東地中海における人間移動と「人間の安全保障」

研究会報告

2008年度 第1回研究会報告

黛秋津(AA研共同研究員/東京国際大学非常勤講師)
「18世紀後半-19世紀初頭におけるロシアの地中海進出過程」

東地中海世界にとって、歴史的にロシアの影響は、イギリス・フランスなどに比べればそれ程大きいとは言えないかもしれないが、しかしながら全く無視出来るほど小さくもない。とりわけ18世紀以降、ロシアがオスマン帝国や西欧諸国との政治的経済的関係を緊密化させてゆく中で、ロシアの地中海進出は徐々に進展し、18世紀末には地中海世界においてロシアは欠くことの出来ない政治的アクターとなった。

17世紀以前、ロシアにとって地中海は遠い海であった。この時期ロシアにとっての関心は、専らオスマン帝国内における通商活動と、聖地イェルサレム巡礼の安全の確保に向けられ、前者は両国の最初の公式な接触がなされた1492年に、後者は遅くとも1681年のバフチェサライ条約によって達成された。17世紀末に登場したピョートル一世の下、ロシアは急速に領土を拡大し、17世紀末のカルロヴィッツ条約によって西欧世界に対する優位を失ったオスマン帝国を圧迫した。ロシアは18世紀に入ってから数度にわたりオスマン帝国と戦火を交えたが、1768年の戦争でオスマン帝国に勝利し、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約によって、ロシア商船の黒海内の自由航行、および黒海・地中海間の自由通行の権利を得て、通商活動において地中海への進出を果たした。同時に、ロシアはこの条約によって、オスマン帝国内のあらゆる場所に領事・副領事を置く権利や、黒海を取り囲むワラキア・モルドヴァ、クリム、カフカースにおいても一定の権限を獲得して、黒海・地中海への進出の重要な一歩を踏み出した。同条約によってロシアがオスマン帝国内のキリスト教徒の保護権を得たとする説があるが、それは誤りであり、帝国内のキリスト教徒臣民を保護するのは、ロシアではなくオスマン政府であったことは、指摘しておかなくてはならない。

ロシアの地中海進出にとっての次のステップは、18世紀末から19世紀初頭の時期であった。オスマン帝国にとって伝統的友好国であるフランスがエジプトに侵攻し、これに対してオスマン政府はイギリスと共に、長年のライバルであるロシアと同盟を結んだため、オスマン帝国をめぐる国際関係の枠組みはこの時期大きく変化した。オスマン政府は、ロシア艦隊と共同でフランス軍を攻撃すべく、同盟条約の中で、戦時に限りロシア軍事船のイスタンブル海峡通過を認め、ここにロシアは商船に加えて軍事船の地中海進出をも果たすこととなった。さらにロシアがオスマン軍と共にフランス軍から奪取したイオニア諸島は、1800年にイオニア共和国(七島共和国)としてオスマン宗主下で独立し、ロシア軍がその防衛を担うことになった。そのため、ロシアは地中海において軍事拠点をも獲得し、地中海世界におけるロシアの影響力はますます高まった。

しかし、オスマン帝国とフランスとの関係が正常化すると、ロシア・オスマン関係は次第に悪化し、1806年には戦争が勃発するが、そうした中1807年にロシアがフランスと結んだティルジット和約によってイオニアはフランス領となり、ロシアは地中海における軍事拠点を失って、ロシアの地中海進出は挫折した。その後19世紀を通じてロシアは、地中海の制海権を握ったイギリスと、オスマン帝国を挟んで対峙し、再度進出を目指して攻防を繰り広げることになる。

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