展示品
[作品11]
■冬服を着たアフガン歩兵
Afghaun Foot Soldiers in the Winter Dress 
(英語原文をよむ)

 カミースあるいはシャツに加えて、アフガン人が厳しい冬の間に着る皮の短い外套はネームチャ (半分の上着)と呼ばれ、なめされて、絹の趣味のいい刺繍が施され、(グル・ムハンマドの衣装の中で描かれている[図25])ポーステーン のように羊毛を内側にしてまとわれる。そして、ズボンの代わりに、厚くて黒い布を用い、腰のあたりを縄でしめて結んでおり、足首から膝までにも縄を巻き付けていた。彼らの袖と衣装の残りの部分については、他の場所で述べた。だが、数珠に加えて、私が忘れないで伝えておきたいものがある。それは、衣装の内側に縫い付けられた、もしくは体にぶら下げた、魔よけ、聖遺物、祈りの文言が詰め込まれた小さな袋である。彼らはこれらが危険や死から自分たちを守ってくれるほど効力があると考えている。彼らにはまた、ムッラーたちによって自信と勇気をたたき込まれる。ムッラーたちは不信仰者に対して用いた彼らのライフルと砲弾を浄め、信心あるものたちだけが逃げられると彼らは断言する。

■シャムス・アッ=ディーンとの戦い
 我々は、スケッチ[の右端]にあるマイダーンとアルガンダの渓谷の間にあるブルジュ (見張り塔)で、カンダハールからカーブルの間を前進している時に、「雲に覆われた山々の子どもたち」から、かなりの抵抗にあった。我々の通過を阻止するため、1万2000の騎兵と歩兵で山のような人の鎖が配置されたのを我々は見た。彼らはシャムス・アッ=ディーン(信仰の偃月刀(えんげつとう)[太陽])とスルターン・ジャーン(命の皇帝)、そしてドースト・ムハンマドの2人の甥に率いられていた。シャムス・アッ=ディーンのことは記憶されていると思うが、彼はガズニーを包囲し奪回した長であり、イギリス人の将校を捕虜にし、守備隊の一部を虐殺し、生き残った者を奴隷にした後に、みずからを総督に任命した。我々はアルガンダ近くで彼らを破ったが、その前の二つの戦いと同じくらいの輝かしい勝利だった。最初は、ガズニー南西のゴージャーンの戦いで、このとき、シャムス・アッ=ディーンは1万2000人の兵で我々の宿営地に向かい、ガズニーから運んできた二つの9ポンド砲に支援されていた。我々は彼らを完全に打ち負かし、大砲を奪い、彼の備え付けの陣地と弾薬、物資を破壊した。彼の大砲は非常に有効であり、凄まじい破壊力を発揮した。大砲の一つを奪取したのは、全くクリスティー大尉とチェンバレン大尉の奮闘によるものであり、彼らは大砲が戦場から早足で離脱しようとするのを防いだのである。チェンバレンは、負傷していたにもかかわらず、轍(わだち)を見分け、砲手をみずからの手で斬り殺した。シャムス・アッ=ディーンはガズニーに逃げたが、我々は彼を追跡して打ち負かした。高名な砦を再奪還し、その破壊を見届けたのち、我々は移動して、砲火と刀剣でマイダーンの緑で美しい谷間を荒野にし、前にも述べたように、1842年の9月にアルガンダに到着した。3年前、ガズニーの最初の陥落の知らせを聞いて、ドースト・ムハンマドが大砲を捨ててバーミヤーンに逃走したとき、彼の大砲が谷に引き落とされているのが発見されたのが、ここであった。

■遊撃兵の訓練
 ここに描かれた男たちは、「遊撃兵」と呼ばれる連隊で、コーヒスターンで召集され、砲兵隊モール中尉の指揮のもとに、教練のようなことを始めようとした。そしてついに野蛮で荒々しい手に負えない者たちを説得して、いみじくも閲兵場などと呼んだ平らな場所で、絵に描いたような混乱ぶりの召集にこぎつけた。ひょっとしたら男なら誰もが司令官になれるものかと思ってしまうほど、彼らは自分たちの司令官たちに対して無頓着であり、転回や上げ足行進にも同様に気を遣うことはなかった。あたりをはばからない笑いから、これらを、彼ら自身を楽しませるためにわざわざ用意されたちょっとした娯楽であると彼らが考えているように見えた。命令の言葉が発せられと、何人かは実際にマスケット銃をよく撃ち、叫んだ。閲兵が終了すると、彼らは静かに解散しないで、踊り、跳びはね、隊列から飛び出した。沸き起こる笑い声、金切り声、甲高い歌は、すずめがいると想像して撃ったり、他の人の足を脅かしたりするライフルとピストルの銃声で変化するが、この完全な混乱状態を凌ぐものは何もない。彼らのスポーツ好きなものたちは、大きなポケットから闘技用のウズラ や鳥網や魚網を取り出し、ものまねをする者は、きゃっきゃっ騒いで熱中している者たちの賞賛をえるために、将校たちの特徴や、自分たちが理解もしないし評価もしない教練の真似を不躾で無骨な態度で行なった。このようにして彼らは、冬が続く限り、喜んで「兵役」を務めていた。

■春の到来
 しかし冬が過ぎ、バハール(春)が始まると、「その優しい手により雪は解け、山々は空に向かってその緑の頂を現し」[James Thomson, メSpringモ 1728]、また、収穫と葡萄酒の仕込みが近づくと、「鎌で小麦の束で報われ」[James Thomson, メAutumnモ 1830]、これらの独立した郷士たちの中で教練に残る者はほとんどいなかった。彼らは皆、自分の山の頂へ離れていて、お尋ね者として人相書きが回り、1日に20人から30人が脱走兵と近在の村から連れ戻された。我々の軍紀が求める拘束が嫌悪されなかったことは驚嘆に値する。というのは、思えば、彼らは、皆、幼少から、呼吸と同じように、自由を人生に不可欠なものと考えるようしつけられており、また、子どもの時から、彼ら自身の猛々しい戦いの技術や、狩猟や、男のための競技やあらゆる種類の野外スポーツのすばらしい楽しみと危険さを習っているからである。アフガン人は子どもの時から白鬚の老人になるまで、等しく、銃、棒術、鷹、狩り、相撲、あるいは馬上槍試合など、スポーツの楽しみに没頭する。

■スポーツ好きのアフガン人
 私は、1人の背の高く痩せた頬の赤いアイルランド人のようにみえるコーヒスターンの遊撃兵連隊の同僚のことを覚えているが、彼は1年中常にスポーツのことしか考えていなかった。夜明けから真夜中まで、大好きな楽しみのために、ワナと網を用意して仕掛けるか、猟の獲物を追い求めることに時間を費やした。冬には、胴体まで雪に埋もれて、2、3組の毛がふわふわしたパーシャン・グレーハウンドと彼のように野性的で脚が早い野良犬を連れて、山の中深くに入り、狼、兎、狐を追い、シュウノガン、ノガン、カブケ・ダラ、すなわち、谷のシャコ(猟向きの羽を持った大きな鳥で、ほとんど七面鳥ほどの大きさがあり、まるで、人間がフルートで音階を練習しているように、高く透き通った声で鳴く)を撃った。あるいは、谷を駆け下りて赤脚の黒シャコを追い、ウズラとライチョウを網で捕らえ、おとりの鶏をつかって野生動物を罠にかけ、飛んでいるすべての鳥の声をまねたりもした。このアフガン人のニムロド[旧約聖書『創世記』10章8-9節]は「集合の合図」を気にかけなかった。というのは、単調な訓練や我々の規律の拘束は、彼のさすらう独立の精神には合致しなかったからである。「山がそびえるところ、そこには彼の友がいる」[Byron, Don Juan. Canto III]。 かくして、わな、猟犬、マスケット銃を集め、閲兵場を絶壁と高くそび聳え立つ山と取り替えたのである。私がしばしば喜んで耳を傾け、今でも思い出して楽しんでいるのは、私の放浪家の友の野性的な歌とフルートである。谷に雪が深くなるとき、近くの山の上から、澄んで冷たい星明りの夜の静寂を破って、鋭い震え声で歌う彼のくにの歌が聞こえてきた。アフガンの歌は、離れたところで奏でられると、あるいは私が述べたような状況においては、とても甘く、低くもの悲しい調子で始まって、次第に激しくなって、突然打ち切られる顫音(せんおん)で終わる。

■コーヒスターンの同僚の運命
 私が1841年にコーヒスターンを去った後、モーレ中尉とその部下、そして、彼らのヨーロッパ人の軍曹ら全員は、11月3日にここまで述べてきた男たちによって惨殺された。この事件は、連隊がそのとき駐留していた、カーブルから20マイル[約32キロ]北西のカルダッラで起こった。

 
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