展示品
[作品13]
■アリー・マスジド要塞とハイバル峠
Fortress of Alimusjid, And the Khybur Pass 
(英語原文をよむ)

 カーブルとジャラーラーバードは、最も残酷で強奪を行なう部族が恐ろしい山道と、峡谷、絶壁の連続を通り抜けるのでなければどこからも近づけなかった。これらの中で、インドに最も近い恐ろしい障害は、ハイバル峠だった。シク教徒たちの前線基地であるジャムルードからこの名高い峠に入ったとき、旅人たちは、アフガニスタンの荒々しい山地によくあるあらゆる障害物によって行く手を阻まれた。道は、石ころだらけの河床にあり、どちらを見ても、200から2000フィート[約610メートル]とさまざまな高さの切り立った崖に囲まれている。峡谷は幅にして15ヤード[約13.7メートル]から4分の1マイル[約402メートル]ぐらいまでで、その急勾配の周囲は崩れたり、岩と交差していたりして、急角度やジグザクに曲がっており、螺旋階段のような細い道で、目のくらむような高さまで曲がりくねって登っていた。頂上には、アリー・マスジド(アリーの礼拝所)の砦があり、その道の要所になっていた。それは、カーフィル・タンギー(不信心者の峠)と呼ばれる道と、同じように目立つところにある二つの小さな生意気な防御壁を完全に見渡すことができる位置にある。

■ポラック将軍の先遣隊の失敗
 このように砦には極めて近づき難い状況にあったが、1842年の1月15日、ポラック将軍きか麾下の軍から、二つのベンガル歩兵連隊、第53連隊と第64連隊が、アーフリーディー族 たち(峠を取り囲んでいる部族の一つ)が砦を占拠する前に、それを確保すべく派遣された。モズリー大佐のもとで、この分遣隊が恐ろしい夜の行軍の後に目的地に到着した時、牛300頭分ではなく、わずか80頭分の荷しか、生の穀物が運ばれていないことが判明した。この難題に加えて、彼らは出発を急いだため、激しい戦闘が待ち受けている可能性は高かったにもかかわらず、小袋に入っているもの以外には弾薬もなく、テントもなければ、寝藁や敷き藁も糧食もなかった。ハイバルに特有の毒性のある水に加えて、冬の只中に常に厳しい気候――とりわけインド出身の人々にとっては厳しい気候――にさらされて、まもなく彼らの中に最も致命的な形で熱と赤痢が発生した。今や2500人の飢えて病気の兵士たちは、糧食は半分だったが、生の穀物は全部消費してしまい、絶望とともにジャムルードへの道を切り開くことを決意した。すでにワイルド准将が彼らを救出しようとして、多くの犠牲者を出して追い返されていたので、彼らは安全を確保する他の手立てを持っていなかった。23日に、兵士の撤退は甚大な人的被害を伴って行なわれたが、特にカーフィル・タンギー(絵の前側)における被害は大きかった。後衛は第64連隊で構成され、この隊に攻撃の矛先が向けられた。彼らは司令官だったウィルソン大尉を失い、ラットレー中尉は重傷で、この戦いにおいて、138人の死傷者を出した。第53連隊は2人の士官が重傷で、ほか50人の死傷者を出した。このように、ほとんど奇跡に近かったが、この勇ましい兵団は、みずからの活力と団結と勇敢な態度で、不幸な取り合わせによって彼らがさらされた極限の危険に打ち勝った。のちに、第64連隊はポラック将軍の進軍に同行し、峠のジャラーラーバードの側にあり、最も荒涼として近寄りがたいダッカに、連絡・交通を確保するために残された。

■アーフリーディー族
 ハイバリー[=アーフリーディー]族は、国内の土着の部族の一つであるという誇りを持っているが、変わった人々である。彼らには長がなく、四つの大きな氏族に分かれていて、それらがまた数多くのより小さな集団に分かれている。彼らはもっぱら殺人と強奪に専念し、その成果を、彼らの土地を通過するものすべてから取り立てる通行料に加えて、生計を支える正当な手段と彼らは見なしている。このようにして、我々は1839年にアフガニスタンに行く途中で彼らの領域を通過したときに、通行料を払ったが、彼らは一方でランジート・スィングから、他方でドースト・ムハンマドからも多額の通行料を受け取っていたのであった。後者は、このあたりの山賊によって支配者と認められていた。彼らは、ドースト・ムハンマドの正規軍がアリー・マスジド、すなわち、彼らが占拠しているのを我々が発見した場所に、駐留することを許された。これらの人々は、地面の穴や、山側の絶壁に隠れた洞穴に住んでいる。彼らは暑さが増すとより高い所に上がっていき、冬になると次第に下へ降りてくる。彼らは不潔で、汚く、あさましくて、巧妙で、油断ならず、彼らの住む山の絶壁においては危険な敵である。

■荒涼たる土地
 このあたりは、やせて不毛であり、すっぱい少しばかりの葡萄や、いじけたようなオリーブの木立、小さな椰子、そして棘だらけの潅木のほかには、何も育つことが出来ない土地である。ジャラーラーバードの方には、木陰のできる緑があり、自慢の果物の木や川岸に牧草も生えているので、これらは真に宝石と言えるが、しかし、世界中で最も貧弱な金属の台につけられている。この荒涼とした未開の地域の占有者たちは、野性的で勇猛に見える人種である。他の部族のようにきちんとターバンを巻くよりも、ターバンを深いブロンズ色の顔のあたりに漂わせ、最も無造作に肩に垂らしている。腰帯もゆるく巻いて、服は濃い黒か青の色の生地でできていたが、明るいオレンジと緋色の縞模様の彼らのルンギー[腰帯]によって変化を与えられている。体に際立つ彼らの必殺のすばらしい武器、浅黒い肌、野蛮な表情、乱れた長い黒髪など、私は彼ら以上に断固として戦いを好む男たちを思い描くことはできない。アフガン人の歩兵の武器については、他のところで述べた。ハイバリー族たちのサンダルは椰子の葉を乾かしたものでできていて、他の部族たちのものとは違っている。彼らによって考案されたジャザーエル銃と呼ばれる武器は、彼らの間では普通に使われている。

■ノット将軍のハイバル峠通過
 ノット将軍の師団は、光栄にもカーブルからペシャーワルに進軍する連合軍の後衛を勤めることを許された。最後尾の任務を務める将校たちは、何時間も一緒に停止していたが、私はしばしばそうした時間をスケッチに利用した。ある時などは、前述の街道が狭いため、人がすし詰め状態になり、ランディーハーナからアリー・マスジドまで、我々は9マイル[約14.4キロ]進むのに36時間かかった。我々が護衛していた荷物(我々が引き留められた原因)は同じその隘路を進むのに48時間かかっていた。アリー・マスジドで後衛を務めていたとき、カーフィル・タンギーからこのスケッチを描いていたが、ほとんど完成しそうな時に、爆音が響いた。全く驚いたことに、砦の城壁と稜堡が一瞬のうちに砂の旋風のように空中に吹き飛ばされてしまった。そうして、山の頂上から完全に取り払われて、厚い雲が晴れたら建物の痕跡がなくなっていた。防護柵にも同様に、同じような急なやり方で、繋がったいくつもの出口が造られた。

■バグパイプ
 この爆発の音が聞こえた直後に、私の耳は、近くの山からバグパイプの喜びあふれるような音を捕えた。アフガン人である彼らが、何ということをやってのけたのだろう。その時まで私は、その魂を感動させる楽器を、バニー・イスラーイール(イスラエルの子どもたち)と自称するアフガン人が使用しているとは知らなかった。また、私はこの時、コオロギの鳴き声も、ムクドリのさえずりも初めて聞いた。爆発によって取り乱したものの群れが私の間近に降り立ったのだ。確かに些細なことばかりだが、それでもそんなことが、血と殺戮(さつりく)の光景から遠く離れた、別の土地へ私を連れていってくれた。思いがけない出来事は、たちどころに私のとりとめない思いを現実に引き戻す。今まで悩まされてきた絶え間なく続いてきた小戦闘が収まっていくのではないかと期待できると思ったが、突然マスケット銃の音を近くで聞いて、このような考えは間違いだと気が付いた。それは、ハイバリー族たちと、不正規騎兵連隊のネヴィル・チェンバレン中尉とボンベイ砲兵連隊のテリーの率いる部隊との間での戦いであることが分かった。その後すぐに不運にもテリーは危篤状態で我々の前を運ばれたが、戦闘には流血がつきものであるということを示す結果となってしまった。彼は致命傷を負っており、宿営地に着くとすぐに亡くなった。彼の相棒で、私の親しい友人であるチェンバレンは、幸いにも、その時に無傷で逃れてきた。しかし、彼の幸運もすぐに彼を見捨てた。彼が残りの後衛とともに、パンジャーブ平原に向かうあい隘ろ路の長く曲がりくねった急坂を降りていったとき、我々がハイバリー族から受けた別れの礼砲の最後の一発が、彼を深く傷つけたのである。

 
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