展示品
[作品2]
■アミール・ドースト・ムハンマド・ハーンおよび彼の末の息子
the Umeer, Dost Mahommed Khaun and his youngest Son 
(英語原文をよむ)

 私はこの高名な人物に1841年1月5日に彼が国事犯としてカルカッタに送られる途中、ペシャーワルの野営地で拝謁した。このカーブルの元アミール は、息子たちのうち最も若い2人とともに族長や親族に囲まれて天幕内の絨毯に座り、サトウキビをかじっていた。彼は私を非常に慇懃に出迎え、低い声で「アイ、アライクム・アッサラーム(あなたにも平安あれ)」と私の挨拶に答えると、絨毯の上の彼の正面に私を座らせた。彼の頭飾りはアフガンのふちなし帽であり、その周囲には暗色の長大なカシミヤのショールが緩く巻かれていた。二つ目[のショール]は腰に巻きつけられており、重いペーシュカブズ (短剣)を差したそれは彼のカマルバンド 、つまり飾り帯となっていた。彼は赤い絹のゆったりした下着をつけ、その上から、金で縁取られ、袖と胸が同じ素材の環とボタンによって装飾され、長い縞模様のついたアル=ハーリク と呼ばれる木綿更紗の短い上着を着ていた。彼の靴下はショール柄のものであり、そして肩からはラクダの毛でできた淡黄色のケープ(ウールマク )をかけていた。

■ドースト・ムハンマドとの会話
 彼はすぐさま会話を始め、パルワーンダラの戦い(他所で触れる)に話が及ぶと「ワーイ、ワーイ!(ああ、ああ!)、[イギリスの]兵士たちは彼らの将校たちのようではなかった。将校たちは獅子のように戦ったのに、彼らは羊のようであったのだ。彼らが指揮官たちに従ってさえいたなら、私は死すべき運命であっただろうに」。彼は我々に関するすべての事柄に感服しているが、「藁のような」剣についてだけは例外であるということであった。私はドースト・ムハンマド([預言者]ムハンマドの友)の寛大な態度と知性的なおも面ざ差しに感服した。また、彼と従者たちの身なりにも同様に感じ入った。洗練されているが自主性のある物腰、丈夫で印象的な服装、長くたっぷりとした顎鬚、上品で彫りの深い顔の造作、そして背の高く均整のとれた体躯などである。これらの点において、彼らはそれまでに私が会ったことのあるどのようなアジア人とも異なっていた。この失脚した君主が我々に話しかけるのと同様に、彼の族長や家族も会話に割り込んでくるだけでなく、儀式ばらずに冗談を言ったり思いきり笑ったりした。殿下は申し分のない顔立ちをしており、顔の造作は特徴的で人目につきやすく、色白で眉はがっしりとした弓形であった。また、額は長く、目立って後退していたので、彼の頭蓋骨はちょうど棒砂糖のような形になっていた。彼のさらに強烈な特徴はその大きくて黒い目である。突然炎が宿り、広がる瞳孔が白目のすべてにまで拡張したかと思えば、突然些細な点にまで縮小してしまう、この休みなく絶えず動く眼に翻弄される時、私がいかに残念に感じたことか。彼の顔色もまた、彼が自身の戦いや苦難、放浪や最終的な失脚に話が及ぶと、不自然な紫色になる。

■顎鬚へのこだわり
 私は彼が我々にカリヤーン を手渡そうとする機会をつかんで、肖像画を描くから座って欲しいと頼んだ。「バレ(はい)」と彼は答えた。「もしあなたが他のサーヒブたちより私の顔をうまく描き、また私の顎鬚を黒く書いてくれるなら。ご覧の通り私の顎鬚は白く、手入れもされていないので。私は町で入浴し、顎鬚を染めることも出来ないのだ。バ・ホダー (神にかけて)、私はブハラのシャイターン(悪魔)が私を裏切って牢獄に放り込んだ時と同じくらいひどい扱いを受けているのである」。彼は激昂し、膝立ちになって海上の船のように体を揺すったり、自身のくたびれた顎髭をつかんだり、怒りに任せて数珠球を数えたりした――しかし、彼はすぐに落ち着きを取り戻し、嘆息した。「私は、今や惨めで打ちひしがれた老人である。私には苦労や悲嘆が、ひっきりなしに降りかかってきているのであるから」。

■顎髭の逸話
 彼の顎鬚に関する話は以下の通りである。ペシャーワルのマホメット[イスラーム]教徒たちは、彼の同地への到着以来非常に激昂し、彼が街に入ったら救出しそうな勢いであった。それは彼らが、彼には清浄さが賦与されているばかりでなく、我々によって最も不当な形で待遇されていると考えているからである。そのため、「彼の清浄さ」、つまりハンマーム 、すなわち入浴の権利を認めないことが適当であると考えられた。族長は私の訪問中ずっと話し続け、体を前後に揺らしながら、国や彼が放棄した自由、彼のカーブルの美しさ、その1万にも及ぶ庭園、その気候、水晶のような小川、そして雪をかぶった山々などについて、悲痛な面持ちで語った。哀れな囚人よ! り里てい程の一つ一つが愛する国から彼を遠ざけ、彼が囚人として拘束されるべき非友好的な異国の耐え難い暑さへと急き立てる時、彼の心は相当に悲痛なものであったに違いない。

■ドースト・ムハンマドの伝記
 ドースト・ムハンマド・ハーンは、高い名声を有する貴人であり、強大なバーラクザイ族の族長であるパーヤンダ・ハーンの21人の息子のうちの1人である。彼はサドーザイの王権の廃墟の上に台頭し、1825年にカーブルの支配者となった。彼の母親はペルシア人女性であった。このことにより、彼はより開明的なその国の出身者の中で育てられることとなったのであり、彼の品の良い振る舞いや、同輩をはるかに上回る他国の歴史や政治に対する好奇心はこの縁故によるものである。支配者としては、彼は公正で慈悲深く、国家の諸事に良く配慮し、また非常に度量が広く社交的であったので、いかなる時、場所においても――公式な謁見の場でも、くつろいでいる時であっても――彼に不平を申し立てようとする、取るに足りない嘆願者の申し立てに耳を傾けていた。「正義とドースト・ムハンマドはどこへいった」とは、彼がヒンドスターン[インド]でりょ虜しゅう囚の身でいる間、カーブルのバーザールで常に聞かれた叫びであった。若い時には、彼はわがままで不誠実、執念深いと評されたものであった。ガズニーのバーザールで以前からの友人に会ったが、この友人はシャー・マフムードの有名なワズィール[宰相]であった彼の兄ファトフ・ハーンを怒らせたため、彼の不興を買った。彼はその友人を抱きしめながらその心臓を一突きにしたのである。ドースト・ムハンマドは現在72歳であるが、カーブルの王座に戻って以来、その老齢にいよいよ慢心している。彼は、帽子もしくは王冠(コラーフ )を用意させたとのことであるが、このことは以前の彼の素朴な人格や、虚飾や典礼への嫌悪とは完全に矛盾する行動である。

■絵の説明
 アミールの隣に座っている少年は、新たに迎えた15歳の妻が生んだ彼の最も若い息子である。彼は腕輪と耳飾りをしており、また彼は、ばら色の頬を持つカーブルの少年にしては奇妙な方法で頭を剃っている。2本の長いお下げが中央から下がっており、頭のその他の部分は念入りに剃ってある。太い四角の髪の房はまとめられてふちなし帽の中で巻きつけられ、そこから眉の間の飾りとして下げられている。彼は父に生き写しである。建物の装飾は、ガズニーの城塞内にあるドースト・ムハンマドの謁見の間を複製したものである。族長は私が書いた彼のスケッチを吟味し、私がそれを女王陛下のお目にかけてもいいか尋ねると、その前に彼の顎鬚を真っ黒に「書く」ようにと前述のような嘆願を繰り返し、彼の配下の者たちから承認を得るためにそれを回した。そして私が退出の許可(ロフサト )を得ようとすると、好意的な本物のイングランド式握手をしながら「神のご加護の下に」それを私に返した。

 
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