展示品
[作品18]
■ガズニーの町と城塞
Town and Citadel of Ghuznee 
(英語原文をよむ)

 800年前、著名なるスルターン・マフムードの下、その支配権をアルメニアの花の咲き乱れる山々からガンジス川の肥沃なる岸辺まで伸ばした偉大なる帝国の首都であるガズニーには、一つの要塞が残っている。12世紀、ガズニーはゴールの王 の兵によって陥落し、ガズニーの王の血筋は根絶やしにされ、彼らの首都は破壊されて土に戻ったのである。スルターンによって建設され、いまだ隣接する地域を潤し続けている壊れかけのバンド、すなわち貯水池、いくつかの荒廃したマスジド、高くそび聳える二つのミナレット、数マイルにわたって広がる建築物の残骸、そして偉大なる皇帝の霊廟のみが、盲目的なまでの猛烈さを振るう戦火や時の経過による風化作用を生き残り、「高貴にして威厳あふれるスルターン、アブー・アル=カースィム・マフムード、サブクタギーンの息子、アラビアとペルシアの諸国の主」の子孫たちが居住した宮殿を持つ壮麗なる都市の跡地を指し示しているのである。この都市自体は現在、我々の領土拡大を好む性格と、移り気な戦争の女神がしばしばの我々の戦列からの逃亡したことにより、非常に良く知られているので、私はその都市について、自身の何度かの訪問に関係する限りにおいてのみ述べようと思う。これは、私の叙述が「二度目の話、物憂げな男の退屈そうな耳を悩ませる」[シェークスピア]という評判をえることを望まないからである。

■ガズニーの様子
 2度目にガズニーで小休止したとき、私はカンダハールの西にあるアルガンダーブへ向かう途中であり、1人で旅をしていた。私はカーブルにおいて、病のために同地に残留し、エルフィンストーン将軍とともにインドへ帰還することになった元の旅の同行者であり友人、哀れなブリューに別れを告げていたのであった。我々は頻繁に手紙のやり取りをしようと互いに約束して別れたのであるが、我々が次に会うのは別離が決してない場所であるということなどほとんど想像しなかった。しかし、あの恐ろしいもの、将来を見通す力を押さえることによって、どれほどの終わりのない絶望的な不幸の重荷が、我々の心から無くなることか。ガズニー城塞の前方2マイル」[約3.2キロ]の「広大で人の手の入っていない山裾の平原」[Byron, Don Juan, Canto IV] に、古代の都市の遺構が、盛り土や石、赤煉瓦、陶器の破片とともに広がっており、その中に、モスク、墓石、古代の建物の礎石や水路の遺跡が残っている。これらの残骸のうち多くものの表面には、石工の鑿によって彫られた彫刻をはっきりと見ることが出来る。こうした何世紀間もの廃墟が点在する中、目の届く限り、豊かな木立、花園、メロン畑、葡萄園、果樹園が続いている。それらは各々が泥の壁で注意深く囲われており、多くの場合には低すぎて四つ這いにならなければ入れないような扉が付けられている。また各々の中心には「葡萄畑の仮小屋のように/きゅうり畑の見張り小屋のように」[『旧約聖書』イザヤ書1:8] 望楼が設けられていた。この部分的にではあれ豊穣で肥沃な光景は、広大なリシュカ とシャフタールー (ムラサキウマゴヤシとシロツメクサ)の畑、トウモロコシ畑、紫と白のヤグルマギクやその他のイギリスの花々に覆われ、キジやウズラやウズラクイナの鳴き声を響かせる草原によって、よりすばらしいものとなっていた。

■二つのミナレット
 陰に覆われたラウザの村から下っていくと、私の前に広がる眺望は際立って驚異的であり、また雄大であった。時は夕暮れ時であった。花々はそのえもいわれぬ香りを振りまき、大気は甘くて芳しく、華麗なアフリカのハチクイ([学名]Merops apiaster)はその緑と金の羽根を沈み行く太陽に向かって羽ばたかせながら、低くて柔らかなさえずりを発していた。私は、過ぎし時代の遺跡が点在する広大な平原と、「幸運なる野と木立、花に覆われた谷、古の著名なヘスペリアの庭園にも似た」[Milton. メParadise Lostモ book: 3]にゆっくりと馬を進めた。マフムードの趣味を今に伝えるものである高くそび聳え立つ二つのミナレットは、「飾られた光り輝く尖塔があり、落日が今しもその光線でそれを金色に染め行く」[Milton. メParadise Lostモ book: 3]という詩のように、天に突き刺さっていた。青く染まった遠景の中で、ミナレットの白い姿のみがそれが聳え立つ山々から識別できたのであるが、そうした風景の中に、[市壁の]りょう稜ほ堡と市街と城塞を備えたガズニーの姿があった。

■絵の説明
 ここに掲げたこの都市の石版画は、都市の西側にあるカンダハール門の外にあるいくつかのマスジドの近くで描かれたものである。この都市は他にカーブル門と川の門という二つの出入口を持っており、後者は幅広いカーブル川が城壁の近くを流れていることからこう呼ばれている。市街は丘陵の連なりの一番端に位置しているのであるが、その丘は上方に傾斜しており、バーラー・ヒサールの東北方を見渡せるようになっている。バーラー・ヒサールの近くには、廃墟となったモスクや墓石の間に賢者ブフルール の墓がある。都市としては、ガズニーはカーブルやカンダハールとは比較すべくもなく、どちらかの町のバーザールを前もって訪れてしまうと、ガズニーの暗く狭い街路や小さなチャールスー [市場]への訪問は、つまらなく思われることであろう。しかし、この町はその城壁の中に住み心地の良い家と、騎兵旅団の必要を満たせる第一級の厩舎を有している。またとりわけ、城塞の中にあるこれまでの総督たちの区画と住居は多くの例と比べても広壮であり、様式と装飾にいたっては王侯にふさわしいとすら言えるものである。この区画は丘の最も高いところに建造されているため、カーブル門から町に入ると、城塞のこの部分への上り坂は極端なまでに険しい。このスケッチの中のバーラー・ヒサールの稜堡の右手にある広大な区画に、ドースト・ムハンマドのディーワーン・ハーナ、すなわちえっけん謁見の間と呼ばれる建物を見ることが出来るであろう。ここは、我々の占領時には第16精鋭連隊の食堂に用いられており、ここでは惜しみない歓待が友愛の情と心からの親切心とが調和しつつ行なわれていた。その内部とそこから見た街の眺めはともに図2に描かれており、このスケッチでは右側の部分である。この建物の前には、著名な真鍮製の68ポンド[約31キロ]砲ジャッバール・ジャング(戦場の勇気)がある。この非常に大きな大砲は、巨大な砲弾を精確に、しかも信じられない距離まで発射することが出来るので、2度目のガズニー奪取の際、ノットはその射程外に出るよう3度も位置を変えることを余儀なくされたほどである。3マイル近く離れたラウザの市壁の下にまで後退して初めて、我々はその大砲のもたらす苛立ちから解放されたのである。砲撃は1度ならず我々の陣営の中央に命中したが、テントを一つか二つ倒し、跳弾でラクダを何頭か殺したほかは、この怪物はそれ以上の損害をもたらさなかった。 

■捕虜たちの辛酸
 城塞が背信者シャムス・アッ=ディーンに降伏した後、グラーム・ハイダル・ハーンは捕虜となって城塞の左側の稜堡に監禁され、右側の稜堡の下にある1室には、不運なる第27現地民歩兵連隊の将校10人が捕虜となり、18×13フィート[約5.5×4メートル]の部屋に5ヵ月間詰め込まれていた(この出来事の前、この連隊のラムズデン中尉とその不幸な妻、召使いと30人のセパーヒー全員が一つの家で殺害された)。最も粗悪な待遇を受け、灯りも火も、[十分な]空気もなく、害虫が群がり、服は腐って背中から剥がれ落ち、外には雪が降って気温は氷点下14度になった。仲間のうちの1人が拷問されて、全員が常に死の恐怖におびえながら、彼らは疲弊しつつも生き延び続けた。この類例のない悲惨な状況の中で、発疹チフスが彼らの間で流行し、苦悩と苦痛の只中にあった1人の兄弟の命を、彼らの目の前で奪い去った。我々は数ヵ月後、城塞が再び我々に投降した後にその地下牢を訪れたが、我々が接近するや否や彼らは連れ去られていたため、彼らの居場所に関する手がかりを求めて暗い壁を調べようと松明を点した。

■壁の記録
 そこで、我々は不運な捕虜たちの手でそこに刻まれた悲痛な身の上話と、アフガンの迫害者たちの名前を記した長いリストを大量に発見した。コーランにかけて正式に締結された二つの条約の条項一つ一つを彼ら[アフガン人]がいかに破ったか、ある特定の日付に彼ら自身の苦しみがいかに増したのかというようなことである。以下のようなことが読み取れた。「1842年4月6日にシュジャーが殺害されてから、待遇がひどくなった」。また他の場所には「パーマー大佐が拷問に遭った」それから「英国軍が到着して、我々の死に対する復讐がシャムス・アッ=ディーンと彼の4人の兄弟になされますように」という言葉が、捕虜生活に関する数多くの記録とともに書かれていた。しかし、ある一つの簡単な履歴が、地下牢の壁から最も深く我々の心と感情に語りかけた。他の記録から線で囲んで分けられていたそれは、簡潔な言葉ながら、他のすべての記録よりも多くを我々に告げているようであった。それは次の通りである。「捕虜T・デイヴィス、1842年3月27日」。この不幸な同胞は、発疹チフスにかかって3ヵ月の後、この惨めな一団にいくらか良い生存状態という朝が来ようとしているちょうどその時に、家族と家についてうわごとを言いながら死亡したのである。戦争の歴史を光輝に満ちたものとするいかなる行ないとも比肩しうる、この不運な小規模の守備兵たちの成し遂げた真の献身と勇敢さについて、その個々人の事跡を記録する紙幅があったならばと思う。そうすれば、私の友人ニコルソンほかの者たちについて、心からの喜びとともに語ることができたであろうに。敵が初めてガズニーに入ったときにはまだほんの若者であった彼は、彼の中隊に武器を収めさせよという命令を聞くまでに、銃剣の切っ先で敵を3度も城壁の外に追い返したのである。彼はついにはその命に従い、苦い涙とともにその剣を捨て、彼の戦友たち、武器と不運の中にある同胞たちとともに、ほとんど絶望的な獄中生活へと赴いたのである。

■ファトフ・ハーンの庭園
 本題に戻る。アフガニスタンの諸都市の間に存在する不毛で乾ききった平原を越えたところに存在するガズニーの庭園は、おそらく長い間、木々も緑もない風景か、せいぜい丘や山々の荒涼とした連なりとそこここにぽつんと建つ城塞などしか見てきていない旅人にとって、とりわけ歓迎すべきものであろう。この優美で水が豊富な渓谷のあらゆる場所に、鮮やかな色と天然の豊かさを尽くして繁茂するスウィートブライア[ノバラの一種]やバラの茂みによって半ば隠され、桑やその他の木々の暗い色の葉で囲まれて、アフガン人が誇張して「物言わぬ者たちの都市」と呼ぶ墓地があまたある。その最も美しいものの一つが、アミール・ドースト・ムハンマドの兄であり、世に知られたファトフ・ハーンの切り刻まれた遺体を安置している庭園である。彼は、シュジャーの異母兄弟であるシャー・マフムード(彼はその大臣であり、この弱き君主はその生命と王位を彼のおかげで維持できていたのである)の命により、ヘラートにおいてその目をくりぬかれた。この行為は、シャーザーダ・カームラーンの教唆により行なわれたものである。それから少しして、この哀れで年老いた盲目のワズィールは、カーブルからガズニーへの行軍の途中、マフムードの前に引き出されて反逆の罪を咎められ、宮廷の貴人たちによってゆっくりとばらばらに切り刻まれた。彼の耳や鼻や四肢は各々切り離され、頭部と一緒に1枚の布に包まれ、埋葬のためガズニーへと送られた。彼はあまりの頑固さで生命にしがみついていたために、彼とこの世を結びつける最後の絆は、彼の首が落とされるまで断たれなかったのである。そしてそのとき、彼は非難の声もうめきもあげることもなく、息絶えたのであった。日中の暑い最中、私はしばしば第16精鋭連隊の友人とともにファトフ・ハーンの庭園で時を過ごした。その光景を想起するのはつらいものであった。豊かな色を持つ花々が大理石の墓石の周り一面に「群生して華麗に咲き誇り」、夕刻の静けさがその場所一帯にたちこめて静寂が辺りを支配する。木立を通るそよ風が立てるサラサラとした音や、「芳しい空気を震わせ、アフガン人が跪いて礼拝している場所を知らせたつぶやき」[Felicia Hemans, "The Indian City"]以外に、その静寂を乱すものはない。このような美の只中に、兄によって殺された弟や長子によって炉辺で打ち倒された父、臣民によって殺害された王や王によって殺害された臣民の遺骸が土となって眠っているのである。イシュマエルのように「彼らがすべての人々にこぶしを振えば、すべての人々が彼らにこぶしを振う」[『旧約聖書』創世記16:12]からである。このような愛らしい場所に眠る者たちの犯した罪を思い起こす時、私は恐怖で身を震わせ、自然の最も穢れなき贈り物ともいうべき、「ジャスミンとバラよ。祝宴や棺のために集められる」[Felicia Hemans, メA Thought of the Roseモ]ものが、最も穢れ、血に飢えた子らの墓を覆っていることを遺憾に思うのであった。

■ミナレットの解説
 古のガズニーの威風を物語る現存する数少ない遺物の一つである優美な赤レンガのマナーラ (ミナレット)は、この都市とラウザとを結ぶ主要道路沿い、互いに500ヤード[約457メートル]離れて建っている。これらのミナレットは30フィート[約9.1メートル]ほど高さが異なり、高い方は高さ140フィート[約42.7メートル]と推定される。両者ともその意匠と彫刻のすばらしさにおいて群を抜いているが、よりこの都市に近いところにあり、若干傾いている低い方の塔は、もう一方の塔に比べて賞賛される資格を持たないように思われる。より高い方のミナレットの下部は八つの三角形の柱身で囲まれた円形をしている。この形状は柱の中ほどより少し上の所まで続き、そこからは、縞模様と渦巻模様によって装飾された、よりすらりとした縦溝彫りの柱が突き出ていて、頂点に近づくにしたがって徐々に細くなっている。柱身は凹面に彫りこまれており、彫刻家たちの気まぐれに従って、葉飾りや星型、稲妻模様やその他の風変わりな意匠で満たされたいくつもの区画に分けられている。クーフィー体の銘文がこれらの装飾と混在しており、銘文の文字にも花模様や装飾がぎっしりとちりばめられている。彫刻はそのはっきりとした輪郭を保っており、まるで昨日彫られたものであるかのように、塔の表面から顕著に浮き出ている。アフガン人のうち何人かは、ミナレットはマフムードのバーザールの境界線を示していると主張しているし、その建物の門がその[ミナレットの]間で開閉されていたと信じる者もいる。

■ミナレットの逸話
 アフガン人たちは、そのミナレットの大きさと美しさの不均衡を以下のような伝承によって説明する。言われるところでは、町に近い方のものはスルターン・マフムードの命によって建設されたが、これはその時代の天才的建築家によって建設された最初のものであった。この偉大な建造物を完成させるにあたり、この老齢の大家は弟子たちをみずからの周りに呼び集め、この建造物に関する彼らの意見を尋ねた。全員が賞賛のあまり茫然自失し、何も答えなかった。年老いた名匠は高く聳え立つミナレットから弟子たちを見つめ、その目は成功を収めたことから来る誇りに光り輝いていた。そのとき、大勢の若い弟子たちの中からようやくささやきが聞こえ、1度ぴたりと止み、そしてまたささやきが聞こえた。群衆が退き、その容姿の美しさと決然とした表情が際立つ1人の少年が仲間たちの間から進み出ようとしたので、仲間たちの何人かは彼の目的に気づき、そのあつかましさに衝撃を受けた様子で彼を引き止めようとした。彼は彼らを振り払い、尊敬すべき建築家の前にひざまずいた。「あなたのミナレットは確かに高い」と彼は言い、「しかし曲がっている。私なら、もっと高く、意匠がより優れ、そして真っ直ぐなものを建てるでしょう」と続けた。師匠は仰天した。辱められた作品の頂上に引きこもると、彼は座り込んで顎鬚を引きちぎり、泣いた。彼を支持する者は彼の周りに集まり、慰めの言葉をかけた。「最も有能な父よ、無分別な子どもの空虚な大言壮語に、なぜ嘆き悲しみなさる。我々の中に来て、食べ、飲みましょう」。しかしすべては無駄であった。
彼は昼も夜も自分の胸を叩きながら座り、目を[もう一つのミナレットの]建設予定地の方に据え、夢中で敵手の行なう準備の様子を見ていた。何ヵ月もが過ぎ去り、塔は徐々に空に向かって聳え立ち始め、日ごとに美しさと装飾とを増していった。「本当であったのだ。私のものより意匠がより優れ、より高く、そして直立している」と、怒りと落胆で半分息が詰まりそうになりながら、老人は声を上げた。「私はその完成まで生きていることは出来ないであろう」。若き建築家がその傑作に最後の仕上げをしている時、大きな叫び声で彼は手を止め、注意を引きつけられた。体が一瞬「雲間にぶら下がった」ように見え、それから「まっさかさまに落ち」、もう一方のミナレットの下に殺到した群衆が、恐怖におののく若者に対し、打ちひしがれ、年老いた彼の師匠の最期をはっきりと知らしめたのである。

■ローリンソンの碑文解読
 この物語は、以下に示すラウザの村に最も近いミナレットに刻まれたクーフィー書体碑文のスルス書体による翻訳によっている。これは、元カンダハール政務官である傑出した東洋学者、J.A.ローリンソン少佐の手になるもので、『アジアティック・ジャーナル』に掲載された。
 「最も慈悲深き神の御名において。高貴にして偉大なるスルターン、イスラームのマリク、諸国家の右腕、信仰を託されしもの、勝利を冠されたる者、ムスリムたちの保護者、貧困者の助け、寛大さの持ち主、サブクタギーンの子マフムード(神が彼の信仰告白に栄誉を与えますように)、勝利者の中の勝利者、ムスリムたちのアミールが、記念碑の中でも最も高いこの高き塔の建造を命ぜられ、確実に、幸福と成功のうちに完成された」。

■ガズニーの再占領
 1842年9月6日、ガズニーは英国軍によってアフガン人の手から再び奪取された。同月5日、スルターン・ジャーンの指揮下に同地を守備し高地を占拠していた敵は、ノット将軍の軍に活発に砲撃を浴びせ続けたが、50名が死傷し16頭の馬が失われたのみであった。そもそも彼らが戦わなければならなかったことが不思議だった。というのも、我々はすでに2度、1万2000名を数えたシャムス=アッ・ディーン指揮下の敵軍主力を撃破し、追い払っていたからであった。しかしながら同日夕刻、2日前の敗退が心にあって、彼らは意気喪失し、城塞を放棄した。我々が占領するにあたり、その破却のため工兵部隊に対し2日が与えられた。その結果、城塞の防壁のうち14マイル分が爆破され、バーラー・ヒサールは完全に吹き飛ばされた。外側にあった低い防壁は市街とバーザールとともに破壊されたが、そうでなくとも地雷によってひどくぐらつき、相当な損傷を受けていたために、工兵長であった今は亡きサンダース少佐の考えでは、それらは冬の間にすべて崩れ去ってしまうであろうということであった。我々は、第27[現地民歩兵連隊]の将校が生存しており、ブハラかバーミヤーンに連行されたという情報を手に入れた。また、彼らの連隊の330名のセパーヒーを絶望的な虜囚(りょしゅう)の身から解放することに成功したが、残りの者たちは雪の中で命を落としたか、攻撃の最中もしくは守備隊の投降後に処刑された。広く知られたガズニーで私が最後に見たものは、一面に広がった煙を上げる廃墟であった。「大きなメロンがその琥珀色の蓄えを大理石の水盤に浴びせるところ、穀物、花、果実が地面の続く限り生い茂るところ」[Byron, Don Juan, Canto VI]、ラウザの庭園から一番最後に下ると、出発の礼砲が我々の後方、城壁の後ろで発射され、みずからの好奇心を満足させようとぶらついていた我々の無鉄砲さに気づかせてくれた。


 
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