展示品
[作品30]
■グラーム・フサイン・ハズラテ・ジーのモスク
Mosque of Goolaum Hoossein Huzrut-jee 
(英語原文をよむ)

 1842年8月6日、我々の旅団は駐屯地を退去して3マイル[約4.8キロ]移動し、都市の城壁から半マイルのカーブル門に相対する位置、高名な聖者のモスクの近くに野営地を構築した。我々全員の士気は最も高い状態であった。これはノットが、シンド地方を通って速やかに後退せよという彼の受け取った命令に反して、この不名誉な命令に自分自身の解釈を加え、ガズニーとカーブルへ前進することによってより戦士にふさわしい方法で退却することを決定したからであった。したがって、もし(我々の唯一の情報源のアフガン人たちが伝えたように)、ポラック[少将]がペシャーワルから前進して来ないということが判明したとしても、我々はジャラーラーバードの救援に向かい、以前の過失や不運によって失われた地歩を順々に回復して、高くそびえる城砦であれ山深きあい隘ろ路であれ、[イギリスの]光輝が曇っていたいかなる場所にも、イギリスの旗を新しく建てるはずであった。

■聖人のモスク
 ここで本題に入る。我々の野営地に近い墓地の中に、聖人グラーム・フサイン・ハズラトジーのモスクがあった。このモスクは建立より200年を経ている。彼の聖性がもしその身の丈に比例するものであったなら、それはおそらく巨大なものであったに違いない。というのも、アフガン人が厳粛に述べるところに従えば、ちょうど320フィート[約97.5メートル]の長さがある彼の墓石は、彼の巨体がちょうと収まる大きさだったからである。中庭は440フィート四方の正方形であり、モスクの近く、反対側の壁の中央部分に霊廟があり、旗や枝角その他の装飾品がアフガン人の普段行なうやり方で飾り付けられていたが、それについてはこれから詳細に描写するつもりである。中庭の残りの部分には、王家の一族やこの国の以前の王の墓石が数多く点在していた。その独特な儀式や、中庭に入った者たちが行う数多くの作法などから判断する限り、この聖者の寺院は間違いなく、並々ならぬ尊崇の対象となっていた。

■さまざまな参詣者たち
5分の間に多くの民族を代表する者たちが、この神聖な場所で礼拝するために近づいてきた。こちら側には王侯の身なりをしたファールシーワーン (ペルシア人)の長が、目を上に向け、手を外側に広げ、アッラーの名を唱えるのに合わせて三度平伏している。あちらには、白くゆったりしたカミース[シャツ]、短くて青いパーイジャーマ [ズボン]、金色の刺繍が施されたふちなし帽を身に着けた長い髪で裸足のドゥッラーニーが、これみよがしに行われる礼拝の連続する各部分が必要とするとおりに、長々と地面に口付けたかと思えば跪き、それから真っ直ぐに立っている。敷居のところで動きを止め、両腕を恭しく胸のところで交差し、顔を半分首にうずめたような状態で「アッラー、エイ、アッラー」という低いつぶやきと頻繁なため息とを交互に発しつつ、我々が気づいてくれるのを期待して何度かこちらをちらりと見ながら立っているのは、この国で誰よりも不誠実で流血を好むある部族のギルジー――その顔つきはまさにシャイロックであるが、信仰心ではパリサイ人――である。ボンベイの「召使いたち」の一団が彼を荒々しく押しのけて通る。彼らは、汚物と不潔さで悪臭を発し、不潔な顔を体毛とぼろが絡まり合ったような体の上に載せている。上役は彼らに胴の短い上着を与えており、彼らの黒い足はサーヒブ[主人]が捨てた膝丈のズボンで覆われ、ところどころ顔をのぞかせる黒い肌には、「ご主人様の」衣装ダンスから借りてきた小さめのハンカチがまきつけてある。彼らはきちんと衣服を着た誇り高いアフガン人たちを仰天させる。というのは、彼らは半裸で霊廟の周りを走り回り、歌い、叫び、猿のようにきゃっきゃっと騒ぐのである。この国をさすらう商人であるロハーニー族 の接近してくる一団とは何と対照的なことだろう。彼らは、「各々の首筋を踏みつける」かのごとく歩いている。これより豪華な衣装がありえようか。彼らのズボンは足の甲のところでしっかりと留めてあり、裾の絹やモスリンはその60ヤード[約55メートル]の長さ(裾のゆとりとしては決して珍しくはない)の許す限り、きつく折り重ねられて膨らんでいる。胴の短く、田舎の女性のドレスのような刺繍の施された白い更紗の下着は、ゆったりとしたひだを作りながらひざに向かって垂れ、非常に高いターバンは彼らの赤銅色の顔の上に載っている。彼らの周りにぞんざいに巻き付けられ、原始的で奇妙な形の武器をその中に織り込んだ陽気なルンギー [腰巻き]が際だっている。

■ロハーニー族
 ロハーニー族の暗色の巻き毛、整った形をした顔立ち、そして澄んだオリーブ色の肌は、他のどの部族の容貌よりも、私にヘブライの血統への民族的主張を思い起こさせる。アフガン人すべてが、多少なりともユダヤ人種に特徴的な濃い暗色の目と鷲鼻をしているが、おそらく他の民族との混交やその他さまざまな理由により、彼らは身体的にはずっと美しく堂々とした人々である。彼らは、ユダヤ人の特徴、とりわけ、誇張されるもっとも顕著なそれ、つまりわがイギリスのユダヤ人に認められるパンチ のような容貌を持っていない。おそらくこうした特徴は、限られた人々の間での同族婚の結果なのであろう。

■死者の日
 こうした観察に基づき、私はこの預言者の墓地の話題からそれることにする。というのは、この話題を私の本のなかで終わらせるには、死者を悼んで泣くという特有の習慣と、この墓地やその他の墓地を訪れた者たちが一般的に採る墓を飾りつける方法について、簡単に触れずにはいられないからである。春の初めのある日は「死者の日」と決められているが、この日は墓地を訪れるための日であり、墓地では、とりわけ女性が集まって大人数となって、死者を悼むのである。彼らはその悲しい務めを定律の詠唱から始め、それが徐々に大きな声でのむせび泣きや、悲嘆や苦痛を表す非常に甲高い叫びへと高まっていく。

■カーブル近くの墓所の経験
 私が鷹を拳に乗せ、カーブルにあるバーブル帝の墓廟のすぐ下にある墓所を馬で駆け過ぎたのは、1841年4月初めの、うすら寒く身を切るような日のことであった。その墓所は低い山並みのでこぼこした尾根に沿って広がっており、ひび割れた高い墓石がギザギザに積み重なり、澄んだ青空を背景にくっきりと立っているそのさまは、非常に遠くから見ても際立っていた。白いヴェールを被り、黒や青の服を身に付けた数え切れないほどの人影が墓の間をまるで影のように動き回り、未だ冬のような風が吹きすぎたとき、嘆き悲しむ者たちの慟哭を運んできた。女性やあどけない少女が死者の静かな部屋を早咲きの花で飾りつける。というのは、彼女たちは、暖かい雪の下で、春の陽光が生えている岩の裂け目に差し込むや、その冬の覆いからつぼみをほころばせようとしているスミレやアネモネを見つけたのである。他の者たちは、雨が降らずに可能な場合はいつも、石や赤い粘土製の小さなランプ(チェラーグ )を灯し、墓石の窪みに置き、あるいは墓の周りに並べた。ここで彼らは、凝視し、むせび泣き、跪いた。若い者も年老いた者も、しわくちゃの老婦人、年若い美人、高貴な生まれの者、卑賤の生まれの者、強き者、弱き者みなである。年齢や状況は非常に異なってはいるが、すべての者がそこで頭を垂れ、新たに死んだ者やずいぶん以前に埋葬された者を悼んで泣くという一つの同じもの悲しい務めに没頭していたのである。挽歌の拍子に合わせて自らの胸を渾身の力で叩く者がいた。湿った地面に体を投げだし、頭は土まみれで、悲嘆のあまり、長い間すすり泣きや呻いている者もいた。暴風に顔をさらし(湿った風がヴェールや髪の房を巻き上げるのである)、一人の不信仰者が罪深くもそこにいて、視線を向けていることなど構いもせず、腕を天に向かって広げ、彼らの足元の墓土と同じように押し黙って動かずに立っている者もいた。新しく掘られ、飾りつけられた墓のそばにいた一人のアフガン人の哀れな少女は、彼女自身がすっかりそこに埋められてしまったかのような様子であった。彼女は「ワーイ、ワーイ、ワーイ」(ああ、ああ)と詠唱していたが、私はそれを人生の最後まで忘れることはないであろう。そして、彼女は悲嘆により狂乱状態となり、髪の毛を引きちぎり、「慰めを拒否するラケル」[『新約聖書』マタイ福音書2章18節]のように、体を前後に激しくゆすっていた。

■墓所のもの悲しさ
 彼らの墓所を駆けすぎる際に私は何度も立ち止まり、そして以下のような結論を下すに至った。すなわち、花や小枝で趣味よく飾りつけられた大理石の墓石や斑模様の小石細工の区画がきれいに並んではいるものの、こういった墓所(都市の郊外にあるものはとりわけ)、私が放浪の旅の記憶のなかで、最も寂しくもの悲しい場所であるということである。非常に多くの墓所には、茂みや樹木もなければ、生育の止まった糸杉や硬くなったユソウボク(通常彼らの墓地で好まれるもの)もなく、これらがそこに眠る者たちの頭上や足元に立つ長い黒い磨かれた墓石の林を明るくすることもないのである。

■小石の山
 そこここに、死者の友人や通りすがりの参詣者たちの手で遺体の上にばらばらに投げ捨てられた小石の山があり、小さなピラミッドのような形になって、中央に杭が立てられ、そこに哀悼の意を表した旅人がつけたおそらくずいぶん昔の旗や、色のついたぼろ布がつけられていた。これらは「兄弟の敵意の哀れな犠牲者たち」が血讐において打ち倒されたり、深夜の暗殺者の長いナイフに倒れたりした――どちらの出来事も、無慈悲なアフガン人たちの土地ではありふれた事件であるが――場所を示している。

■他の墓地の飾り
 他の墓地には、預言者の真の信奉者たる死者の魂が楽園へ向かって飛び去ってゆく道筋を上方へ指し示す、上部に金属製の手がついた緑の旗が勇ましく立っている。そのまわりには、力強さや権力の目印となる雄羊の角と羚羊や山地の羊の枝角が混沌と並べてある。これらとファキールのタクヤ 、すなわち尊き托鉢聖職者の住処が、興味をそそるが恐ろしいこれらのアフガニスタンの山地の戦士たちにとっての最後の家を第一に特徴付けるものとなっている。そのタクヤは泥の壁に囲まれ、屋根からぶら下がるさまざまな形と色をした旗、アイベックスや野生のヤギの螺旋状の角、カジキの鋸歯、法螺貝の殻、ダチョウの卵などで飾られているのである。


 
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