展示品
[作品29]
■カンダハールの貴婦人
Kandahar Lady of Rank 
(英語原文をよむ)

 アフガニスタンの女性たちの衣装や特徴の続きを述べるにあたって、私は、この機会にベーガム・ジャーン(生命の女王)という名のバーラクザイ族の貴婦人の肖像画を紹介することにする。外出や乗馬の際、アフガニスタンの貴婦人たちは、頭のてっぺんから足まで届く、1枚の非常に大きな白い布を身につける。これは長い四角のヴェールであり、頭の後ろ側には金か宝石のブローチを一つ付け、顔を覆い、横切るように光や空気を通すための網細工の窓が付いている。その衣装はブルカと呼ばれている。ブルカは全身を覆い隠してしまい、その輪郭すべてがわからないほどである。そのため、余所者が、最初に、自分の周りを行き交う全身を覆った人たちを通りで見かけても、それがどのような階層の人なのか判断に困っても当然と言えよう。彼女たちは、体に巻きつける布の他に、キャラコ[光沢のある平織綿布]でできた長くてゆったりとした白い脚絆をつけており、絹のガーター(ダラクバンド )で膝の上で止めて、裏地を見せるために、折襟のように折り返してあった。これらの袋状の脚絆の基部、およびガーターはショール地で作られていて、「彼らの光輝く織物のなかで」コーランという「燃え立たされた神聖なる記念物に耐えられるならば、情熱と愛の行動は卓越したものとして記録される」[Milton, メParadise Lost,モ book V]ようであり、渦巻きや鳥の模様が付いていた。またゆったりとした脚絆やヴェールは白や色つきの絹で刺繍されていた。彼女達は馬に跨って乗るが、普通は、自分たちの夫か誰か女性の後ろに乗る。一人の場合には、男性が馬を引く。

■アフガンの住宅
 アフガンの家の建築構造は一般に独特である。部屋の側面は、全部か一部が開いたアーチとなっており、木製か石製の彫刻された柱によって支えられている。アーチでない壁は大小様々な壁龕(へきがん)で床から天井まで埋められ、そこに女性たちは衣類や、化粧箱、陶器、装飾品、乾燥果物、砂糖菓子それにカリヤーン(パイプ)などを収納している。壁の内側は滑石の粘土で覆われており、湿気がある場合には精巧な渦巻きや模様が浮き出し、この鉱物に共通の輝く銀のような性質が、全体に、明るく丈夫な外観を与えている。天井はしばしば様々な形をした鏡や、金色や彩色を施された木、色付けされたガラス、小石、そして、中間の空間を埋める四目格子で飾られていた。床の上には、詰め物をしたキルトが広げられ、その上にはこれより小さな豪華なペルシア絨毯が敷かれ、その上全体に花模様の白地のモスリンの覆いがあった。部屋の周りには、絹やビロード製の大小のクッションがつまれ、これにはたくさんの飾り房がついていた。冬には、これらのクッションで埋まるように、より裕福な人達はサンダリー の周りに集まって暖を取ったが、これは、低い椅子のような枠で、その下に炭火を燃やし、部屋の真ん中に置く。大きなショール地もしくは平織綿布の覆いをサンダリーの上に広げ、その覆いを家人が顎のあたりまで引っ張り、輪になって座って、それぞれの脚が中心で接し、心地よく暖を取るのである。この奇妙な慣行によって、快適に体の全体が暖まることは、私自身が証言することができる。

■ワファーダール・ベーガム
多くのアフガンの貴婦人は、夫婦間の愛情と彼女たちが支持した理想への献身により、歴史に名前を刻んでいる。これらのヒロインのなかで、私は1人の名前を挙げることがゆるされるかもしれない。それは、(その名はすでにアレクサンダー・バーンズ士爵の優れた筆によって、不朽の名声をえているが)ワファーダール・ベーガム(忠実な女王)で、シャー・シュジャー ・アル=ムルクの寵妃であった。彼女は、ラーホールに亡命していた間、臆することのない勇気ある決断力で、かの有名なコーヘ・ヌール(光の山)というダイヤモンドは、ランジート・スィングの強欲な手から守った。そして同時に、彼女自身をこの放蕩者の君主の求愛から、そして娘たちを彼のザナーナハーナ (ハレム) から救い出した。シャー・シュジャーは1809年に退位させられると、昔からの仇敵(ランジート)の慈悲を求めて身を投げ出そうと考えたが。彼は、妻の思慮深い助言に反してそれを実行したが、不誠実な主人ランジートによって、直ちに投獄され、野蛮に辱めを受け、コーヘ・ヌールは奪われてしまった。それゆえ、ベーガムは偽って我々の領地へ逃げ込み、彼の牢の近くの家の地下を掘る計画を立て、シュジャー救出のために街道に馬を準備し、王家の囚人を救出するという大胆な試みを助けた人々に冷静さと勇猛さの模範を示し、この作戦を見事成功させたのであった。

■ドゥッラーニー部との絶え間ない戦闘
 カンダハール軍が軍事作戦を展開していた間、すなわち1840年(アフガニスタンの残りには平和が訪れていたとき)に始まり、全面的反乱を経て、1842年8月8日に我々がカンダハールそのものから撤退する時まで続いたが、私たちは、ドゥッラーニー部と日夜の絶え間ない戦闘を行った。このドゥッラーニー部は、一時、カンダハール南方地域のザミーンダーワルのハーンたちであるアクラムとアフタルという2人の強力な指導者の下で、我々に対する最も真剣に敵対して結集した。1841年の8月17日に5000人からなる彼らの軍は、ヘラートとの境にある地方のデフラワド渓谷にある、スィカンダラーバードのガルヒー(砦)で、今は亡き勇敢で経験豊富なグリフィン少佐に率いられた部隊と遭遇した。グリフィン少佐の部隊は、4門の6ポンド砲、第2ベンガル精兵歩兵連隊350名、シャーの第1及び第5歩兵連隊800名、リーソンの騎兵部隊の一翼、さらにはジャーンバーズの騎兵部隊により構成されていた。敵は高台で我々を向かい打ち、すべての戦線において銃剣での勇敢な攻撃を仕掛けてきた。わが軍は戦死、負傷で350名の兵を失い、ドゥッラーニー側は戦場に700名[の戦死者・負傷者]を放置した。乱戦の矛先は第2ベンガル精鋭歩兵連隊に属する、クック中尉とトレイバー中尉の両歩兵中隊に向けられ、トレイバー中尉は単独で4名を殺した。このことから、この戦いが、我々がこの国に入って以来、それまで我々の軍の行った戦闘の中で最も血なまぐさいものであったことがわかる。敵側の700名の犠牲者は、キーン卿の遠征全体での犠牲者の3分の1以上であり、1840年2月以来に起きた30のどの戦闘と比較しても、2倍近くの戦死者数となっている。

■アクラム・ハーンの処刑
 この戦いのあと、いくつかの戦闘があり、双方に大きな被害を出したが、最終的には敵の完全な敗北に終わった。しかし、この2人の長は、依然、シャーに忠誠を誓うことを拒んだ。アフタル・ハーンはヒンドゥークシュ山脈に逃げ込む方を、次の道より好んだ。「叩頭の貢物はいまだ支払われておらず、平伏は卑しい。それは本当に卑しいことであり、恥はこの失脚の下にある。このように、恩寵のために平身低頭して嘆願し、ひざまずくことは」[Milton, メParadise Lost,モ book 1&5]。アクラムはそうではなかった。彼は「戦場で敗れても、決して屈したり、譲ったりしない勇気を持っていた」[Milton, メParadise Lost,モ book 1]。そして、不滅の憎悪をもって我々に挑んできた。勇敢な戦士! 彼は不運で、裏切られた。彼の決定はほとんど知られていなかったにもかかわらず、彼の敵は、諜報活動によって、カンダハールから70マイル[約113キロメートル]南に位置するヘルマンドのある村で彼が少数の従者とともに眠ろうとしていることを知った。夜のうちに急行し、裏切り者のスパイの案内で、彼の寝所は屈強の男達に取り囲まれ、彼は寝床で驚き、慌てふためくことになった。捕らえられ、囚人としてカンダハールに連れ戻された彼は、私刑によって裁かれ、彼があえて自分の立場を守り、自分が嫌う王と国家に忠誠を誓わなかったため、刑を宣告された――手足を大砲の砲口に括り付けられたまま、発射されるという刑を。この残忍で不当な判決は、裁定を下した人々の面目をつぶしたが、完全に執行された。

■未亡人の戦闘
 この日、すなわち1841年の9月から、1842年の初めまでドゥッラーニー部は、我々の防御戦への夜襲と我々の人員の時折の暗殺以外は、その手を休め、通常の堂々とした戦闘には現れなかった。しかし、その時、アフタル・ハーンが再び現れ、周辺の影響力がある部族長たちを加えて、15000から20000人の軍を率いたが、我々はカルアエ・シャクにおいて彼を配送させた。再び1842年5月に10000人の兵を従えて、英軍駐屯地に近い低い岩山を占領し、カンダハールへ下ってきた。敵が近づいてくると、前列の中央に白いものが見えたが、それはガーズィーたち(信仰のために戦う殉教者たち)の長たち、ムッラーたち、太鼓打ちや旗手たちの再結集の中心であるように見えた。これが、他ならぬ、虐殺されたアクラム・ハーンの勇ましい未亡人その人だとわかった。ブルカとともに臆病な性質を投げ捨てて、彼女はザナーナ の神聖な隠遁を捨てて、戦場の最前列に向かい、夫の軍馬にまたがって、夫の旗を手に持ち、その部族を召集した。近隣の氏族にも呼びかけ、アクラムの残虐な死の復讐をするために、一つの信仰とファランギー[ヨーロッパ人]たちに対する憎悪に基づいて、全員をまとめ上げた。死にもの狂いの戦いが起こった。その貴婦人と同盟者は400の兵を失い、カンダハールの北東の急流のアルガンダーブ川の向こうの彼らの宿営地まで撤退した。アフガニスタン史の年代記において最も特筆すべき戦いはこうして終わった。動機はまさに正当であり、自己犠牲はまことに気高く、より成功した結末に値するものであった。




 
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