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■報告要旨公開セミナー

[第六回公開セミナー 2010年11月]

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イスラームとは何か

飯塚 正人 

(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所


 イスラームとは、アッラーを唯一の神として崇め、アラビア半島のマッカに生まれた商人ムハンマド(570年頃〜632年)を神の使徒と認める信条と、それに基づく生活規範などを含む信仰・思想・行為のすべてを意味する。わかりやすく言えば、神の命令とされるイスラーム法に従って生きていればこの世で共同体が繁栄し、あの世で個人も天国に入る一方、命令に逆らった場合にはこの世で没落、あの世でも地獄を見ると信じている人々の宗教、ということになるだろうか。ちなみに、イスラームに帰依する人々をムスリムという。

 イスラームの根本聖典『クルアーン』は、預言者ムハンマドが神から受け取った命令(啓示)をそのままの形で、まったく人間の手を加えずに記録したものと言われ、創造と破壊を司る偉大な神がただひとつであること、この世の終わりにやって来る最後の審判についての警告、天国と地獄の描写、人類と預言者の歴史、殺人・傷害・姦通・窃盗・強盗・飲酒・賭博・利子などの禁止、食べてはいけない食物の規定、女性の身だしなみ、両親や孤児への思いやり、公正な商売をする必要など、極めて広範な話題が盛り込まれている。

 さらに『クルアーン』には、ムスリムが信じなくてはならない6つの信条(六信:アッラー、預言者、啓典、天使、来世、運命)と、能力の許すかぎり果たさなければならない5つの義務(五行:信仰告白、一日五回の礼拝、貧しい人々に施す喜捨、ラマダーン月における夜明けから日没までの断食、一生に一度のイスラーム暦12月のメッカ巡礼)も示されており、こうした「神の命令」を守ろうとしたせいで、ムスリム社会はどんなに遠く離れていようと、共通する一定の特徴を持つことになった。日本でイスラームのイメージ調査をすると、必ず上位にランクされる「奇妙な習慣」というイメージを誘発していると思われるムスリムの様々な習慣は、おおむねこの『クルアーン』に見られる神の命令に起因する。

 他方、同じく日本人がイスラームに抱くイメージのなかで上位を占めている「攻撃的」については、歴史的にムスリムとライバル関係にあったヨーロッパが産み出した偏見の色が強い。イスラームは戦争を否定しないものの、古典的なイスラーム法規定におけるジハード理論は、「イスラームの家(支配地)」を拡大しようとする、いわば「拡大ジハード」と、「イスラームの家」に対する侵略者を撃退する「防衛ジハード」とに大別される。拡大ジハードの理論はかつてのイスラーム帝国による大征服を可能にしたが、その遂行には理論上カリフの命令が必要とされるため、今日の文脈ではまったく問題にならない。1924年にトルコで廃止されて以来、カリフ制そのものがこの世に存在しないからである。

 これに対し、防衛ジハードはカリフの在不在に関係なく、すべての成人ムスリム男子の義務とされる。武装した異教徒が「イスラームの家」に現れた場合、すべての成人男子は侵略者を撃退すべく、生命・財産・言論などを捧げて抵抗しなくてはならない。この理論に従えば、1300年以上にわたって「イスラームの家」であったパレスチナに建国されたイスラエルは、まごうことなき「侵略者」となる。これが、ハマースやヒズボラがイスラエルに対して「テロ」を続ける理由である。一方、1979年にアフガニスタンに侵攻したソ連軍も「侵略者」と見なされ、各地から集結した義勇兵と現地のゲリラ勢力によって撃退された。

 さらに防衛ジハード思想の浸透は、1991年の湾岸戦争後もサウディアラビアに駐留し続ける米軍まで「侵略者」と見てジハードを試みるムスリムの出現すら促すことになる。彼らの代表がウサーマ・ビンラーディンである。80年代末に彼が組織した義勇兵組織アルカーイダには、パレスチナやイラクの惨状、またボスニアやコソヴォ、チェチェン、南部フィリピン、新彊ウイグル自治区などで独立を目指すムスリムへの攻撃に心を痛めた青年たちが結集した。彼らにとって20世紀末から21世紀初頭という時代は、世界中で同胞が虐殺され続けた時代に他ならない。彼らの闘争論理を理解するには、こうした「状況」の理解が不可欠と言える。

 実際、「同胞が虐殺されている」という感覚は、多くのムスリムに共有されている。世界中で同胞が虐殺されていると考えないで済むくらい劇的な状況の変化がないかぎり、彼らのジハードは終わらない。防衛ジハードを遂行するのに誰かの司令が必要なわけではない。「虐殺をやめさせるためのジハード」という思想さえ共有されていれば、司令などなくとも戦闘は遂行される。テロ組織さえ潰せば問題が解決するといった類の話ではないのである。


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仏教世界の中のイスラーム:南タイ・パタニムスリムの苦悩

黒田 景子 

(鹿児島大学法文学部)


タイは仏教国のイメージが強く、また観光面でもそれを押し出している国であるが、人口の5%はムスリムであり、そのほとんどはタイ南部、マレーシアとの国境地域のいわゆる深南部に集中している。深南部はムスリム人口が80%を超え、日常語がマレー語のパタニクランタン方言を話す、マレー人の世界である。

 なぜこの地域が「タイ」なのかは、歴史的にこの地域が東西交易の中心地として政治的経済的に果たしてきた役割にある。深南部の3県はもともとパタニ王国と呼ばれる東南アジアで初期にイスラーム化したスルタン候国であり、最盛期の17世紀にはオランダ、英国の商館があり、華人や日本の交易者、ムスリム商人の交易拠点として賑わってきた。シャム=タイはこの地域を交易ネットワークで確保することが重要であり、シャムの朝貢国という形で支配下においていたが、パタニ王国はそれにたびたび反発して乱を起こしていた。

 状況が変わったのは19世紀の中頃で、汽船が導入されると大型汽船が停泊できないパタニは避けられて他の中小の港市と共に交易拠点としては没落した。  しかしパタニはそれまでにイスラーム教育の東南アジアにおける拠点として小メッカと呼ばれるまでになっていた。ポンドック(ポノ)と喚ばれる学校が多く存在し、メッカ巡礼の準備をするための拠点となり、ここで輩出されたウラマーの著作は現在もこの種の学校の教科書となっている。

 パタニにとって不幸であったのは、1909年に英シャム条約によって、タイと英領マラヤの間に近代国境が設置され、タイが自らの近代化のために仏教的価値観を中心としタイ語を国語として全国にしいた徹底したタイ化政策を推し進めたことである。深南部ムスリムの抵抗はタイへの同化を求める政府と軍によって徹底的に封じ込められ、1950年以降パタニを中心として数多くのムスリム独立運動が起こった。タイ政府は問題の本質を無視したままタイ化を推し進めたため、この地域ではテロが横行し、一旦おさまったかにみえたのちも2004年以降再び爆弾テロ、銃撃、放火が繰り返されて、住民の生活を脅かしている。かつて深南部の状況はタイの辺境地方の事件としてなかなか情報が得られなかったが、インターネットの普及により事件の詳細やテロ映像などが世界に配信され、海外からの目にも晒されるようになった。タイ政府はこのなか2007年からはじめて深南部でマレー語の教育と「正しい」イスラーム教育をおこなうことにしたがどのような効果がでるのかはまだ未知数である。


[第五回公開セミナー 2010年7月]

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イスラームを知る−東南アジア、フィリピンのイスラームを中心に

床呂 郁哉(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)


今回の講演では東南アジア、とくにフィリピンのイスラームについて研究者以外の聴衆の方々にもできるだけ分かりやすく、その概要を紹介することを試みた。
また導入として、そもそもイスラームとはいかなる宗教であるのか?というイスラームのごく初歩的な知識を、その歴史や六信五行など基本となる教義や実践、あるいはイスラームの歴史などに関して簡単に紹介した。イスラームは西暦7世紀前半にまずアラビア半島を中心に広がった世界宗教であるが、その後、西暦13世紀頃には西は北アフリカから東は東南アジアに至る広大な地域に伝播していった。現在では推定で少なくとも13億人から15億人前後のムスリムが世界各地に暮らしているとされ、21世紀中には世界最多の信者をもつ宗教になるとも予測されている。こうしたイスラームのグローバルな広がりのなかで東南アジアは無視できない大きな存在となっている。世界最多のムスリム人口を抱えるインドネシアをはじめ東南アジアにおいてイスラームは宗教や信仰の領域はもとより、場合によっては政治、紛争と平和構築、司法、教育、経済などの分野においても影響を及ぼしている。

こうした序論に続いてフィリピンにおけるイスラームの歴史と現状について紹介を行った。まずフィリピンの宗教事情の概要について述べると、フィリピンはスペインやアメリカによる植民地化の結果として国民の約9割がキリスト教徒であり、ムスリムは推定で総人口の6%前後を占めるマイノリティである。この事情はムスリムが総人口内で多数派を占めるインドネシアやマレーシアとは対照的であり、フィリピンにおけるイスラームの歴史や現状を考える上でも無視できない影響を与えている。フィリピンにおけるムスリム諸集団は「モロ」と総称され主にフィリピン諸島の南部に位置するミンダナオ島やスールー諸島を中心に居住しているが近年ではマニラ首都圏など各地にもムスリムのコミュニティが増加している。イスラームは13世紀頃にはフィリピン諸島に伝わり、15世紀以降にはスールー王国やマギンダナオ王国などスールーやミンダナオでイスラーム王国が成立した。16世紀以降にはフィリピン諸島の植民地化を目指すスペインと、それに抵抗する現地のイスラーム教徒(モロ)との三世紀以上に及ぶ戦いであるいわゆる「モロ戦争」が続いた。20世紀に入るとスペインに代わってフィリピン諸島の統治権を獲得したアメリカによる植民地化が開始され第二次大戦後にはスールーやミンダナオのムスリム居住地域もフィリピン共和国へ編入されることになった。しかしアメリカ植民地統治期以降にはフィリピン北部のキリスト教徒の農民を南部のミンダナオ島へ移住させる移民政策が推進され、結果として従来はムスリムが多かったミンダナオにおいてもキリスト教徒人口が増加し人口比でムスリムを圧倒するという事態を招いた。この過程で窮乏化、周辺化を余儀なくされたミンダナオなどのムスリムは1960年代末から1970年代にかけてフィリピンからの分離主義武装運動を開始するに至った。2001年9月の米同時多発テロ事件以降はアメリカ政府によってフィリピンの反政府ムスリム武装集団のひとつアブサヤフ集団(ASG)は公式にテロ組織と認定され、ミンダナオも「対テロ戦争」の戦場のひとつとして位置づけられるようになった。ミンダナオではムスリム分離主義組織の一つであるモロ・イスラーム解放戦線(MILF)とフィリピン政府が、和平交渉を継続しつつ散発的に武力衝突も起きるというような一進一退の状況がここ数年、続いている。とくに2008年8月にMILFとフィリピン政府のあいだで、いわゆる「先祖伝来の土地に関する合意」書(MoA−AD)をめぐる交渉が決裂して以降は、両者のあいだで一時的に再び激しい衝突が発生し、少なくとも70万人以上という規模の国内避難民(IDP)を出すなどミンダナオの住民に大きな影響を及ぼしている。こうしたミンダナオの状況に対しては、日本を含む各国政府や国連等の国際機関、あるいはNGO等による和平構築支援、難民・復興支援活動なども実施されている状況である。

講演では最後にフィリピン・ムスリムの伝統的な信仰や実践について紹介した。フィリピンのムスリムもいわゆるイスラームの六信五行を基本とすることは他地域のムスリムと共通しているが、実際の宗教実践にはこの他にもいわゆるアニミズムやシャーマニズム、祖霊崇拝的な信仰などを含む多様な民間信仰・宗教的実践が認められることも研究者によって報告されている。ただし近年ではフィリピンにおいてもいわゆるダッワ、ダクワなどと称されるイスラーム啓蒙活動などの影響などによって従来の伝統的な実践に変化の兆しもある。講演の最後にはこうした状況を講演者が現地で撮影してきた動画なども上映しながら説明を行った。


 

経済とイスラーム-マレーシアの事例から

福島 康博(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)


ムスリムにとっての日常生活は、イスラームを実践する場として位置づけられる。なぜなら、現世での行いが来世で天国へ行けるか、あるいは火獄へ行くのかを決めるアッラーの判断材料となるからである。そのためイスラームは、生産や消費といった日々の経済活動・金融活動のあり方にも影響を与えている。本報告では、ムスリムが多数派を占めるマレーシアにおいて、人々の経済・金融活動に対してイスラームが影響を与えている例として、季節変動、ハラール産業、イスラーム金融の3つの例を挙げ、経済とイスラームとの関係を考察した。

経済とイスラームとの関係の1例目は、季節変動である。季節変動とは、気候や文化などに起因する、1年周期で発生する景気動向の変化のことである。熱帯気候で年間を通じて気候が一定であるマレーシアでは、自然環境を原因とする季節変動は発生しにくい。しかしながら、イスラームが季節変動を促すことが統計で明らかになっている。例えば、自動車の売上は、五行の一つである断食が行われるラマダーン月が最も多い。なぜなら、地方出身で都会に暮らすムスリムが、断食明けの祭りであるイードル・フィトリを故郷で過ごすため、この時期に併せて新車を購入するからである。同様に、ラマダーン月には夜間にまとめ食いや親族・友人を招いてのホーム・パーティーを行うため、食品の消費量が他の月よりも多くなる傾向にある。他にも、同じく五行の一つであるメッカ巡礼の際にはサウジアラビア行きの航空券がよく売れ、服はイスラーム暦の新年に売上が伸びる。

経済とイスラームとの関係の2例目は、ハラール産業である。ハラール、すなわちイスラームの観点から許容される食材のみを用いたハラール食品は、世界でおよそ5,800億米ドル規模の市場を形成しているが、マレーシアは政府によるハラール認証制度を導入するなどこの分野で積極的な役割をはたしている。特に注目すべき事例として、全ての製品でハラール認証を取得した食品メーカーのネスレ、ムスリムが購入できるハラール食品売り場とアルコールや豚肉などノン・ムスリム向け売り場とを別々に設置している日系小売店のジャスコ、および豚肉料理を提供しない日系レストランの吉野家の3例を取り上げ、各企業のハラールへの取り組みを紹介した。

経済とイスラームとの関係の3例目は、イスラーム金融である。イスラーム金融とは、従来型の有利子銀行からイスラームに反する要素を排除した金融のことで、預金や融資といった金融活動を通じてムスリムの顧客がイスラームに違反することがないよう、金融商品・サービスを形成している。とりわけ融資においては、ムダーラバなどの損益共有方式と、ムラーバハなどの実物資産移転方式によって、イスラーム銀行は利子を用いずに利益を上げている。マレーシアにおいては、イスラーム銀行に対して預金を行っているのは、企業と金融機関で、両者の合計は預金残高の半数を超えている。他方、融資目的として特に多いのが、自動車購入、居住用不動産購入、個人使用で、融資残高の6割近い。この点を鑑みると、マレーシアのイスラーム金融は、企業等の余剰資金を個人部門の消費に還流させる役割をはたしているといえる。

このように、現世での行いが来世での身の処遇を左右するイスラームにおいては、日常生活をイスラームが律しており、このことは経済・金融活動においても同様である。そのため、断食やメッカ巡礼といったムスリムにとっての義務的行為が経済と結びついている。また、食品や金融のように商品の製造や販売においてイスラームに反する要素を排除した産業も、近年確立されている。多民族国家マレーシアをはじめ、グローバル社会においては、ヒト・モノ・カネ・情報が国境を越えて混在する状況になっており、ムスリムがイスラームに反する商品やサービスに触れてしまう恐れもまた、高まっている。ムスリムがムスリムとして、ムスリムらしく生きる権利が保障されるためには、しかるべき団体・組織が経済・産業をイスラームの視点から監督する必要があり、マレーシア政府はこの役割を積極的に担っているといえよう。


[第四回公開セミナー 2009年7月]

 

タイにおけるムスリムの現状

西井 凉子(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)


タイのムスリムは、約94%以上を仏教徒がしめるタイにあって、最大のマイノリティであり、人口約280万人、総人口の約4.6%を占めている(2000年)。ムスリム人口の4分の3あまりが南タイに居住し、中でも南部国境県と呼ばれるマレーシアとの国境に近い4つの県(パタニ、ヤラー、ナラティワート、サトゥーン)ではムスリム人口が県人口の6割から8割以上を占める。タイにおいては、このような南部国境県のマレー系ムスリムの存在が、人口の上でも政治的関心の上からも突出している。

南タイのムスリムも大きく東海岸と、西海岸のムスリムに分けて捉える必要がある。両者は近年まで南タイのムスリムとして一枚岩的に捉えられがちであった。東海岸のムスリムは、主にパタニ、ヤラー、ナラティワートの3県のマレー語を話すマレー系のムスリムをさす。この地域のムスリムは、国境を越えたマレーシア側と姻戚関係をもつものも多い。第二次大戦後、特に1960年代から活性化したムスリムの分離独立運動の中心地とみなされてきたのは、主にこの東海岸の地域である。

西海岸のムスリムとは、仏教徒と同じ南タイ方言を話すムスリムが大半を占め、主にサトゥーン県に居住している。タイ語を話すムスリムという意味では、東海岸のパタニの北部に位置するソンクラーもこの類型に入れることができるかもしれない。言語の違いのみならずタイ政府に対する政治的態度も異なっている。東海岸のムスリムが分離独立運動の中心的な担い手であったのに対し、西海岸のムスリムは政治的に常に問題がなく、タイ政府にとっても模範的なタイ国民であるムスリムとみなされてきた。

2004年1月以降、南タイでは再び暴力事件が頻発するようになり、2009年6月に至るまで、南タイ3県でおきた殺人、放火、爆弾の犠牲者は3500人を数える。今回の南タイにおける暴力事件も、もっぱら東海岸で起こっており、西海岸のサトゥーン県では事件はほとんど発生していない。このことから、最近の新聞報道などでは、南部国境4県にかわり、サトゥーンを除いて南部国境3県と称されるようになっている。1960年代から70年代にかけての南タイの暴力事件においては、その原因はローカルなムスリムと仏教徒の対立ではなく、むしろ中央の政府およびその地域で話される言葉(マレー語)を理解できない政府の仏教徒官吏と、ムスリム住民の間の齟齬にあるとされてきた。さらに近年の暴力事件の原因をめぐっては、国境を背景とした麻薬や密輸品をめぐる対立、それを取り締まる警察や軍の権益をめぐる対立、タクシン政権の施策の失敗など複雑な要因がからまっているとされる。ここでも、やはり宗教が異なることが直接の原因ではないと考えられる。しかし、頻発する暴力がかつてあったムスリムと仏教徒の相互扶助的な関係を破壊し、相互不信へと変質させつつあるとの現地からの報告もある。

2009年3月にパタニで行った現地調査においても、現地の人々は明日も今日と同じ平穏無事な日々が続くという日常的な信念がゆらぐなか、何とか心を平静に保とう(tham cai)としていた。毎日、自分のできることを精一杯やるのみである、とパタニの友人はいう。「私たちの家はここにある。食べるのもここ。死ぬのもここ。何かあったら墓にいくだけ。」

2004年の事件発生以来、現地の人々の覚悟ができるまでには何年もの期間が必要であった。しかし、南タイの危機的な状況下で、人々がなんとか日常を保ちつつ生きているからといって、問題が改善されていくわけではない。顔のみえる個人的関係においては、信頼関係が継続していたとしても、生きている場が国家の中にあるという現実が状況を大きく規定している。家族や親族、親しい人々が殺害された経験をもつ人々があり、そうした殺害が国家の行ったことであると信じられている現実がある。国家が生きる場の中から他者化されていく。そのような状況において、彼らは別の場を、別の未来を模索することに駆り立てられるのだろうか。よりよい未来を手に入れるために、現実の中で過去の記憶が掘り起こされ、現在から未来にむけて絶望的な行為へと若者を駆り立てる素地がつくられているといえるかもしれない。


 

日本のムスリム 岩手のムスリム

斉藤 真奈美(岩手県立大学総合政策学部)


日本には意外とたくさんのムスリムの人々が在住している。本発表では在日ムスリムの日常生活を知ることで、日本で暮らしていくうえでの問題、工夫など根付いた文化を知ると共に、岩手で暮らす身近なムスリムの存在を明らかにしていく。

日本には超過滞在者も含め、およそ230万人の外国人が来日して暮らしている。その中のムスリムの比率は約5%の10万人と推計されている。国別ではインドネシア、パキスタン、バングラデシュ出身者が上位を占め、日本人ムスリムはおよそ5千人とも言われている。ムスリムが食べることを許される食品(ハラール食品)を取り扱う店が都心には多く、地方ではインターネットで購入している。ムスリムではない人でも他のお店よりも安く手に入るため、ハラールショップを利用する人もいる。礼拝するモスクの数は2009年時点では全国におよそ57が確認されている。また、金曜礼拝を行う場所はおよそ200箇所以上にもなるといわれており、日本でもムスリムたちの存在を確かに感じることができる。モスクの形状は東京ジャーミイのような大きく綺麗な建物からアパートの一室までと幅広く、広さや作りなど一様ではない。モスクを建てるための資金は人がいれば集まるわけでもなく、管理する人や周囲の環境にもよって建てることが困難な場合もあるが、中古車輸出業などを営むムスリムは一回で多額の寄付をすることもあるという。近年ではインターネットでの資金集めも行っている。

次に岩手のムスリムについて見ていくと、岩手県にはおよそ6560人の外国人が在住している。そのうちのムスリムの人数は岩手にいる外国人のうちおよそ3%の約220人と推計される。岩手県在住ムスリムの特徴はおもに研修生や留学生が多く、なかでも沿岸や県南の工場で働くインドネシア人が多数いることである。日本人ムスリムは数人に留まる。こうした構成は四国など地方都市でも報告されている。岩手にはモスクはなく、代わりに礼拝場が一箇所のみ存在する。礼拝場は普段私たちがよく見るアパートの一室を借りており、そこでは礼拝以外にも無人のハラール肉販売所としても活用されている。断食明けのお祭でも礼拝場からあふれるほどの人が集まり道端で礼拝を行っていた。また、断食明けのお祭は岩手大学でも行われていて、理系のマレーシア人学生をはじめとしてたくさんのムスリムが各地から集まった。しかし、岩手にはモスクがないという理由から結婚や入信、断食明けのお祭の際には、宮城県のモスクへ行ってしまう人が多数いるようである。

ではこのように明らかにしたムスリムたちが普段どのように暮らしているのか、その問題点と共に解決に向けての工夫を見ていく。まず日本での暮らしで問題となるのがモスクの場所や子供の教育、そして周辺住民との付き合い方、埋葬方法である。モスクは建てたら終わりではなく、日々の活動を周辺住民に理解してもらうことが必要となってくる。髭が生え肌の色も違う集団、またベールで顔を隠した集団が集まっているとつい「テロリスト」との誤解を受けてしまうが、理解してもらうために地域のお祭に参加したり、通報されても警察から説明してもらうように対応している。また、子供の教育ではモスクでのコーランの勉強をすることで子供にムスリムとしての教育を行っている。埋葬方法では、ムスリムは土葬であるため、土葬で埋葬する土地を確保することでその問題を解決している。現在は一箇所のみしかない場所もさらなる土地の確保を目指している。

最後にムスリムたちの日常の姿を見ていくことでわれわれと変わらない面があることを強調しておきたい。普通は20代の女の子といったら安いものに弱く、甘いものが好き、でもダイエットもするものである。礼拝の時間が来ればもちろん礼拝に真剣に取り組むがその一方で100円均一ショップに行き、プリクラを撮り、お菓子も食べるがダイエットの情報収集も欠かさないのである。

これまでの調査を通じて、遠い存在と思われていたムスリムたちが意外に近く、宗教以外ではなんら変わりない姿を知ることができた。今後これらを中心により多くのことを発見していきたい。


[第三回公開セミナー 2008年10月]

 

フィリピンのイスラーム概説:その歴史と現状

床呂 郁哉(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)


今回の講座では一般社会への成果公開の講演としてフィリピンにおけるイスラームの歴史的背景や現状について研究者以外の参加者にも分かりやすく紹介することを試みた。

まずフィリピンの宗教事情の概要について述べると、フィリピンはスペインやアメリカによる植民地化の結果として国民の約9割がキリスト教徒であり、ムスリムは推定で総人口の6%前後を占めるマイノリティである。この事情はムスリムが総人口内で多数派を占めるインドネシアやマレーシアとは対照的であり、フィリピンにおけるイスラームの歴史や現状を考える上でも無視できない影響を与えている。フィリピンにおけるムスリム諸集団は「モロ」と総称され主にフィリピン諸島の南部に位置するミンダナオ島やスールー諸島を中心に居住しているが近年ではマニラ首都圏など各地にもムスリムのコミュニティが増加している。

次にフィリピンにおけるイスラームの歴史的背景について述べる。まずフィリピン諸島にいつ頃、どのようにしてイスラームが到来したのかについては現在、まだ詳細については研究者間での議論もあるが、13世紀以降にアラブ人やインド出身のムスリム商人が交易などのためにインド洋を経由して東南アジアに到来し、その過程でイスラームがフィリピン諸島を含む東南アジアに徐々に浸透していったとする説が有力である。

ちなみにフィリピンで現存する最古のモスクは14世紀後半頃に建立されたとされる。15世紀以降にはスールー王国やマギンダナオ王国などスールーやミンダナオでイスラーム王権が形成された。16世紀以降にはフィリピン諸島の植民地化を目指すスペインと、それに抵抗する現地のイスラーム教徒(モロ)との三世紀以上に及ぶ戦いであるいわゆる「モロ戦争」が続いた。20世紀に入るとスペインに代わってフィリピン諸島の統治権を獲得したアメリカによる植民地化が開始され第二次大戦後にはスールーやミンダナオのムスリム居住地域もフィリピン共和国へ編入されることになった。しかしアメリカ植民地統治期以降にはフィリピン北部のキリスト教徒の農民をミンダナオ島へ移住させる移民政策が推進され、結果として従来はムスリムが多かったミンダナオにおいてもキリスト教徒人口が増加し人口比でムスリムを圧倒するという事態を招いた。この過程で窮乏化、周辺化を余儀なくされたミンダナオなどのムスリムは1960年代末から1970年代にかけてフィリピンからの分離主義武装運動を開始するに至った。その後、最大の分離主義組織であったMNLF(モロ民族解放戦線)が1996年には政府との停戦に合意するが、別の組織MILF(モロイスラーム解放戦線)はその後も武装闘争を継続し、またアブサヤフ集団などの武装集団も爆弾テロや外国人誘拐などの活動を続けている。2001年9月の米同時多発テロ事件以降はアメリカ政府によってアブサヤフ集団は公式にテロ組織と認定されミンダナオも「対テロ戦争」の戦場のひとつとして位置づけられるようになった。

次にフィリピン・ムスリムの伝統的な信仰や実践について述べる。フィリピンのムスリムもいわゆるイスラームの六信五行を基本とすることは他地域のムスリムと共通しているが、実際の宗教実践にはこの他にもいわゆるアニミズムやシャーマニズム、祖霊崇拝的な信仰などを含む多様な民間信仰・宗教的実践が認められることも研究者によって報告されている。ただし近年ではフィリピンにおいてもいわゆるダッワ、ダクワなどと称されるイスラーム啓蒙活動などの影響などによって従来の伝統的な実践に変化の兆しもある。

またこの他に現代ではイスラーム身分法廷や新たな形態のマドラサ等の活動など公共的な領域でイスラームを再生し実践する試みも行われているのが特徴的である。


[第二回公開セミナー 2007年10月]

 

インドネシア社会におけるイスラーム急進派の位置づけ

見市 建 (岩手県立大学総合政策学部)


 インドネシアのイスラーム急進派とはどのような人々で、彼らは社会のなかでどのような存在なのだろうか。本発表では急進派の組織的思想的背景を明らかにした上で、世論調査やメディアを中心に「商品化」されるイスラームを踏まえて、インドネシアにおけるイスラーム化の進展と急進化の関係について明らかにした。

イスラーム急進派や過激派、あるいは「原理主義者」と呼び習わされる人々の急進性は実は多様であり、発表者はおおよそ三つに区分して理解している。まず教義的な急進派で、彼らはイスラーム法をより厳格に適用しようとする。サウジアラビアで優勢なワッハーブ主義・サラフィー主義がこれにあたる。このグループは通常政治への関与は避け、また組織化しない。インドネシアではラスカル・ジハードやイスラーム擁護戦線(FPI)が例外的に政治化したが、軍や警察など当局がこれを利用した背景がある。次に政治的な急進派が挙げられるが、これはその目標と手段の急進性を区別しなければならない。目標としては世界のムスリムを代表するカリフ制国家の樹立であり、国民国家の存在を否定する。言葉による宣教でこれを目指そうとする解放党がある。手段の急進性とは武装闘争によってこれを実現する立場であり、アメリカやシオニスト、それに支えられるとみなされるムスリム政権が暴力的な闘争の標的になる。

インドネシアを中心としたジャマーア・イスラミヤ(JI)は政治的目標および手段において急進的である。JIは2002年10月のバリ島爆弾事件を始め、西洋権益を標的とした事件を起こし、またキリスト教徒住民との地域紛争にも介入している。JIはインドネシア独立戦争終結直後に起こったダルル・イスラーム運動から発展しており、また1960年に非合法化された最大のイスラーム政党マシュミ党の後継組織とも関連が深く、インドネシアのイスラーム政治史において外れた特異な存在ではない。JI指導者は80年代半ば以降、マレーシアを経由してアフガニスタンの対ソ連闘争に参加して軍事訓練を受け、思想的にも大きな影響を受けた。取り締まりが強化された現在でも積極的な翻訳出版活動を行っている。彼らが参照するのはエジプトのジハード団、アル=カイーダ、ヨーロッパの武装闘争派などに影響を与えたイデオローグたちであるが、インターネットから得た論考を選択的に翻訳している。

最近の世論調査によれば、教義的急進派が主張する事柄への賛同者は30〜50%と少なくなく、また概ね上昇傾向にある。しかし例えば女性大統領に反対する人々が増えたのはメガワティ大統領の失政が明らかになってからであり、社会におけるイスラームの急進化と単純に結論づけるわけにはいかない。急進派諸組織の認知度も高いとはいえない。

テレビを中心としたメディアにおけるイスラーム化は明白であるが、急進派の希望からはかけ離れた方向にある。数年前からイスラーム音楽が流行しているが、次第に既存のロックバンドなどがこのブームを「乗っ取り」、携帯電話会社が提供して「イスラーム的」な視聴者に賞金を与える「小さな説教師家族」など節操のないリアリティショーが高視聴率を記録している。

急進派はそうしたメディアや、民主化後にそれまでの地下組織が議会制民主主義の枠内で活動する状況に苛立ち、孤立を深めている。他方、急進派の方も道具としてインターネットを扱うだけではなく、言葉の使い方など大都市部の若者を中心とした消費文化から無縁ではない。人々も必ずしも急進派をイスラームから逸脱したカルト集団と見ているわけではなく、国内外の状況が彼らの思想に一定の説得力を与えている。


質疑応答
1.急進派の位置づけについて、イスラーム主義穏健派に対する急進派の失望とあったが、この穏健派とは?
(回答)本来はカリフ制樹立を目指すものであったが、現在の政治社会体制を容認する形で動いているイスラーム政党等を指す。

2.一般の人たちの中で、急進派はどのような状況にあるか?
(回答)全体としては、孤立を深める傾向にあるのが現状。しかし、バリのテロについて、逮捕されたバアシルを例にとれば、彼の学校は生徒が激減するという現象は起こっておらず、急進派の家庭でない家の子が通学するなど、教育と事件は区別している面もある。

3.イスラームの商品化と急進派はどのように関わっているか?
(回答)手段としてのインターネット、メディア、英語教育等は有効利用されており、そうした現象そのものに対し、彼らは反対していない。急進派もその波の中にある。

4.発表内で使われた世論調査について、急進派のアジェンダとして並んでいる項目が、急進派のアジェンダとして適切と考えられるか?
(回答)もし発表者が世論調査の質問者であれば、こうした質問の仕方はしない。一つの指標であって短絡的な結論としては扱えないと考える。



 

米国植民地統治下のムスリム:フィリピン・ミンダナオ島における定住化とその影響

鈴木伸隆 (筑波大学人文社会科学研究科)



 米国植民地統治下のフィリピン・ミンダナオ島で、1913年より実施された国家主導入植計画は、農業コロニー計画として知られている。同コロニー計画の特徴は、島外からのキリスト教徒だけでなく、島内のムスリムも対象としていた点である。植民地政府にとって、コロニー計画はムスリムを定住化させるための手段であった。本発表では、ムスリムの定住化政策としてコロニー計画を位置づけ、ムスリム参加の具体的な過程に注目すると共に、定住化の意味を検討する。 

 米国がフィリピンを領有した当時、植民地フィリピンは単一のフィリピン人という国民は不在とみなされた。ムスリムは野蛮かつ未開の民族と位置づけられていた。そのため、近代的な生活様式を身につけ、悪弊であるモロイズムから解放されることが不可欠とされた。ダトゥと呼ばれる首長は奴隷制に依存することなく、近代的な政治機構の一翼を担うことが期待され、一般民衆は経済的に自立し、個人として生活設計をすることが求められた。その実現のために、放浪的な生活様式を改変し、定住することが急務とされた。

 しかしながら、実際の植民地政策遂行過程はさまざまな諸条件によって制約を受け、独自の歴史的展開を見せることになる。コロニー計画の実施過程を仔細に追うと、@農業コロニーが最初に開設された場所は、イスラーム教徒マギンダナオ人の有力者ダトゥ・ピアンの部族区にあたること、A開設当初はキリスト教徒のみを入植対象者としていたこと、Bコロニー計画の実施にあたっては、米国植民地政府行政官とムスリム有力ダトゥとの間で交渉が行われていたこと、などの重要な点が浮かび上がる。コロニー用地の確保、各種建設資材の調達、さらに入植者の安全確保などは、有力者ダトゥ・ピアンが全面的な支援を行うことを条件に、コロニー計画が実施された。加えて、ピアンの息子アブドーラがムスリム側の調整責任者として、関与することまでが決定されている。

 以上のことから判断できるように、コロニー計画自体が運営当初より、有力ダトゥとの全面的な協力の上に成り立っていた。加えて、ムスリムはあくまでも入植者を受け入れるホストとして位置づけられ、ムスリムの参加はこの段階では具体化していなかった。その証拠に、入植者と先住者ムスリムとの無用の混乱を招かないために、ムスリムの立ち退きに伴う金銭的な補償が、具体的に検討されていた。

 ところが、米国本土のフィリピンに対する民族政策の大転換により、農業コロニー計画におけるムスリムの位置づけは、大きな変化を余儀なくされる。立ち退きによる金銭補償案は消滅し、その代わり、立ち退き予定のムスリムを入植者としてコロニー計画に移住させる代替案が急浮上する。これにより、金銭的な補償することなく、入植者受け入れとムスリムの移動と集住が一つのセットとして連動し、運用されることになったのである。その結果、1914年の時点で、ミンダナオ島には計七つの農業コロニーが設置されることになる。その内、二つがムスリム専用のコロニーとなるなど、入植者数の半数以上がムスリムによって占められた。

 一見順調にも見えたコロニー計画であったが、肝心の農業生産は主だった成果を上げることなく、資金不足に直面する。1917年には、入植者の募集を中断することを余儀なくされた。その反面で、コロニー計画は運営者までもが予想もしていない状況を生み出すこととなる。運営上、最も懸念されていたのは、キリスト教徒入植者とムスリムとの対立である。それを回避するため、両者は隣接するものの個別のコロニーへと意図的に分別された。しかし、実際に両者は商品などの物々交換や祭礼などへの参加といった自発的な交流を展開させることとなる。こうした状況を目の当たりにした植民地行政府関係者とコロニー計画関係者は、キリスト教徒とムスリムの民族融合が実現可能であると確信する。

 この予想外の「発見」は、同化政策推進上の大きな成果と認識され、後の対ムスリム政策に少なからず影響を与えた。まず一つは新種のコロニー誕生である。異教徒同士を最初から混住させるミックス・コロニーの必要性が提唱された。ミンダナオ島では1915年以降、三つのミックス・コロニーが設置されている。もう一つは、植民地政府に抵抗する「反逆者」を懐柔するために、ダトゥと従者を一括して、コロニーに移住させる計画が画策された。

 以上のように、コロニー計画はムスリムにとって、定住化による経済的な自立が本来の目的であった。しかし、実施運営過程でコロニーの目的が異民族同士の共存・共栄であるとのすり替えが行われていく。ムスリムにとって定住化とは、個人による経済的自立、技術習得、土地所有権の取得が期待された壮大な植民地プロジェクトであったが、ムスリムの参加という構想自体、計画の運営段階で降って湧いたものだけに、ムスリムに対する定住化の意味づけが曖昧であったことは否定できない。経済的に自立した個人の誕生を願ったにも関わらず、コロニー計画は植民地状況下における、植民地政府と親米派とされるムスリム有力ダトゥとの相互依存関係を強調する皮肉な結果となった。

質疑応答
1.アメリカ側は文明化としてモロ(ムスリム)の定住化政策を進めたとのことだが、20世紀初め、モロの人々の生業実態・生活実態はどのようだったか?
(回答)アメリカ側からの表象のみ資料として存在し、マギンナダオ側の人々が文字化資料は、現在見つかっていない。1941年開村の開拓村調査での聞き書きの結果からは、ムスリムは定住をしなかったが米作をし、魚をとって生活していたことが分かっている。

2.なぜミンダナオ島にコロニーができたのか?
(回答)この前年度のフィリピン米不足がコロニーの法案化には関係しており、食糧不足の条件から見ると適地はミンダナオしかなかった。

3.アメリカ側は分離政策から同化政策に転換したと発表にあったが、ここでは何が同化と考えられたか?
(回答)アメリカ側も内政では分離政策のみをとっており、新しい試みとして同化政策を行ったので、見通しを持っていなかった。植民地フィリピンでとった同化政策は、多数派のキリスト教徒に少数派のムスリムを統合することと考えられる。

4.運営資金が不足している状況の中でも、混在型コロニーが成立していったということは、運営資金の不足は何らかの方法で解消されたのか?それとも資金不足の中で継続されたのか?
(回答)中央政府レベルでなく、州政府の予算として行われた。



[第一回公開セミナー および 第一回 国際ワークショップ2007年2月]



RADICLA ISLAM?
THE FUTURE OF ISLAM IN INDONESIA


JAMHARI MAKRUF


  In the aftermath of the Southeast Asian political and economic crisis in the late 1990s, the rise of radical Muslim groups in Indonesia spawned intense debate on the presence of a new threat of political Islam. Scholars, journalists and policy makers alike were quick to classify these new Islamist movements as a part of a global network of radical Islam spanning from the Middle East, to North Africa, South Asia, and to Southeast Asia. However, in recent times this prognostication and characterization of Muslims in the country had to some degree diminished, with attention has been paid to different cultural and ideological understandings of Islam between the Middle East and Southeast Asia. The issues of radical Islamist uprisings were relegated to the margins of debate largely because of the impressive achievement of political Islam in Indonesia to participate in the nation's consolidation to democracy, maintenance of religious pluralism, and coping with modernity. While the radical upsurge of Indonesia Islam should not detract from the significant signal of the emergence of global Islamist networks, it did illustrate quite profoundly that beneath renewed interest in political Islam in academia--an interest that has been sparked in part by a debate of the compatibility between Islam and democracy-lie a tendency of scholars to treat Islamist politics as an uniform phenomenon over time.

  Political Islam can be situated as a group of peoples and political communities who hold a set of ideologies derived from the doctrine that Islam is not only a religion, but also a political system that governs the legal, economic and social imperatives of the state. Nevertheless, traversing through the history of political Islam in Indonesia, it is apparent that there are variations as to how various Muslim organizations developed their programs, formulated their organizational and ideological forms, managed their strengths and translated their political action vis-?-vis the political regimes, and carried out more or less successfully in coping with the problems of religious pluralism.

  One of the most significant achievements of Islamist organizations (both in the forms of political party organizations and civic associations) is their willingness to work within the existing political system for the advancement of its goals. Islamic organizations throughout the past 60 years have intermittently played a political role under both democratic and authoritarian circumstances. The two largest organizations that emerged in the early 20th century, Muhammadiyah (the Spirit of Muhammad), a modernist-reformist organization, and Nahdlatul Ulama (The Awakening of Religious Scholars), a traditional ulama-affiliated organization, support the existence of nation state and direct their program towards serving society at large beyond Muslim communities. Indonesian Islamist political parties, although in its earliest phases have attempted to establish an Islamic state, compete fairly in subsequent democratic elections.

  The ability of some Muslim political organizations to enter into this formal political participation stands out as major milestones of the development of Indonesian Islam. Three main features bear testimony to this achievement: (1) the continued support of Muslim communities in Indonesia for the nation-state and its Constitution; (2) the preference of Indonesian Muslims to advocate debates and dialogue in pursuing their political goals, instead of hostility and violence; and (3) the strong will of Indonesian Muslim political organizations to move from religiously-based politics and actions into broader framework of political struggles such as democracy, poverty alleviation, gender equality and human rights.

  A second feature of theachievement is perhaps the Muslims' prominent role in promoting multicultural understandings among people with different beliefs, ideologies, and cultural identities. Observers often portrayed the current Islamic activism in the Muslim world as a phenomenon that encourages violence and terrorism and poses a risk to political freedoms and civilization. James Walsh, an expert on Middle East politics, for example, indicates that Islamist political movements raise concerns for lives and freedoms. They suffer from terrorism, intolerance and revolutionary transformation. Islamic organizations in Indonesia, however, have intensified their involvement in struggling for the coexistence among religious communities and other cultural groups.

  Important to these particular political outcomes should be addressed to the role of modern education in Indonesia, especially religious education in public schools. Under the New Order, religious education is understood to ensure that students will be able to maintain their faith and religious practices according to their own religious tradition. As a result, religious education in Indonesian public schools has generally led to the division of classrooms according to the students' creed. In other words, students are segregated according to their religious beliefs during religious instruction in public schools. This is to ensure that each of students receives proper religious instruction in school, that is religious instruction of their own religion, not that of others. Interestingly, the trend indicates that Indonesian schools tend to be more religious in an increasingly secular society.