[国際ワークショップ] [公開セミナー]

■報告要旨 総合ワークショップ


[第五回 総合ワークショップ 2009年5月]



フィリピン・ムスリムの法的権利の承認と実現をめぐる諸問題


森 正美(京都文教大学文化人類学科)

 フィリピン社会においてマイノリティであるムスリムにとって,法的権利の承認とその実現には,様々な困難が伴う.本報告では,フィリピン・ムスリムにとっての法的資源である慣習法,イスラーム法,国家法の概要を概観した上で,人類学的フィールドワークに基づく事例研究を織り交ぜながら,とくに@シャリーア裁判所をめぐる諸問題,Aムスリムミンダナオ自治地域(Autonomous Region of Muslim Mindanao: ARMM)圏外の人々にとっての市民登録などの問題,およびB現在の和平交渉の進展(停滞)と法的権利の問題の関連について報告した.

 シャリーア裁判所制度については,まず設置数が予定数(51箇所)の半数程度しかないという問題がある.さらに,大統領府ムスリム関係省が協力し最高裁判所によるシャリーア司法試験が2年に一度マニラで実施されているが,ミンダナオ島などの地方出身者にとっては受験の負担が大きいことが問題となっている.また,現在フィリピンでは多くのムスリムがARMM外の地域に居住しているが,シャリーア裁判所は設置されておらず,様々な不便が生じていることを制度上の問題として指摘した.その主たる問題点は,婚姻などの市民登録上の不便とシャリーア裁判所が近隣に存在しないという司法へのアクセスの欠如である点などを事例研究に基づき整理した.

 ついでスルー地区シャリーア裁判所における離婚訴訟の事例研究を紹介し,暴力をふるった夫への刑罰規定の不在,シャリーア裁判所と一般裁判所の管轄区分による課題,シャリーアカウンセラー制度がないことなど,シャリーア裁判官によって指摘された制度上の問題点を紹介した.また報告者のパラワン島での調査に基づきムスリムと非ムスリムの通婚事例において,どのような法的実践がおこなわれており,それらの実践と法制度の関係性がいかなるものであると考えられるのかについての分析も提示した.

  最後に,現在停滞しているムスリムと政府の和平交渉に関連して,「モロの人々の先祖地(The Bangsamoro ancestral domain )」問題が,ムスリムの先祖地や資源などに対する権利やその他の法的権利をどのように認めるかという「バンサモロ司法体(Bangsamoro Juridical Entity (BJE))」のあり方とその合憲性の問題をも含み合意を得られず,交渉が頓挫し解決の糸口がつかめない状況について考察した.

 

[第四回 総合ワークショップ 2008年4月]

黒田景子写真

南部タイ・イスラーム分離主義運動組織 とNet Warの可能性


黒田 景子 (鹿児島大学法文学部)

 
1. 近年の南部タイをめぐる状況
  近年タイの深南部パタニ県を中心とする地域においてはテロが頻発し仏教徒が多数派をしめるタイの中の少数派としてのムスリムを巡る状況について注目が集まっている。

 いわゆる南タイについてのごく一般的なイメージは、国外からは自然景観を売り物としたリゾート地としての観光地の姿であり、タイ政府にとっても観光と開発の問題がもっとも重視されてきた。また、タイ国内のおおかたの国民にとっては、南部はムスリム人口が多く、特に、パタニ、ヤラー、ナラティワート、とソンクラーの一部を含む深南部はマレー語を話すマレー系ムスリム(ケーク)の世界であり、仏教徒が大半を占めるタイ国の中ではやや異質な世界として認識されている。

2. イスラーム分離主義運動の流れ
 歴史的にみれば、これらの深南部地域はアユタヤ時代以降タイからは朝貢国として認識されていたイスラーム国パタニの領域に当たる。パタニはマレー半島で最も早くイスラーム化しスルタンによる支配が確立していた重要な港市国家でもあり、東西交易の拠点であるだけでなく、18世紀には数多くのウラマーを輩出し、小メッカともよばれた東南アジアのイスラーム学の拠点でもあった。

 18世紀末にタイのラタナコーシン朝はパタニに対する支配を強化し,その後、タイ国自身の近代化の中で、タイ中央への権力集中と仏教を軸とした国家統合がすすみ、その中で、港市パタニのもつ相対的な地位は低下した。
    
 20世紀初頭にはスルタン制度が廃止され、中央から仏教徒の知事や官吏が派遣されるようになった。言葉とムスリムの社会的慣習を理解しないタイ人官吏に対する反発、また、ムスリムによる自治を唱えたカリスマ的ウラマーハジ・スロンの逮捕失踪事件などからこの地域の自治独立を目指すイスラーム分離主義運動組織が多数誕生した。タイ政府の対応は武力による鎮圧が主であり、分離主義運動組織の活動は1950年代から1970年代にかけてすでに爆弾テロを伴う過激なものに発展した。国境を接し、歴史的文化的にも共有するものが多いマレーシアの独立運動やイスラーム原理主義運動の流行もその活動に大きく影響した。
    
 1980年代から90年代にかけて、タイ政府によるタイ語教育やムスリムへの開発援助が深南部のムスリムの生活を多少なりとも改善したことで一時的に過激な活動は低下した。タイ軍部は2002年に南部の分離運動組織の活動の消滅をも宣言した。しかし、南部タイのムスリムをめぐる根本的な問題は解決されず、あいまいなまま,なし崩しでムスリムのタイへの同化を待つ姿勢であったと言える。 

3. 近年の分離主義運動とインターネットの利用
 しかし、2004年には過激なテロが再燃した。その背景には世界的なイスラーム主義の復興の影響や南部の経済開発が地元のムスリム社会の意向を軽視する姿勢をもつことへの不満などがある。姿を消した一部の分離主義組織が90年代に中東で武装訓練をうけていたことも分かっている。 

 また、2000年以降、東南アジア各国で爆発的に増加したインターネットの大衆利用によって、南タイムスリムを巡る情報が拡散するようになった。すなわち、2004年以降の闘争の特徴は、インターネット等のメディアの利用により、この地域についてのさまざまな言説がタイ語、マレー語、アラビア語、英語などの多言語環境によってタイ国内だけではなく近隣諸国、中東やアメリカに至るムスリムのネットワークによって、瞬時に共有されるようになったことである。これまで、情報流通の制限や遮断によって、限られたローカルな問題にとどまっていた南タイムスリムの問題は、タイ国外にのがれた分離主義組織の運営するサイトによる「パタニ国家」の声明やニュースの提供により、世界的なムスリムの問題として耳目を集めることにもなった。サイトを海外におく組織の活動については、タイ政府だけでは対蹠することができない段階に至っている。これらの「テロ組織」はアメリカ等による国際テロ組織への監視対象ともなっており、サイトの削除、消滅と移転、再生を繰り返し、一種のNet Warの様相をも呈している。

 この中で、タイ政府は方針を転換し、ムスリム地域にはじめて地元のマレー語教育を認めるとともに、政府の意志伝達方法を従来の行政レベルとは別に、モスクとそのネットワークを使い、インターネットを使った深南部ムスリム対策に乗り出している。とはいえ、仏教徒の教師や学校、役所などをねらった爆破や銃撃事件は沈静せず、タイ中央の政変の影響も相まって2008年現在もその行方は見えない。



福島康博写真

マレーシアのイスラム金融の現状


福島 康博 (桜美林大学国際学研究所)



 本発表において報告者は、「マレーシアのイスラム金融の現状」と題し、マレーシアのイスラム金融市場の規模や歴史、制度を明らかにするとともに、金融のイスラム化がどのようなものであるか、またイスラム金融がマレーシア経済に対してどのような影響を与えているかについて報告を行った。

 イスラム金融は、(1)リバー(Riba)は全ての取引で禁じられる、(2)業務はハラール(Halal)を土台に行われる、(3)取引から不確実性(Gharar)が排除される、(4)ザカート(Zakat)がイスラム金融機関によって負担される、(5)シャリーア会議(Shari’ah Board)に従いイスラムの原理に一致する、と特徴づけることができる。このようなイスラム金融の持つ特徴は、シャリーア・コンプライアンス(Shari’ah Compliance)、すなわちイスラム法であるシャリーアへの準拠に帰結するものであり、シャリーア・コンプライアンスに基づき金融の諸分野においてイスラム化が行われている。具体的には、イスラム金融機関は、シャリーアに則った商品・サービスを提供しなければならず、顧客もシャリーアに反する事業では融資を受けることができない。また、イスラム金融市場においては、法律・会計制度にイスラムの思想が反映され、監督官庁は金融面だけでなくイスラムの視点からの監督を行うことになる。

 マレーシアにおけるイスラム銀行市場においては、2008年4月現在、14のイスラム銀行業専業銀行と、16の有利子銀行・金融機関が市場に参入している。こうした銀行・金融機関によって支えられている市場の規模は、2007年12月現在で、総資産が1,596億リンギ、預金残高が1,252億リンギ、融資残高が919億リンギとなっており、同時期の有利子銀行市場に対する比率が、それぞれ13.54%、14.70%、16.26%となっている。マレーシア政府と中央銀行は、2010年までにこの数値を20%まで高めることを目標としている。

 このような現状にあるイスラム銀行市場であるが、度重なる制度改革を経て現在に至っている。1983年にイスラム銀行業法(Islamic Banking Act)が施行されてより、マレーシアのイスラム金融の歴史が始まったが、そのきっかけとしては、1970年代から80年代にかけてのマレーシア国内におけるイスラム復興の機運の高まりや、OIC(イスラム諸国会議機構)に加盟する各国で相次いでイスラム金融が設立された点を指摘できる。そして、1981年に樹立したマハティール政権の下、イスラム金融市場が設立された。1980年代においては、イスラム銀行市場は1社独占状態であったが、1993年にイスラム銀行業スキーム(Sekim Perbankan Islam)の導入によって有利子銀行も同市場に参入することが可能になった。さらに2001年より、中央銀行が策定した『金融部門マスタープラン』に基づき、有利子銀行内のイスラム銀行業部門の分社化や、外資系イスラム銀行への市場開放がなされた結果、現在のような市場拡大が促進されている。

 イスラム金融市場の制度的枠組みとして、法律と会計基準を指摘することができる。先述のイスラム銀行業法においては、金融面からの各種の規定はあるものの、イスラム銀行業者の業務の根底をなすイスラムの規定が存在していない。他方、イスラム金融機関を対象とする会計基準であるFRSi-1(Financial Reporting Standards i-1)には、各条文においてイスラムの思想が反映されていることが確認できる。また、法律・会計制度の運用者でありイスラム金融市場の監督官庁である中央銀行は、行内にシャリーア助言委員会(Shari’ah Advisory Council)を設けている。この委員会がイスラム金融行政の中心的役割を担っている。とりわけ、金融商品・サービスの定義づけを行っており、これに基づいて各イスラム金融機関が商品開発を行っている。

 イスラム銀行の預金者の構成においては、有利子銀行に比べて政府と企業の比率が高く、個人の預金者の比率が低い。他方、借り手においては、家庭部門への融資が60%を超え、また使用目的においても自動車購入、居住用不動産購入、個人使用といった個人・家庭向けが60%を超えている(有利子銀行では45%程度)。こうした状況を鑑みると、マレーシアのイスラム銀行は、政府・企業の余剰資金を個人の自動車・住宅購入に振り分ける機能をはたしてる、という姿が浮かんでくる。

 このように、シャリーア・コンプライアンスに基づき金融分野のイスラム化を土台としたマレーシアのイスラム金融は、政府主導の下、四半世紀にわたって市場規模を拡大させている。これは、ムスリムだけでなくノン・ムスリムも巻き込みながらの発展といってよい。しかしながら、市場原理を導入することによって規模の拡大を目指す政府の方針がある一方で、イスラム金融業者が増え過当競争が起きようとしている。今後のイスラム金融市場は、市場やイスラムのあり方や質に変化が生じる可能性もありうるだろう。



[第三回 総合ワークショップ 2007年12月]



東南アジアを中心とした現代ハラール産業の展開とその意味―マレーシアとタイを中心に―

富沢寿勇 (静岡県立大学国際関係学部)

 

 イスラームでは、神によってハラーム(「禁じられた」)とされる飲食物が忌避され、ハラール(「許された」)かつタイイブ (「善い」)とされるものの摂取が規範化されているのは周知の事実だが、ハラール食品が国際貿易の語彙として注目されるようになったのは比較的最近のことといわれる。しかも、現代のいわゆるハラール産業は、飲食物のみならず、医薬・化粧品や衣料品から流通・輸送、貯蔵、金融・保険、観光などのサービス産業にまで及ぶ広範な領域に急速に拡大しつつあり、東南アジアや欧米圏を中心に熱気がみなぎって展開しはじめており、一説では年間2兆1000億米ドル市場とも見込まれている。

 ハラール産業は、イスラーム世界で広く見られるイスラーム化の延長線上の現象ともとらえることができ、そこでは「ハラール価値の連鎖系」という考え方が強調される。すなわち、生産・流通・消費にわたる統合されたプロセスに一貫してハラール性が要求され、この全過程における浄・不浄の要素へのムスリム消費者の関心が惹起される。要するに個人レベルではライフスタイルとしてのハラールが追求され、全体としては世俗的市場経済の代替システムとしての「ハラール経済」「ハラール市場経済」へのパラダイム変換がめざされる。その意味で、東南アジア各地で整備されつつあるハラール認証制度は、商品のハラール性という「質」的保証を与えるのみならず、ハラール経済を「量」的に把握し統御するためにも重要な指標と手段になると考えられる。

 マレーシアにおけるハラール産業は、1990年代以降、国家戦略的に促進され、アブドゥラー政権の「イスラーム・ハドハリ」(文明的イスラーム)政策とも呼応している。マレーシアをハラール取引の国際的なハブにする企図で各地にハラール工業団地がつくられ、マレーシア・イスラーム開発局(JAKIM)を中心とした認証制度が整備されている。 ハラール食品の一般指針(MS 1500: 2004)は、GMP(適正製造規範)やGHP(適正衛生規範)などの国際基準とハラール基準を組み合わせたものである。ハラール産業の推進役として、『ハラール・ジャーナル』誌が2004年8月に創刊、2005年以降隔月で刊行されている。またマレーシア国際ハラール見本市(MIHAS)が2004年以降、世界ハラール・フォーラム(WHF)が2006年以降開催されている。さらに最近マレーシア政府はハラール産業開発公社(HDC)を設立し、また非営利、非政府組織の国際ハラール統合連盟(IHI Alliance)も結成された。後者は、国際的なハラール産業の統合と同関係者間の情報交換の媒体となることをめざすが、その背景には各国、地域で乱立するハラール認証機関や認証基準の統合をはかる必要性があることが考えられる。さらにハラール産業を通じたマレーシアと中東、アフリカとの連携関係もすでに構築されはじめている。

 一方、国際的な食品輸出国タイも、ハラール食品の認証制度を本格的に展開している。チュラロンコーン大学のウィナイ・ダーラン博士は2004年にハラール科学センター(HASCI)を設立し、GMP(適正製造規範)、HACCP(危害分析重要管理点)に「ハラール」基準を加えた三位一体の基準を開発したが、前二者の国際基準をイスラームの「タイイブ」(善きもの)と対応させて解釈し、全体が「ハラール」と「タイイブ」を体現したものとする。現在、これはHAL-Qシステムとして体系化されている。食品のハラール認証はタイ中央イスラーム委員会(CICOT)が行うが、鑑定依頼があれば、同センターが分析する。なお、IMT-GT(インドネシア・マレーシア・タイ成長の三角地帯)は、2002年からハラール食品ハブ構想を打ち出したが、タイ側はこのIMT-GTの活用を重視している印象が強い。またハラール食品産業を中心にしたタイと北アフリカ、パキスタン等との連携関係も展開しており、タイ南部では特にクラビ地域がハラール産業で注目され、中東からの観光客を対象とするハラール観光開発への期待もされている。

 総じて、世俗的市場経済主導のグローバル化とハラール意識の覚醒とは、互いに連動しながら展開しているように思われる。グローバル化のうねりの中で、イスラーム化の進行するムスリム消費者のハラール意識の高まりが一方であるが、他方、ハラール産業の担い手の大半は、非ムスリムといわれる。要するに、グローバル化の担い手である非ムスリムも含む人々によって生産されたハラール商品をムスリムが消費する構造があり、さらに健康重視や環境主義といった世俗的な理由で消費する性向のある非ムスリムをも、ハラール産業はその潜在的な消費者として期待している側面もある。このように現代ハラール産業は、グローバル化が推進する文化・価値観・嗜好・ライフスタイルの均質化に抵抗するという対抗グローバル化の側面をもつ一方で、それ自体グローバル化の一環として組み込まれて展開しているようにも見える、もう一つの側面がある。





ペゴン出版本の歴史にみるジャワのイスラーム受容


菅原 由美 (天理大学国際文化学部)



 19世紀後半以降、オランダ領東インドでは、巡礼者の増加や宗教学校(プサントレン)の増加により再イスラーム化がゆっくりと進行しつつあった。植民地当局は、東インド社会において極端なイスラーム化が進行しないように注意を払っていたが、宗教活動自体を妨害することはなかった。当地で広がったプサントレンでは、イスラーム学の教科書(キターブ/キタッブ)を用いて教育が行われていた。このキターブには、アラビア語のものだけでなく、アラビア文字綴りのマレー語、すなわちジャウィを用いたものが含まれていた。これらは、中東から輸入されていたが、次第に、その出版の中心地はシンガポールまたはボンベイに移っていった。そのため、19世紀後半以降、東南アジア島嶼部に輸出されるキターブの数は急増した。やがて、ジャウィ本のなかに、アラビア文字綴りのジャワ語やスンダ語(ペゴン)のテキストも少数ながらも、含まれるようになっていった。ジャワ語キターブは、スマランのソレ・ダラット(Soleh Darat/Muhammad Shalih ibn Umar Samarani)によって書かれたものが多く、内容はイスラームに関する基本書やマニュアル本が多く、これらはジャワ北海岸においてベストセラーとなった。プサントレンの生徒だけでなく、一般の人々にもそれらの教科書は容易に購入できるようになった。それは、イスラームの基礎知識を必要であると考える層の増加を表していた。キターブは、需要の安定とともない、20世紀初頭以降、次第にジャワ島北海岸のチレボンやスラバヤで、アラブ人によって出版されるようになっていった。その後もキターブ出版社はジャワ北海岸に広まり、プカロンガン、スマラン、バタヴィア(ジャカルタ)などがあとに続いた。そうしたジャウィで書かれたキターブは1950年代まで比較的広く読まれ、その後は、ローマ字綴りの出版物に取って代わられていった。

 しかし、その後もジャウィやペゴンで書かれたキターブはあまり注目を浴びることはなかったものの、出版され続けた。ジャワ語の場合は、1970−80年代、アラビア語テキストの完全翻訳版が数多く出版されるようになり、それまでマレー語版しかなかったテキストがジャワ語でも読まれるようになった。マレー語の場合は、出版されているキターブのタイトル数はあまり増えていないが、かつてマレー語で書かれたキターブが、版を変え、出版社を変えながらも、出版し続けられている。古いキターブは版権が存在しないため、同じ内容のキターブを多くの出版社が印刷を続けている。ジャウィ本の需要は、ローマ字が一般化した時代にも、消えることはなかったのである。今後は、ローマ字で書くことが当たり前であった1970年代以降も、ジャウィやペゴンであらたにキターブを執筆したウラマーたちと、その作品の傾向について、より詳細な分析をおこなう予定である。


[第二回 総合ワークショップ 2007年2月]



イスラーム化と中東世界とのつながり
―フィリピン・マラナオ社会の事例から


辰巳 頼子 (清泉女子大学文学部)



 フィリピンのムスリムの最大の言語集団の一つであるマラナオ社会では1980年代後半以降、エジプトやサウジ・アラビアの高等教育機関に留学したムスリムが帰国し、信仰の改革を訴えるとともに、その一部は地方政治に参加していった。本発表では帰国後アリムと呼ばれるようになったこれらの留学生が、どのように宗教的及び政治的権威を獲得したのか、この社会における貴族層であるダトゥ、そしてグロやカティブと呼ばれる共同体の宗教儀礼を担ってきた伝統的宗教知識人との関係から考える。

 マラナオ社会での中東への留学熱は、サウジ・アラビアに単独で学び帰国したマラナオが1950年代帰国したのちに高まった。その後、フィリピンの独立前後から国政に参加するようになった貴族層ダトゥ家系の政治家がエジプト政府と協定を結んだことにより中東留学が制度化された。留学する子弟の多くはダトゥ層に属さず、しかも兄弟のなかで体が弱い子などが選ばれ、マドラサの推薦と有力なダトゥを後援に中東諸国へ向かった。彼らの多くはカイロのアズハル大学へ留学し、70年代以降はサウジ・アラビアへの留学生も増加するなど留学先は多様化した。

 マラナオ社会における伝統的な宗教知識人は、グロやカリと呼ばれる。彼らはダトゥ支配層と密接な関係があり、タルティブやイグマと呼ばれるダトゥ支配の正統性を保証する法、神話と系譜の継承者であった。留学はグロやカリと異なる宗教的権威をうんだ。中東留学経験者は帰郷後アリムと呼ばれ、伝統的な宗教儀礼のあり方を批判するなど宗教と慣習の峻別を訴えた。またアリムのなかには政治家となり政界に進出し、伝統的に政治権力を保持してきたダトゥ支配層と距離を置くイスラーム改革主義政党を創設し、フェルディナンド・マルコス大統領の独裁崩壊後(1986年‐)の民主化機運とも重なり、地方政治において躍進を遂げた。

 こうして中東諸国で学んだアリムに対し、グロやカリなど伝統的な宗教知識人は儀礼やモスクでの説教など日常の宗教儀礼の担い手としても周辺化していくことになるが、それはグロやカリが伝統的な宗教儀礼に固執しアリムによってそれが否定されたことが原因なのではない。むしろグロやカリはアリムが唱える「より正しいイスラーム」に接近するように儀礼の方法を変容させていった。周辺化のより大きな要因は、ダトゥ層に属する政治家の一部が、タルティブに反した儀礼を執行し、それをグロやカリが食い止められなかったという点にある。国民国家のシステムへの抱合過程で進んだ伝統的=宗教的権威と政治的権威の分化により、国政に参加したダトゥ層の一部はタルティブなどの共同体規則にその権威の正当性を認めることなく権力を執行することが出来た。とくにマルコス独裁期にはその傾向が強まり、スルターンの称号が国政に参加したダトゥ政治家によってタルティブを無視して名乗られた。こうしてタルティブの継承者グロやカリはその役割を公的ではなく私的儀礼に認めるようになった。

 このように政治=世俗的権威の担い手となったダトゥ層に対し、留学を経験したアリムは、宗教的権威の担い手として活躍し、その一部は国政に参加した。つまりダトゥ層が歴史的に担っていた政治=宗教的権威がアリムによって引き継がれたのだが、ここでの宗教的権威とは、ダトゥのそれとは異なり、中東留学先で培ったコネクションと財源、聖なる言語アラビア語の能力、さらにはイスラームへの「より正しい」解釈にその正当性をみるものである。一方のダトゥ層も、就任儀礼など公的儀礼にイスラームの要素を多く取り入れるが、そこでのイスラーム要素とは、グロではなくアリムによって承認されるべき、すなわちマラナオ社会が中東・イスラーム的とするものに変容している。

 このように、マラナオ社会における留学帰国者アリムの政治的台頭は、この地域における国民国家システムへの抱合によって社会が機能分化し、宗教/政治的権威の所在が変容したことによるものである。さらにこの地域のイスラーム化、イスラーム復興といった現象は、宗教/政治的権威の所在の変容にともなって、アリム、ダトゥ、グロの間でイスラーム化がせり上がり的に促進したことから説明できるだろう。





現代タイにおけるイスラーム復興の諸相:
南部トラン県の事例から



小河 久志 (同志社大学一神教学際研究センター)



  ムスリムが国内人口の5%にすぎないタイにおいても1980年代以降、イスラーム復興の動きが顕在化している。本発表では南部トラン県のムスリム漁村M村におけるイスラーム宣教団体、イスラーム教育、地方行政、宗教実践の動きを分析することで、タイにおけるイスラーム復興の今日的諸相を明らかにする。その際、これら事象に影響を及ぼすマクロな動きとの関係性に注目する。

  タイにおけるイスラーム復興の動きは、これまで様々な団体を母体に進展してきた。例えば、「宣教」活動を通して宗教知識の獲得と信仰実践の必要性を説くタブリーグは、パキスタンに総本部を置き、約80ヶ国に支部を持つトランスナショナルな団体である。タイではバンコクの国支部を頂点に村落部に至る組織を有しており、草の根レベルのイスラーム復興を進めている。また、タイ固有のクルサンパン協会と称する団体は、国内各地で独自の組織とカリキュラムに基づくイスラーム教育を実施している。

  これらの団体はM村にも浸透し、同地のイスラームをめぐる社会状況に変化を引き起こした。タブリーグは1978年に宣教団が来村して以降、着実に支持者を増やしている。そこでは宣教や女性を対象とした学習会を定期的に開催しており、主に成人層のイスラーム知識の増加に貢献した。イスラーム教育においても小学校のイスラーム教育導入(2004年)や、モスク学校のクルサンパン協会加盟(2000年)などにより、若年層のイスラーム学習環境が整いつつある。また県や郡といった地方行政機関は、イスラーム講話会を開催するなど近年、域内のイスラームを支援する方向にある。こうした一連の動きは、村において「イスラーム的」な生活環境を出現させるとともに、同地のイスラーム復興のさらなる進展を引き起こしている。

  しかし村人の宗教実践に視点を向けると、それは錯綜した様相を呈している。今日、村人はタブリーグと土着の信仰への対応の相違に基づき「ダッワ・グループ」、「古いグループ」、「新しいグループ」に大別されている。イマムやタブリーグ・メンバーなど宗教指導者層からなる「ダッワ・グループ」は、タブリーグを義務化し土着の信仰をイスラームに反する悪行として全否定する。逆に老年層を中心とする「古いグループ」は、家族に負担をかけるタブリーグを悪行とする一方で土着の信仰を古くから行われてきた「慣習」と見なしその遵守の必要性を主張する。また、その他多くの村人からなる「新しいグループ」は、タブリーグと土着の信仰ともに肯定的に評価し適宜、実践している。

  本発表ではとくに祖霊信仰に注目して、これら3グループの宗教実践のあり方を考察した。それは以下のようにまとめられる。まず「ダッワ・グループ」は、クルアーンに記載のある死者霊との対比から祖霊を伝承上の存在として否定し、儀礼等を行わない。他方で「古いグループ」は、口伝上の始祖である祖霊を死者霊と同じ「先祖」と見なした上で、祖霊信仰を「宗教」であるイスラームとは別の「慣習」と解釈する。このグループは祖霊が引き起こす災いを恐れ、それを防ぐ効力のある祖霊儀礼の実施を義務化する。そこではイスラーム的要素の無い古くからのやり方に従うことが重視される。「新しいグループ」も祖霊を死者霊と区別する一方で、それらを既死の親族である「先祖」と認識している。彼らは祖霊への積徳として祖霊儀礼を行うが、その形態やプロセスは多様である。そこにはドゥアー朗詠などイスラーム的要素が存在することから、彼らは祖霊儀礼とイスラームの親和性を強調する。このように、現在のM村における土着の信仰をめぐる諸実践は、イスラームの規範を意識化しそれを参照することを通して多様化していた。

  こうした一連の動きは、「イスラームなるもの」をめぐる解釈、実践という意味においてまさにイスラーム復興のあらわれといえる。それはイスラームをめぐる国内外の動きと関わりながら、多様なかたちをとって顕在化していた。トランスナショナルなネットワークをもつタブリーグの浸透をはじめ、深南部テロなどムスリムを取り巻く情勢が複雑化する今日、タイにおけるイスラーム復興の動きは今後より一層錯綜したものになると考えられる。






[第一回 総合ワークショップ 2006年10月]




アラブ系住民から見た東南アジアのイスラーム

新井 和広 (東京外国語大学AA研)

 本報告では、アラビア半島から東南アジアに移住したアラブが移住先のイスラームをどのように捉えているかという点について論じた。東南アジアに移住したアラブのほとんどは、南アラビアのハドラマウト地方(現イエメン共和国)出身者である。彼らの大規模な移住は18世紀から始まり、20世紀中頃まで続いた。現在東南アジアでアラブと言われている人々は、それら移民の子孫であり、ほとんどが移住先の人々との混血である。 本報告の中心を占めたのは、報告者が事例研究のテーマとしているアッタース(アラタス)家である。アッタース家は17世紀後半にハドラマウトのワーディー・アムドで成立したサイイド(預言者ムハンマドの子孫)家系であり、現在そのメンバーは主に東南アジアとハドラマウトに居住している。彼らの活動範囲は広範にわたり、政治、経済、学術、宗教、芸能等の分野で第一級の人材を輩出している。しかし、アッタース家をはじめとするサイイドに関する歴史記述はほとんどが聖者伝の形をとっている。換言すれば、彼らにとっての歴史はウラマーや聖者の歴史である。

この事実は、東南アジア在住のアラブ系住民の意識の中にも見てとることができる。18世紀以降ハドラミー(ハドラマウト出身者)が東南アジアに移住した主な理由は経済的なものであったと考えられているが、現在のアラブ系住民に先祖が東南アジアに移住してきた理由を聞くと、「イスラームを東南アジアに広めるため」という答えが返ってくることが多い。その主張を担保しているのは彼らが輩出した聖者、建設した聖者廟とそこで毎年行われる聖者の偉業を記念する行事、ウラマーが書いた宗教書・聖者伝、東南アジア各地での学校の設立と弟子の育成などである。彼らが誇りとする先人たちはほとんどがこのような宗教者であり、実業家に関して語る時でもイスラームに関する知識や(宗教)教育、慈善活動などが強調される。

つまり、多様な人々が様々な分野で活躍しているアラブであるが、彼らのアイデンティティーを語る際に特に強調されるのは東南アジアのイスラームの中で彼らが果たした役割である。しかし、アラブのこうした主張に対する地元住民(インドネシア人、マレーシア人など)の反発もある。東南アジアのイスラームについて語る場合、誰がメインプレーヤーなのかという各住民の主張を議論することは興味深い視座を我々に提供してくれるであろう。