さらに言うと、彼はムハマディア大学での講義中に亡くなったのだ」

 そして、スハルトの宗教的態度の変化は、後に1991年のメッカ巡礼を実施することで示された。サントリとアバンガンという伝統的な人類学上の二分法(注9)が常に当てはまるとは限らない。なぜなら、アバンガンがサントリに変わることもありうるのだから。



注1) ムハマディア: 改革派イスラーム団体の名
注2) サントリ: もともとはイスラーム寄宿塾の生徒を指す言葉だが、敬虔なイスラーム教徒という意味でも用いられる。
注3) 太鼓: イスラーム寺院では一日5回の礼拝の時間がくるとそれを知らせるために太鼓を叩く。
注4) クジャウェン: 「ジャワ的なもの」を意味する語で、一般的に敬虔なイスラーム教徒に対し、イスラーム教徒を自称しながら、ジャワ的な風習や儀礼を尊重する信仰のありかたを言う。
注5) アッサラーム・アライクム: 「あなたの上に平和がありますように」という意味をもつアラビア語。イスラーム教徒が、演説の最初と最後に述べる常套句である。
注6) 民間信仰: 国に宗教として認められている6宗教(イスラーム、キリスト教、カトリック、仏教、ヒンドゥー教、儒教)以外の宗教。
注7) プルタミナ: 国営の石油・天然ガス資源の開発会社
注8) タンジュン・プリオク事件: 1984年9月タンジュン・プリオクでイスラーム教徒と警察が衝突し、イスラーム教徒側に24数人の犠牲者が出た。当時警察はインドネシア国軍の機構内にあり、ベニー・ムルダニがそのときの国軍司令官であった。
注9) スーフィー派: イスラームの一派。現世的欲望に対する執着を捨て禁欲的に生き、神との神秘的合一を求める。
注10) サントリとアバンガンの二分法: アメリカの人類学者ギアツがジャワ人を熱心なイスラーム信者(サントリ)とあまり熱心でない信者(アバンガン)に二分したことを指す。


(翻訳者:山本肇)

(記事ID:po0801301hy)

原題:Soeharto, dari Kejawen ke islam
http://www.republika.co.id/Koran_detail.asp?id=321650&kat_id=3



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