2007年11月10日(土)

商店街に取り囲まれた古いモスク

 アル・マクムル・モスクは、中央ジャカルタ市、タナ・アバン地区、キヤイ・ハジ・マス・マンシュル通りに位置し、ジャカルタに今も残る十数軒の古いモスクの一つだ。このモスクは、1704年にキヤイ・ハジ・ムハンマド・アシュロ主導のもと、イスラーム・マタラム王国(注1)貴族の末裔たちによって、建設された。

   建立から3世紀以上経た同モスクは、ジャカルタで最も大きい商店街の一つであるタナ・アバン・ショッピングセンターの喧騒に取り囲まれている。周辺の大部分がビジネス活動の中心地となっているため、このモスクのまわりに住宅はない。

 ジャカルタで非常に有名なそのモスクの歴史は、スルタン・アグン(注2)の2度に渡る、バタヴィア(注3)への攻撃時(1618年と1619年)に始まる。戦いには破れたが、マタラム王国の貴族たちは、巧みに伝道者の役割を果たした。彼らの中には、後にジャカルタに定住し、宗教家となった者もおり、彼らが建てたモスクは、首都ジャカルタの数ヶ所で今も見ることができる。

 当初の頃を描いた絵に見られるように、同モスクは、初めは12×8mの大きさの礼拝所にすぎなかったが、1915年にハビブ・アブ・バカル・アルハブシ氏が、モスクを拡張した。彼は同じ通りにあるダアルル・アイタム孤児院の創設者でもある。同氏が土地を寄進した際、モスクの広さは1,142m2となった。1932年にサリム・ビン・ムハンマド・タリブ氏の寄進のもとにモスクは再び拡張され、さらに1953年には2,175m2に拡張された。

 残念なことに、この非常に歴史のあるモスクの前は、整然としていない。モスクの前には露天商たちが集まり、通りにまであふれ出ている。さらに、タナ・アバンのショッピングセンターへ向かう買い物客が、車やバイクを駐車する場所としてここを利用している。

 道路整備の結果、同モスクは現在、前面のベランダを含む主要な建物だけを残している。そこには、ジャスミンのがくの形の細長い柱のある3つの門があり、屋根の縁に沿った部分には5つの通風孔があり、建物の左右には窓とテラス付きの灯台風の小さいドーム付きの塔が2つある。露天商たちは、モスクの前で、勝手に商売をすることがある。その結果、商店街やビジネス中心街に囲まれ、タナ・アバンでお金を稼ぐ小売商もさらに増え、同モスクはこのように特異な状況になった。

 現在はタナ・アバン高層集合住宅地になっているが、寄進された墓地がまだあったときには、アラブの子孫の住民が亡くなり埋葬される前、このモスクで遺体に祈りが捧げられた。パサール・タナ・アバンの商人や買い物客たちは、この古いモスクを特にズフール(注4)やアシャール(注5)時の礼拝所として利用している。

 タナ・アバンのビジネスの発展で、キヤイ・ハジ・マス・マンシュル通りとクボン・カチャン1〜4通りの周辺地域は、現在役割が変わってしまった。住宅の大部分が、商店街、運送業者の活動地域、倉庫となった。パサール・タナ・アバン・プロジェクト地域周辺の地価が、ジャカルタで最も地価の高い地域の一つとなっているのも当然のことだ。メトロ・タナ・アバン(注6)の陸橋の建設時も、取り壊された住宅(の住民)は、1m2あたり1千万ルピア(約12万5千円)の立退き料を受け取った。数人の住民によると、現在彼らの所有している土地の値段は、1m2あたり2千万ルピア(約25万円)だという。

【Alwi Shahab記者】


注1) イスラーム・マタラム王国: 16世紀にジャワ中部に成立したイスラーム王国。8-9世紀に栄えた古マタラム王国(ヒンドゥー・マタラム王国)に対して、新マタラム王国とも呼ばれる
注2) スルタン・アグン: スルタンは「イスラーム教国の君主」、アグンは「偉大な」という意味。ここでのスルタン・アグンは、マタラム王家3代目の王(在位1613-1646)
注3) バタヴィア: オランダ植民地時代のジャカルタの名称
注4) ズフール: 1日5回のイスラームの礼拝のうち、正午の礼拝(2回目)
注5) アシャール: 1日5回のイスラームの礼拝のうち、午後の礼拝(3回目)
注6) メトロ・タナ・アバン: モール名



(翻訳者:川名桂子)
(記事ID:li0711101kk)

原題:Masjid Tua Dikepung Pusat Perbelanjaan
http://www.republika.co.id/Koran_detail.asp?id=313336



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