2007年7月13日(金)

イスラーム寄宿塾

   プサントレン(注1)やサントリ(注2)という語は、コーラン朗誦教師という意味のタミル語(注3)起源とされる。一方、これはインドの言葉が起源で、シャストラ(聖典、宗教書、あるいは学問に関する書物を意味する)という語から派生したシャストリという単語に基づくという説もある。

 イスラーム寄宿塾で、寄宿生は教師(キヤイ)と同じ敷地内で一緒に生活する。それが、寄宿生と教師間の親密な関係、教師に忠実な寄宿生、自立した質素な生活、友好的な雰囲気の中での助け合いの精神、規律ある生活など、イスラーム寄宿塾生活の特徴を育む。

 インドネシアのイスラーム寄宿塾の起源は、イスラーム伝統に根ざすとする説、その一方、ヒンドゥー教徒の人々が作ったものに根ざすという説もある。インドネシアのイスラーム寄宿塾の存在は、16世紀の『スラット・チャボレック』や『スラット・チュンティニ』等、ジャワの古典に初めて出てくる。これらの出典から、イスラーム寄宿塾は、イスラーム法学、神学、神秘主義に関する古典的なイスラーム宗教書を教え、またイスラーム教布教の中心になっていたことを知ることができる。宗教省の1984-1985年の資料によると、16世紀には613のイスラーム寄宿塾が存在した。

 オランダ領東インド政府の報告によれば、1830年代のインドネシアには、1863の伝統的イスラーム教育機関があった。1885年にファン・デン・ブルグが行った調査では、14,929のイスラーム教育機関があり、その中で300がイスラーム寄宿塾だった。イスラーム寄宿塾は、数、質、制度面において成長を続け、1910年には、デナニャル・ジョンバン・イスラーム寄宿塾など、いくつかのイスラーム寄宿塾が、女子専用の寄宿塾を開いた。

 1920年代には、トゥブイレン・イスラーム寄宿塾、シンゴサリ・イスラーム寄宿塾など東ジャワのいくつかのイスラーム寄宿塾が、インドネシア語、オランダ語、算数、地理、歴史など一般教科を教え始めた。オランダ植民地時代、イスラーム寄宿塾は急速に普及したが、中には他のイスラーム寄宿塾とは違う特殊性を持つものもあり、そこでは、ハディース(注4)学、イスラーム法学、アラブ語、聖典解釈学、イスラーム神秘主義等が専門的に教えられた。

 その後、イスラーム寄宿塾はマドゥラサ(注5)の制度を取り入れた。この制度は、小学校、中学校、高等学校に分かれている。このマドゥラサの制度が、イスラーム寄宿塾の普及を促進し、その数が急速に伸びた。1958/1959には、国立の学校と同じ権利と義務を持つ、義務教育制マドゥラサが生まれた。さらに1965年にジョグジャカルタで開かれたイスラーム寄宿塾に関するセミナーの提唱に基づき、農工業などの技能をイスラーム寄宿塾で教えることの必要性について同意がなされた。

 スハルト政権時代には、政府は開発5ヶ年計画を通じて、イスラーム寄宿塾の育成を行った。イスラーム寄宿塾育成の資金は、関連する政府、つまり中央政府と地方政府から出された。1975年には、イスラーム寄宿塾を新たなモデルで発展させるアイデアが出てきた。それらは、開発事業寄宿塾、近代寄宿塾、イスラーム・センター、開発イスラーム寄宿塾などのモデルである。しかし、これらの寄宿塾には、寄宿生たちの手本となって彼らを指導するカリスマ性を持った教師がおらず、その育成は困難であった。

 その後、多くのイスラーム寄宿塾が、政府の定めた一般学校のカリキュラムを持った一般学校を設立した。さらに、宗教大臣、内務大臣、教育・文化大臣による共同決定書1975年第3号で、一般教科の少なくとも70%は、マドゥラサの全カリキュラムから採用することが決められた。アッシャフィヤー・イスラーム寄宿塾やアッタヒリヤー・イスラーム寄宿塾のように、高等教育機関を設立するマドゥラサも多数ある。(参考文献:『イスラーム百科辞典』)

注1)プサントレン: イスラーム寄宿塾。本文中ではイスラーム寄宿塾と記述。
注2)サントリ: イスラーム寄宿塾の寄宿生
注3)タミル語: 南インドのドラヴィダ語系言語
注4)ハディース: ムハマンドの言行録
注5)マドゥラサ: 宗教省所管のイスラーム系の学校。小学校、中学校、高等学校がある。



(翻訳者:山本肇)
(記事ID:ed0707131hy)

原題:Pesantren
http://www.republika.co.id/Koran_detail.asp?id=299944&kat_id=147



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