展示品
[作品22]
■ウズベクのイールチーすなわち使節、ミールザー・ファイズ
Meerza Fyze, An Oosbeg Elchee, or Ambassador 
(英語原文をよむ)

 トルキスタン地方、クンドゥーズの国境地帯にある都市のフルムの君侯であるミール・ワリーは他所で触れるミール・ムラード・ベグに服属している。この人物が我々と接触することになったのは、カーブルの元アミールをみずからの宮廷で厚く遇し、彼に兵力を提供したばかりか、彼自身が我々に対して何度か遠征を行なって彼を助けたことによる。私の亡き兄はこの人々によく知られていたが、それは彼が、使節団が最初にバーミヤーンに入ってからカーブルのコーヒスターンに引き揚げるまでの期間、彼が担っていた政務官および軍人という二重の立場によって、顕著な活動を行なっていたからであった。ドースト・ムハンマドの動向を注視し、彼に講和の条件を提示したり、彼の家族や彼の弟である良きナッワーブ・ジャッバール・ハーンを人質としてバージュガーフの要塞に収容し、彼らをバーミヤーンまで護衛したり、ワリーとアミールの連合軍に対する数多くの戦闘に参加したりしていたのである。

■ジャッバール・ハーン
 英国の友人であるナッワーブ、ジャッバール・ハーンについて少し語っても、退屈だと思われることはないであろう。冬の間中ずっと、我々はフルムにいた彼と手紙のやり取りをしていた。彼はかの地でミール・ワリーのそば近くに居を定めていたのである。ブハラにおけるドースト・ムハンマドの投獄以降、彼は我々に保護を求めたいとますます思っていたようであるが、それでもまだ彼の心は揺れ動いていた。我々はすでに彼の優柔不断さにはうんざりしていたので、彼に対して、もし、しかるべき時までに自身とアミールの一族とともにカーブルへ向けてタシュ・クルガーンを出発しない場合、彼を敵とみなし、我々が彼のために取っておいた彼の土地を没収するだろう、と述べた。この脅迫がより効果的であるように、また我々が進軍するときに備えてあらかじめその地方を見ておきたかったし、族長たちの我々に対する感情を調査しておきたかったので、バーミヤーンにて指揮を執るガーベット大尉と政務補佐であったラットレー大尉が、300の歩騎を引き連れて、街道上の最も遠方の山道に向けて出発した。彼らが進軍するやいなやその地方はどこもかしこも大騒ぎとなり、各方面から族長たちが忠誠を誓うために殺到した。彼らが3度目に進軍した際、ナッワーブ自身からの使者が我々の許に到着し、彼と彼の一族が確かに我々の陣営に向けて出発したという知らせをもたらした。したがって、ガーベット大尉は自らの兵力とともにバーミヤーンへ帰還し、ラットレー大尉はバージュガーフに留まって閣下の到着を待った。

■会見の詳細
 ラットレー自身の言葉から、会見の詳細に関して述べる。「やがて彼[ナッワーブ]は到着したが、要塞の近くに野営しようとはしなかった。だから私は使者を送り、夕刻に彼を訪問すると伝えた。彼は疲れているという理由でこれを拒絶したが、翌朝街道上で私を迎えるということには同意した。私は夜が明けるとすぐに出発した。これは、彼に対し、高位の人物に敬意を表し、かの人が領地に足を踏み入れた瞬間に彼を歓迎する会であるイスティクバールを行なうためであった。その瞬間から彼自身とその家族、従者、馬、ロバなどは賓客となり、彼らすべてに食料を提供して、喜び満足した状態になるよう最善を尽くさねばならないのである。少し経ってからジャッバール・ハーンが現れた。彼は400の完全装備の騎兵からなる随員を引き連れ、歩くような速さで私に近づいてきた。私は道の中央で立ち止まると、彼にサラーム・カルド[挨拶]した。その後、彼は私をアミールの息子たちに紹介した。彼らは黒い目をし、顔立ちの良い礼儀正しい若者たちであり、詩人の言葉を借りれば、いまだ「隼が獲物の血でそのかぎ鉤づめ爪を染めるごとくに手を赤く染めたことがなく、チューリップの苗床が夏のその花を咲かせるがごとくその白き剣を血で薔薇色にしたことのない」者たちであった。それから、我々は再び道を進んだ。

■ナッワーブとの会話
 ナッワーブは知性的な風貌を持った立派な老人であり、その言葉はぶっきらぼうではあるがそれほど不愉快なものではなく、身のこなしは礼儀正しいが、その流儀には一種向こう見ずなところがあらわれていた。彼は我々が彼を冷遇したと非難し、自身の国家の対する働きを誇った。彼が、どのような気性の人間を相手にしなければならないのか見定めようとしているのを見てとった私は、職務上の義務からお辞儀をして賛同の意を示した。すると彼は私を個人的に罵ったが、これも私は出来る限り礼儀正しいお辞儀をしながら、静かに甘受した。これを見て、彼はおつきの人々に向き直って言った。「このファランギー[ヨーロッパ人]たちはやはり悪い人間ではない。彼らが私に対してあのようにひどい仕打ちをしていなければ」。私がどの点についてかと彼に尋ねると、彼は答えた。「1個連隊の歩兵と1個連隊の騎兵、それに大砲1門を送ってあなたの最も良き友人を捕らえようとしたことだ」。私は彼に、我々は街道の様子を見に行っただけである、と述べた。彼は笑って手を打ち鳴らすと言った。「神は我々をお守りくださる。ワー! ワー! 黄昏時に街道を偵察するために大砲を移動させるなど、一体どこの誰が聞いたことがあろうか。不可思議なことだ」。我々は大砲など持っていなかったと、私は彼に断言した。「取るに足らんことだ。」彼は答えた。「私はあなた方を知っている。あなた方は私をチャーパウルしようとしたのだ。サイガーンでグラーム・ベグにしたようにな(6ヵ月前に起こったことであり、他所で触れる)。あなた方は一風変わった人たちだが、多くの美点を持っている」。
 彼は少しの間沈黙し、私の発言を空しく待っていたが、彼はまた違った口調で話し始め、私への賞賛と、私の名が彼らの間であらゆる美徳のゆえにいかに有名かということを歌い上げた。私は答えた。「ナッワーブ・サーヒブ [閣下]、あなたは親切にもそういってくださった。私はそうした名誉を誇りに思うが、私はそれには値しない人間である」「そうか、ならば」。彼は言った。「あなたには、もっと他の事を言うとしよう。あなたは、この国の1人のファランギーの最悪の例であり、バド・ナーム (悪名)と、思慮に全く欠け、愚かさと、ベー・アクル (知恵のなさ)の最悪の見本だ。これであなたは満足ですか。私が真実を述べ、私があなたについて実際に聞いたこと語っても、あなたは信じようとなしない。多分、今私があなたに言ったことは嘘であるし、こんなことを私は聞いたこともないが、多分これならばあなたは信じるのであろう」。私は狼狽することなく答えた。「これらのバド・ナームもあなたの親切心によるものです」。それから、我々は1日1日と旅を続けたが、その間冗談や物語、議論で旅程を短く感じられた。そして、私がこの風変わりなナッワーブを[キーン]卿閣下に引き渡したときには、我々は固い友情で結ばれた友となっていた」。

■称号の意味
 ナッワーブ とは、厳密に言えばマホメット[イスラーム]教の貴人に対するヒンドゥスターニー語の称号である。これがジャッバール・ハーンに対して用いられているのは、彼が以前インドの州を統治していたからである。アフガン人たちは、民族として一般に良質のユーモアと冗談に満ちている。会話と同じくその物腰も自由で自主性があり、彼らは他のアジア人たちの悪賢くこびへつらうような言葉や、誇張の過ぎた話し方とは非常に著しい対照をなしているのである。しかし、トルキスタンにおけるナッワーブの同盟者のことを、もっと観察してみることにしよう。

■ウズベクの使節
 私はこの絵のウズベク人を、コーヒスターンのラグマーニー要塞でスケッチした。彼はミール・ワリーからのイールチー (使節)で、その種族の輝かしい見本ともいうべき人物であり、ウズベク人にしては堂々としていて器量がよく、一般の同国人たちに比べてずっと顔色が良かった。他所において戦時と平時における彼らの奇抜な性質をいくつか詳述したが、以下に彼らの裏切り行為の例を挙げて、彼らの話題を終わりにしよう。1840年9月、フルムの君侯との間に交渉が進行していた。彼はヤーギー、すなわち我々の統治に不満を抱いていたにもかかわらず、シャー[・シュジャー]への忠誠を誓うために息子とワズィールを派遣した。彼らはあらゆる敬意を尽くして迎えられ、高価な贈り物が彼らに与えられ、ワリーの国境線の画定は満足できる状態で進んでいた。しかしその時、息子がしかるべき敬意を持って遇されていないと感じた短気な殿下は、何通かの馬鹿げた報告のせいで憤激し、もう1人の息子を400の騎兵と共に派遣し、あるはずのない侮辱の廉で我々を即座に罰しようとした。この突発的事態の知らせは、交渉がまとまろうとしているその時にカーブルに届き、このためにフルムの使節は状況がはっきりと判明するまで拘留された。

■ウズベクの奸計
 この間、国境地帯のこちら側のある族長がこの変事を我々に復讐する好機だと考え、バージュガーフの司令官を「遊技を喰わせた」[騙した]。別の言葉で言えば彼を売ったのである。彼は司令官に対して、彼の言うところに従えば、彼の要塞を引き渡したいからといって100名のグルカ兵を派遣させるよう説き伏せた。悪賢い族長はこの不運なまぬけたちを掌中に収めると、すぐに40マイル[約64キロ]離れたところにいるもう1人の族長に書状を送り、ファランギーをディーグ 、すなわち大鉢の中に捕らえたことを知らせ、こちらに来て彼らを壊滅させるのを手伝うよう要請した。殺人と掠奪に生きる悪党にも、これほどすばらしい機会が失われずに残っていたのである。そうして、歩騎300に上るみすからの氏族を率いて城外へ出た。彼らは、不運な捕虜たちは簡単に彼らの餌食になるものだと思っていた。しかし、この点に関して彼らの期待は裏切られた。その小規模の集団は彼らを迎撃する準備が出来ており、トゥルクたちの猛烈な突撃をまれに見る堅牢さを持って食い止め、実際兵力において200名も優る彼らを本当に撃退することに成功したのである。

■撤退と救援
 しかし、ここへ来て彼らは要塞からの砲火を受けたため、これを持ちこたえることは当然出来ず、彼らは整然として統制の取れた退却を開始した。ウズベク人たちはこれに乗じ、再結集して高地を占拠すると、木々や庭園の壁、岩、果樹園の後ろから、敵を縮み上がらせるような砲火を彼らに浴びせかけた。グルカ兵(ネパールの現地民で卓越した軽歩兵)は、渓谷の中の広大な杏の果樹園を抜けて4マイルほど後退した。その果樹園は、そこここでその幅が100ヤード[約91メートル]を超えていなかった。両側の岩全ての頂上は敵のジャザーエルチーに占められており、またトゥルクマーンの騎兵はその小さな集団の周りをぐるぐると駆け回りながら、槍を振り回し、隊列を崩そうと彼らに向かって発砲したが、成功を収めることは出来なかった。彼らの弾薬が尽きようとする頃、グルカ兵たちは工兵隊のスチュアート中尉の指揮する2個中隊の増援を受けた。全く好都合なことに、その工兵隊はやや離れた場所で調査を行なっていたのであり、グルカ兵はほんの偶然により壊滅の淵から救われたのである。この悲しむべき事件で、彼らのうち15名が戦死し、さらに25名の負傷者を出した。つまり、負傷者それぞれが彼を連れて行く仲間を1人だけ必要としたとしても(そして、この目的のためには絶対に1人以上が必要となるのであるが)、100名のうち戦えるのは35名しか残らないことになるのである。隊の中に軍服や装備を打ち抜かれていない者は1人もいなかった。この惨事は要職にある将校の無思慮によって引き起こされたものであり、結果として彼は政庁所在地[カルカッタ]に召還され、その職を解かれた。その派遣隊はヨーロッパ人の軍曹の指揮下に置かれた。

■ウズベクの来襲
 不完全ながらもこの勝利がウズベク人たちに自信を持たせたため、彼らはバージュガーフ要塞を攻撃することを決定した。結集した彼らはドースト・ムハンマドのために戦うことを誓った。数日後の夜、要塞の守備兵たちは哨所がウズベクの騎兵によって攻撃を受けたという知らせで目を覚ました。そして翌朝早く、1発の銃弾と、それに続いて鋭く浴びせられる砲火が彼らを驚かせた。ラットレー大尉は300のアフガン騎兵とともに出撃し、前面にある胸壁に至ったが、そこからは、彼らの位置から1マイルほどのところにある渓谷がトゥルクマーンの騎兵で黒くなっており、両側の高地には彼らのピヤーダ、すなわち歩兵が密集しているのが見えた。司令官が彼らを追い散らせると思うかどうか問うと、ラットレーは当然のように肯定し、そのために防御施設の外へ出撃した。しかしながら、彼の部隊に対する敵の砲火が非常に強いのを悟って、彼は勇敢で小柄なグルカ兵の中隊のために道を空けた。グルカ兵たちが丘を掃討してピヤーダの注意を彼から逸らすと、彼は馬で丘をどんどんと駆け上がってウズベクの友人たちと対面した。

■アフガン兵の突撃
 彼らから400ヤードのところまで近づくと、剣を抜けという命令がペルシア語で下され、「アッラー、ヤッラー」という叫び声をあげてアフガン騎兵はウズベク人に突撃をかけた。敵は全く動くことなく、ケトルドラムを激しく打ち鳴らして彼らに向かって発砲した。その銃火の中をアフガン兵が10ヤードの距離にまで近づいた。すると、ウズベク人たちは一斉に向きを変え、背を向けた。一番前にいた者たちは馬首を返す間もなく斬って落とされ、一瞬にしてすべての者が入り交じった。白兵戦で切り伏せ、突き刺しながら道を切り開き、1、2マイルの間彼らを交代しながら追っていくと、ラットレーは自分がほとんど独りになっているのに気づいた。彼のアフガン兵たちは不意に止まり、彼らの慣習に従って死者や負傷者の身ぐるみを剥ぎ、輜重(しちょう)を掠奪し、自由になってありとあらゆる方向に駆け回っている馬を確保しようとしていた。半時間ほどの遅れをもって、ラットレーは兵を[再度]召集した。勇敢なる「人売り」たちは再び隊列を組み、太鼓を打ち鳴らしてすさまじく好戦的な様子で叫び、わめいていた。再び「アッラー」という叫び声を上げると、アフガン人たちは彼らに突進し、また先ほどと同じような、方向転換と急襲と掠奪目的の停止と大混乱が繰り返された。ついに彼らは多大な犠牲を払って、彼らを遠く彼ら自身の要塞まで追い散らしたのである。

 
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