展示品

[作品21]
■ジャグダラク渓谷
The Grove and Valley of Jugdulluk 
(英語原文をよむ)

 ジャグダラク、恐ろしい名で、非常に恐ろしい内容の知らせに満ちている。「破滅と深い悲しみの前触れ、宮殿を墓に変えるもの」[Byron, メthe Giaourモ]、誰が、汝のことを耳にせず、その響きに震えないだろうか。ジャグダラクの名は、その暗く陰鬱な関連から、イギリスの政府や議会にとどろき、イングランドの最も強力な、勇敢な、そして高名な若者たちの心に、恐怖や不安を与えた。貴族、戦士、そして政治家はうなだれて深い沈黙の中、「彼らは全員死亡し、軍は全滅である」という、その悲惨な話に聞き入った。ジャグダラクの名は、突然に不意に、宮殿にも小さな家にも同様に入った。虐殺された者に対する祈りが「深夜の息もつけないほどの深い悲しみの中でささげられた」[Felicia Hemans, メThe Treasures of the Deepモ]そして、青ざめて心配している家人たちの「無駄な思慕が陽気な歌の中で目覚めた」[Felicia Hemans, メThe Treasures of the Deepモ]。ジャグダラク、それは血に染まった雪の渓谷であり、峠である。そして、なんと多くの、若く信頼できる心の実現しそうもない希望や、大切にしまっておいた思いを、あなたは持っているのか。過去の贖いを壊さず、傷つけずに。この不幸な世界で、あなたが永遠に断った、時を経て長く続くはずの絆がなんと多いことか。汝の悲運の障壁においては、女性の愛が倒れた。若き希望と喜びの盛りにある若年兵。希望に溢れているが、しかし、野望という点では若い仲間よりもより熱意はない壮年の戦士。そして、苦役と失望の年月に疲れ果て、家に帰って休むことを考えている白髪の古参兵。これらすべての者が、皆一様に、裏切り、絶望、渇き、飢餓、致命傷、生物を食い尽くす霜や雪の組み合わさった力の前に、倒されたのである。アフガニスタンの荒涼とした山々の中で、誰がこの災難を我々の頭上にもたらしたのかということについて、なんとたくさん彼らは答えなければならないのだろう。誰が娘や姉妹、妻の部屋を憂鬱で暗く、わびしいものにしたのか。女性の血を流している心から、誰が「埋葬されておらず行方不明の死者のための」彼女の激しい弔いの泣き叫びを絞り出したのか。誰が、深く、しかし押し殺した悲嘆、父たちの憔悴した唇、母たちのむせび泣きや激情をもたらしたのか。「彼らの源泉を満たした流水が消えうせ、彼らの心を温めた血が流がれる」[Byron, メThe Giaourモ] 。

■1841年10月の戦い
 王立第13連隊と第35ベンガル軽装歩兵連隊の将校たちの幾人かは、彼らが突如カーブルに行くことを命じられたとき、コーヒスターンで私の兄を訪問中であった。カーブルとジャラーラーバードの間の山道が、山岳の部族たちの大軍によって封鎖、占領され、両連隊は直ちにこの間の交信を再開させるように求められているという情報が入ったのだ。10月12日に、ロバート・セール士爵の指揮の下、彼らはフルド・カーブルの恐ろしい山道を押し進んだ。彼らは、ハフト・コータルからテズィーンの谷へと降った。そして、ジャグダラクの谷間の木立の近くに野営した。この恐ろしい隘路(あいろ)
の入口はこのスケッチの左に開いているが、端から端まで2マイル[約3.2キロ]であり、非常に曲がりくねって、狭く、そして急勾配がある。この山道を通り、この恐ろしい隘路の入り口へ進む間、彼らの犠牲者は総計、死傷者124人に達した。その中には、戦死した第35現地民歩兵連隊のウィンダム大尉、重傷の同連隊のコーンベス中尉、および同じく重傷の第13軽装歩兵連隊の3人の将校たち、ジェニングス中尉、ホルコンベ中尉、ラットレー中尉が含まれていた。この勇敢な部隊は17日間の昼夜、60マイル[約96キロ]にわたって戦い続け、その間の将兵の死傷者は200人に達した。どのように、彼らが一つ一つの障害を乗り越え、そしてカーブルからジャラーラーバードへの寂しい荒野を1インチ[2.54センチ]ずつ戦って進んだのか、ということはすべての人に良く知られている。ギルジー部の族長たちの一部のこの決然とした抵抗の間、彼らの真剣さに関して、カーブルの当局の心を何の疑念もよぎらなかったようである。この我々を破滅させるための最初の共同の作戦は、平凡な事件として扱われ、山賊の小さな争いに起因するとされた。彼らは、太古から戦いと略奪の習慣を続けており、彼ら自身の族長から独立して、制御されていないのだから。

■反乱の経過
 11月2日に、アレクサンダー・バーンズ士爵と彼の友人たちの殺害、そして彼の屋敷と財産の破壊。カーブル市内のほかの住人たちの脱出の困難。バーンズの屋敷の向かいの宝物庫の喪失。アフガン人たちの強まる大胆さ。彼らは、1人で戦闘に立ち上がり、さらに時を移さず、駐屯地とバーラー・ヒサールの近辺で作戦が開始した。これらのことは、ああ、本当になんと恐ろしい現実を示したことだろう。すなわち、東部ギルジー部の部分的かつ散発的な蜂起の代わりに、長い間創意工夫され、熟慮され、そして堅く隠蔽されていた策略――それが近づいていることを我々は知らなかったのだが――が、その犠牲者たちに対する行き場のない憎悪と長く鬱積した報復という大洪水となって、まさに押し寄せようとしていた。犠牲者たちには、それは、準備されたものではなく、ぐずぐずしていて、慌てふためいていると考えられたが、それどころか、アフガン人たちは勢い、機敏さ、迅速さの見本を示した。そして、彼らの、反乱における最初の成功からさらに進むために、一瞬も見逃すことはなかった。ペルシア語の声明文が国のすべての地域に急派され、彼らが得た優位を知らせた。そして、忠実なものたちを[イギリス人の]駆逐の任務に立ち上がるよう扇動した。孤立した分遣隊は攻撃の標的となった。ガーズィー[聖戦士]たちの軍は、あちらこちらに進軍し、醜い裏切りとナイフによって、疑うことを知らない外国人たちを根絶しようとした。

■コーヒスターンの情勢
 まさにこのような一団が、アレクサンダー・バーンズ士爵の殺害の翌日に、恐ろしい目的を持ってニジュラーウ山脈や、美しいコーヒスターンの谷を横切って、ラグマーニー の要塞へ進んだ。コーヒスターン派遣団を守る騎兵の増員のために、強壮な男たちが求められているという通達が谷全体に発せられていた。この状況を利用して、悪魔のような策を隠して、11月3日に、ニジュラーウの長たちが、これまで帰順のそぶりすら見せなかったのに、従者たちとともに、(ポッティンガー少佐と私の兄が駐留していた)ガルヒーもしくは要塞にと真っ直ぐに乗りつけた。そして、サラーム[挨拶]を行ない、彼ら自身と騎兵たちを護衛のための志願者として申し出た。彼らが到着した際、私の兄は自分が大変信頼している、あるペルシア人に警告をうけた。それは、彼らを迎えてはならず、決して、彼らを迎えるために要塞を離れてはならない、というのは、カーブルにおいて砲火が聞かれ、そして大変悪い知らせを同じ地域から届いたからであるというものだった。そうすることが義務だと考え、(1ヵ月前に、彼は我々の陣に裏切り者たちがいることに十分気が付き、そして、そのことについての自分の危惧を報告していた)彼は、笑みを浮かべた長たちを大変な名誉をもって歓迎し、そして彼らとともに要塞の外門まで下りた。彼は、門から近い距離で整列していた、ヒドマト(軍務)のため連れてこられた騎兵たちを閲兵した。そして、彼らの名簿をつくり、それぞれにいくらかの金額を自分の手でしはらい、彼らの敬礼を受け、引き返した。彼が要塞に入ると、代表者が後についてきて、もう一度外へ出てくれるように頼んだ。再びペルシア人のアリー・アスカルが警告したにも関わらず、私の兄は大胆にもそれを実行した。グルカ族のムンシー すなわち書記と一緒に、彼は騎兵のところへ到着した。

■策略による兄の殺害
 騎兵たちは三日月形を形成していが、これはめったにしないことだった。暗殺者たちの1人が彼に向けて銃を構えたとき、それに気が付いて、彼は叫んだ。「アズ・バラーイエ・ホダー、チェ・メーコニー、バッチャ 」(いったいぜんたい、おまえは何をするのか、若者よ)。他の者たちはその凶悪な例に続き、この大変腹黒い裏切りの犠牲者は倒れた。それに続いた混乱の中、ムンシーは大腿部に負傷したまま馬の脚の下に逃げこみ、ポッティンガー少佐は、何人かの偽りの交渉者たちと交戦していたが、どうにか要塞の内部に逃れた。へラートの英雄であるこの勇敢な将校は、最近カーブルに到着していた。そして、彼の高い功績に相応しい地位がそのときなかったので、コーヒスターンの政務官職が彼に与えられた。この異動により、私の兄は彼の部下となった。兄は、その時まで、全権公使および公使の政治補佐官としてこの渓谷を1人で担当していたのである。ポッティンガーが塁壁を登ると、(後に彼が私に語ったところでは)彼はラットレー大尉が地面に倒れており、ひどく負傷しているのが見えた。彼はしばらくの間、まだ息があるまま、そこに横たわっていた。そこへニジュラーウ人たちが到着した。彼らはハーゼルバーシュ の陣から略奪を行った荷物を持って戻ってきていた。このハーゼルバーシュという言葉は、幾人かのアフガン人の騎兵部隊につけられたもので、「常に準備している」ということを意味する。彼らは以前の護衛であり、ポッティンガーその危機を警告したのみならず、最後まで忠誠を保った。私の兄の近くを通り過ぎた悪党たちは、1人が彼の頭を撃ち抜くことによって、その苦しみを終わらせ、同時に他の者たちは彼の体にマスケット銃を発砲した。彼の悲運のために、友人たちが感じた重い悲しみは、十分に苦いものであった。彼は、壮年期の初めのすばらしい時期に、この世界が与えうる、あるいは最も野心的な兵士が望みうる、もっと幸せな可能性を享受しているただなかに、このように倒れたのである。

■兄の遺体の扱い
 そして、死の前に苦痛はあったが、死の後には埋葬が来て、彼の遺体が汚されたり切断されたりしなかったことを知ったのは、なんという慰めであったことだろう。我々が後にカーブルに到着したとき、当時彼に仕えていた5人の異なる者たちの口から、疑いなくこの場所を突き止めた。私は、数週間にわたって彼らに別々に質問したのである。彼らは、キジィルバーシュのミールザー、グルカのムンシー、ペルシア人の執事、アフガン人の騎兵、そしてインド人の料理人であった。彼ら全員がそれぞれ神聖な誓いをたてて以下のことを私に保証した。アフガン人は異教徒たちをあとかたもなく壊滅させることが彼らの義務であると考えていたにもかかわらず、この場合、その必要性を悔やんだ。彼らは彼をすべての異教徒の侵入者たちにたいする宗教的な憎悪により殺害したが、しかし、彼らが彼を1人の兵士や友人と見なしていた評価によって、その遺体に対する虐待や侮辱を明確に禁止した。そしてこれに加えて、彼らが他の犠牲者たちに対しては例外なく拒否していた、しかるべき埋葬を行なった。私は慎重に描いているが、しかし、カーブルの悲劇全体の期間を通して、これほどの、このような忠誠と良い感情(比較的にではあるが)の2番目の事例は、記録にはないと確信している。

■グル・フサインの忠義
 これらの記述に、他の一つの事例を加えることは私の喜びとするところであり、それは私自身と私の兄の個人的な配慮によるものである。グル・フサインという名前の1人のアフガン人の少年が、数年間にわたって、彼の不運な主人である私の兄に忠実に仕えていた。彼は、カーブルにおいて我々を認め、一丁のイギリスのピストルと一本のペルシアの剣を持ってきた。これは、彼が私の兄が殺害された際に奪い返して、いつか我々に再会するときのために、安全に手元に保管しておいたものであった。私はアフガン人を好きではないし、彼らのせいで、大変苦しみ悲しい思いをしいたが、以下のように述べざるをえない。つまり、彼らの責任に帰されているたくさんの悪事や、最も黒く染まった数多くの犯罪のなかに、私は彼らの小さな美徳を知っている。特に、不幸で前代未聞の事件のため、一般に彼らは一つの良い資質もない人々であると信じられているが、「野蛮な美徳さえなしに祝福された。一つの自由なあるいは寛大な心もなしに」[Byron, メthe Giaourモ]、彼らの美徳は少なくとも彼ら自身のものであった。次の事を付け加えられたならと思う。彼らの悪徳や賞賛できない資質は、彼らの成長のなかで育まれたのではなく、我々自身の躊躇、無気力、そして最後に、不名誉な降服によって10倍になったのである。

■チャーリーカールでの反乱
 ラグマーニーから、戦闘の叫びやうめき声は2マイル離れたチャーリーカールへ渓谷に瞬く間に広がった。勇猛なコドリントンの指揮下にあった第4グルカ連隊がここで全滅した。高潔な将校に率いられ、圧倒的な敵に対して、臆することなく勇気をもって抵抗した。敵は、最も血に飢えた獰猛さと、狂信的な熱意によって突き動かされていた。彼らは恐れずに、23日間攻守にわたって力を発揮した。しかし、ああ! より強力な敵が戦場に現れ、彼らの疲れを知らない不屈の情熱を打ち砕こうとしたのである。彼らの、弾薬、水、食糧は尽きてしまった。渇きの恐怖を和らげるために、彼らはしばしば生肉の血をすすり、布を通して羊の胃袋を絞ることを余儀なくされた。地雷が彼らの足元で爆発した。これは彼らの手に余った。そのため、彼らは、唯一生き残っていた将校、ホートン中尉の周囲に再集結した。彼は、勇敢ですばらしい男であり、チャーリーカールで砲撃を防ぐ際に右の前腕を失っていた。彼らは無慈悲な敵に突撃し、あらゆる手段で戦い続けて、実際にカーブルに向かってまるまる2行程進むことに成功した。ここで彼らは包囲され、ポッティンガー少佐とホートン中尉、それに1人のセポイを除いて、残りの700名の兵士と将校、それに多くの女性たちに子供、そして非戦闘員は完全に虐殺された。

■フルド・カーブル
 残りの紙面で特に、このスケッチの中に含まれている土地と両側の峠に関して述べるためにこの悲しい過去を持ち出さなくてはならないということを、私の絵を見て思う。そこは「岩、洞窟、洞穴、沼地、そして死の影。死の世界。すべての生命が死に、死が生きているところ」[Milton, メHellモ]がある場所である。1842年10月、カーブルを出立すると、我々の道は、9ヵ月前に我々の不幸な軍隊が血の中を歩んだ、同じ暗いわびしい隘路に通じていた。カーブルの渓谷からブトハークの峡谷までの全行程に、あちらこちらに散らばっていた骸骨は、次に何が来るのかある程度我々に覚悟を決めさせた。しかし、まだ、我々が出会わなければならない吐き気を催させる光景に関して、いかなる作り話も作られてはおらず、いかなる恐怖も抱かれてはいなかった。我々は長く狭いフルド・カーブルの隘路へと入った。それは全長5マイルで、両側を、錐形の険しく切り立った山々によって囲まれていた。この峠だけで、3000人の人々が倒れ、2度と立ち上がらなかった。彼らの骸骨は、お互いに重なり合って波のように集まっており、死の気味悪い設計者によって、塚や壁、ピラミッド状に積み重ねられていた。我々がそれを崩した際に、骸骨がたてる音を聞くことや、彼らが砕かれるようにその骨を地面においたので、大砲の車輪がそれをすり砕くのが聞こえるのは恐ろしいことであった。このような、凍った痛ましい地域に、かつて愛された、美しいものたちが、冬の凍るような突風によって腐敗から守られて、彼らの湿った石の寝台に眠っている。そこは黒い丘の中腹の奥まった所であり、日差しは決して届かず、曲がりくねった小川を囲んでいる氷や雪が決して溶けないところである。

■ハフト・コータル
 我々が、3マイル[4.8キロ]の道のりがある、ハフト・コータルの曲がりくねった階段のような下り坂を下りた時、我々がそれまでのところ目撃したこと全てよりも、さらに恐ろしい光景に出会った。「身の毛のよだつ恐怖で青ざめて、目を見開いて。」[Milton, メParadise Lost,モ book 2]すなわち、この階段状の坂をテズィーンへと下る際に、家畜を除く、9000人の兵士と非戦闘員が道の一面を覆っていたのである。多くの例において、彼らの遺体は干からびたミイラのような外観をしており、なめし皮工場の臭いを放っていた。多くの遺体は氷結と保存されていた場所の影響により非常に完全な形で保存されていたので、色白の男は暗闇でも簡単に識別できた。友人はその友を、その乾燥した容貌と、顔の形、顎鬚や頬髯の剃り方、そして髪の色から確認できた。複数の例において、髪の房は形見として切られた。衣類の断片も多くの者の骨に付着していた。たとえば、頭部のない骸骨のしぼんだ腕の上には、それは(決して命乞いのためではない! おそらく友人や兄弟に向かって)膝をついて、跪いたまま凍っていたが、立派な素材の白い手袋が付着しており、身につけていた者が将校であったことを示していた。そして、馬の積み重なりのなかの、遺体の一つに付いていた騎兵の帽子の残骸と青い衣装の朽ちた断片は、どこで騎兵部隊が戦い、倒れたかを物語っていた。さらにまた、ビヒシュティー もしくは水運び人の皮の帽子、襟巻き、そして少量の黄色い裏布、そしてイギリス製の靴が回収された。生育不全の常緑の潅木の下に、干からびた遺体が厚く横たわっていた。そして、それらの間で一つの糸杉が不満そうに揺れていた。「暗い木、他の者たちの深い悲しみが無くなった時も、まだ悲しんでいる。それは唯一常に死者を悼む者である。」[Byron, メthe Giaourモ]このように、我々は、仲間たちの骸骨の導きによって、谷やでこぼこの崖を越えて、山から深い峡谷へと導かれた。陸標としての骸骨。骸骨の道標。誰が道を間違えるだろうか。「受難者の軍隊よ!これは全て汝の遺体でありうるのか?」

■ジャグダラク渓谷
 テズィーンから23マイル[約37キロ]のところに、ジャグダラクの渓谷が位置している。急勾配の上り坂であるその峠については、この記述の最初の部分において述べた。その黒い花崗岩のとてつもない壁の間に、バリケードの残骸が多くの場所にいまだに残っており、それは隘路を横切って山側にあった。それらは、骨や木の枝や頭蓋骨や岩を組み合わせてできていた。そのそばには、囚われ、閉じ込められた軍隊に対してもっともすさまじく死と破壊が降りかかった場所を示して、整然と白い骸骨の山が積み上げられていた。ここにも、我々が通り過ぎたバリーク・アーブ同様、岩の穴は遺体で一杯であり、あらゆる隅からにまっと笑う頭蓋骨が我々を覗き見ていた。そこに、哀れな人々が、暖かさを求めて、あるいはギルジー部の追跡者の恐ろしいナイフや、ジャザーエル銃の命を狙う銃火から避難するために、這っていたにちがいなかった。拱道もしくは坑道の入り口(たとえどれでも)およびバリーク・アーブの洞窟を、私は決して忘れないだろう。それらは、すべて、遺体の積み重なった山また山で一杯に塞がれており、これらがどうやってなかに入ったのか想像することが不可能であった。

■峠での出来事
 このスケッチの右側の荒廃した砦は、恐ろしい破壊の舞台であった。軍の悲惨な疲れ切った生き残りは、その壁の間を避難のために這っていったが、上の高台を占領した無慈悲な敵によって入念に虐殺された。この区画から、エルフィンストーン将軍がアクバル・ハーンから呼び出され、卑劣にもアクバル・ハーンによって捕虜とされてしまった。その結果として、憂鬱な生存者たちは、仲間の負傷者、瀕死者たちを見捨てて、絶望のなか渓谷に殺到して下って行った。そして、将校たちの指揮により、勇敢に、木立を越えて死の狭い入り口、すなわち、ジャグダッラク峠の入り口へと突撃した。彼らは激しい銃火の中、その隘路を進み、20人の献身的な将校たちによって率いられ、これらの将校は列をなし、先頭に立っていた。その時、落胆したことに、峠の頂上近くに6フィートの高さがある二つの防壁が彼らの行く手にあるのを見つけた。生じた混乱はとてつもないものであり、虐殺は途方もないものだった。ここで、兵士を除いて12人の将校が殺害された。将校のうち40人はなんとか逃げだしたが、どうにか馬に乗って進んだ12人を除き、皆順番に殺された。20丁のマスケット銃が、今や、現在ではかつては精強であった、軍隊の唯一の代表であり、アフガン人たちが行く手に待ち構えていた。彼らは急いだが、ほとんど全員が高くなった場所から狙い撃たれた。そこがガンダマクの近くで、剣を手にしたアフガン人たちの急襲によって、恐怖の虐殺がほぼ達成された場所であった。

■生存者たち
 6人の将校がなおも生き残り、ファトフアーバードへ到着することに成功した。そこは、何人かの老人や女性が彼らを哀れむふりをして、ナーン (パン)を提供した場所であった。彼らは愚かにも、二心のある悪党たちが武装するまでそこに留まった。悪党たちは哀れなブリューやバード を石や棒で馬上から叩き落とすことに成功した。今や生き残りは4人で、そのうち3人は、彼らの希望の避難所から4マイルのところで追撃され殺された。ブライドン博士を残して。彼がジャラーラーバードにおいて悲惨な話を伝えたのである。ブリュー大尉の友情に感謝し、彼の才能と人格の堅固さを尊敬し、そして彼の不屈の勇気と高潔な行いに感嘆している。特に、彼の最後の大きな現世での試練において示したものによって、その心が親切と実直、慈愛に満ちていた彼の思い出に対する、この小さな愛慕の贈り物を捧げる。

■ノットの通過
 これらの野蛮な地域を通過する際に、ノットの損失は軽微であった。彼の部隊の犠牲は、ハフト・コータルで74人と馬13頭、そしてジャグダラクでは71人であった。そこでは、第16精鋭歩兵部隊の私の友人カーターと私自身が一緒に後衛にいて、いくつかの不思議な光景を目撃した。なぜあれらの骸骨は、我々の弱さと不名誉の永遠の記念碑として地上に残ることが許されているのか。もし、各々の次々そこを通過する軍の連隊が、短い停止の間に、それらの骨の一部を焼いたならば、その殺害者たちの満足げな視線からは、少なくとも上手く見えないようになっただろうに。たとえ記憶からは見えないようにならなくても。そして、この遺体安置所から退却する際、我々の不謹慎にも急いでいたが、これが妨げられることはなかったろうし、我々の前進も、同国人に対する礼儀であり義務であるこの行為によって、遅れることはなかっただろうに。なぜ、勇士たちが、国全体の恥としてこのように見捨てられるのか。彼らが何をしたというのだろうか。彼らのみじめな遺体はすべての通行人の嘲りとなるために晒され、指さされ、蹴りや唾を向けられるとは。同時に、小さな子どもたちは、大勢の骸骨を見つめて、その驚くべき悲劇を、彼らを死に追いやった自分たちの父たちの口から聞く。そして、勝ち誇って、アクバルが、特命全権公使の殺害の際に捕虜になったコリン ・マッケンズィー大尉に対して述べた、横柄な調子で、子供たちは舌をもつれさせながら言うのである。「ハー、ハー。 ショマー・モルケ・マー・メーギーレード 」(お前たちは私の国を取るつもりなんだろう


 
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